Vol.021|なにがギフテッドか
『MONOLOGUE』は、エッセイのようでいてコラムのようでもある、そんな型に囚われない備忘録を兼ねたフリースタイル文筆を、毎回3本まとめてお届けするマガジンです。毎週月曜午前8時に定期更新。何かと思想強めですので、用法容量を守ってお読みください。
なにがギフテッドか
「ギフテッドの私は社会に馴染めずこんなに苦労してきました」みたいなエピソードトークを見かけるたびに、なにがギフテッドかと言いたくなる。
そもそも論として、そういうのは自称するものじゃない。他人から言われるべきものであって、自称している時点でもうその凡庸さが透けて見えるというものだ。隠しきれない凡庸な自意識。もしかして……くぐり抜けていないのか、あの地獄を。ミサワという名のあの地獄を。歴戦のインターネット戦士たちは、みな地獄のミサワで自意識を磨いてきたというのに、まったくあなたがたはこれまで何をやってきたのだ。
彼らギフテッドもどきに声を大にして言いたいのは、真のギフテッドはギフテッドを自称しない、ということだ。他人からはそう言われ続けるものの、そんなものは意にも介さず我が道を突き進むのが、真のギフテッドたる姿である。「つれーわーギフテッドつれーわー、生まれてこのかたギフテッドはつれーわー」は、ギフテッドではなくミサワッドである。
なお、ミサワッドに関して綴りと読みはどうなってんだのツッコミは受けつけていない。こちとら勢いだけで話していることに留意してほしい。おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。
これはギフテッドに限らずだが、何かをアピールするということは、その人の中でそれが特別視されていることを意味している。そして、特別視されているということは、換言すれば「その水準が当たり前になっていない」ということでもある。
よくよく考えてみてほしい。人は自分の中で当たり前になっていることをわざわざアピールしたりなどしない。それが当たり前なのだから、そもそも意識にすらのぼってこないはずである。にもかかわらず、アピールに余念がないということは、その水準を特別視しているわけだ。
では、ある水準を特別視すると何が起こるのか。人はその水準を超えて成長することができなくなる。成長とは自己の中の当たり前の基準を更新し続けることだからだ。ある水準を特別視してしまうと、そこで歩みが止まってしまう。
過去の自慢話や武勇伝ばかりアピっているやつが痛々しくて見てられないのは、偉そうなことを語っているわりに、足を止めているからである。この乖離こそが嫌悪感の源泉であり、人はそれを直感的に理解する。それゆえ前へ前へと足を進め続けている人からは特に相手にされない。前のめりで生きている彼らにとって、過去の栄光にすがっているだけの終わった人を相手している暇なんて一切ないのである。
先ほどはあえて厳しく凡庸という表現を用いたが、実際はというとたしかに素質はある。仮に世界が100人の村だったとしたら、90人は凡庸な人で、9人がギフテッドもどき、1人が真のギフテッドである。この9人のギフテッドもどきたちは、与えられた素質を磨き、自己を洗練させていけば、真のギフテッドへと至る可能性がある。そのためには自己の中の当たり前の水準を更新し続けなければならない。歩みを止めたギフテッドもどきは、もはや凡庸な人カテゴリーである。
ギフテッドもどきが真のギフテッドへと至っているかどうかを判断するためには、社会との関係性を見るのがもっともわかりやすい。自己へと社会を服従させているのが真のギフテッドで、社会へと自己を服従させているのがギフテッドもどきである。それゆえ「ギギギ……憎い……社会が憎い……」みたいなムーヴをかましてくすぶっているのは、わかりやすくギフテッドもどきだといえる。
古代ギリシアの哲学者ソクラテスの代名詞といえば〝不知の自覚〟だが、ギフテッドもどきもまた自らの凡庸さを自覚することで、与えられた資質にあぐらをかくことなく、自己を磨き続けることができるのだ。この逆説的な言わば〝凡庸の自覚〟こそが、真のギフテッドへと至る扉を開く鍵なのである。
思想の再発明
「車輪の再発明」という言葉がある。すでに確立された技術や解決方法を、そうとは知らずに、あるいは無視して一から作り直す行為を指す。
つくづく思うのは、世の中には「思想の再発明」が溢れかえっているということ。科学分野においては、多くの人は自分の発想なんて価値がないことを誰に言われずとも自覚しているのに、なぜか自分の思想には無条件に価値があると錯覚している。
いや、そんなのは何百年も前に議論し尽くされたことで、何周遅れだよとツッコミたくなるような思想を、後生大事に抱えていたりする。大事に抱えるだけならともかく、人様にドヤ顔で講釈を垂れようものなら、もう始末に負えない。
巨人の肩の上に乗る必要があるのは、思想とて同じである。だからこそ、われわれは哲学を学ばなければならない。歴史にその名を刻むような哲学者というのは、前項を踏まえれば一人の例外もなく真のギフテッドだと考えてよい。そんなモノホンのギフテッドたちが積み上げてきた思想の歴史こそが(西洋)哲学史なのである。
哲学を学んでいない人間の思想が、ぺらっぺらで聞くに堪えないのはここに理由がある。思想の再発明に勤しむ彼らは、歴史から断絶されているのだ。思想的な厚みなど纏えようはずもない。
われわれは哲学を学ばなければならないが、学ぶだけではだめで、学んだ上で自分だけの哲学を打ち立てねばならない。巨人の肩の上に乗り、自分だけの景色を見つめねばならないのである。
近代哲学の祖と評されるカントは、こんなことを言っている。「人は哲学を学ぶことはできない。哲学することを学ぶだけである」と。また、毒舌家であり美文家としても知られる哲学者のショーペンハウアーは、こんなことを言っている。「哲学を学ぶことはできるが、哲学することを学ぶことはできない」と。
こうして二人の言葉を並べてみると「いや、結局哲学は学べるのか学べないのかどっちやねん。哲学と学ぶが渋滞しててややこしいわ」と、吉本新喜劇を揺り籠として育ち、学校生活そのものがNSC予備校という、実に独特かつ過酷な関西文化に慣れ親しんだ自分としては、反射的にそうツッコミを入れたくなる。
一見すると真逆のことを言っているように思えるが、実は二人とも同じことを言わんとしている。すなわち「先人が打ち立てた哲学を学んだ上で、自分だけの哲学を打ち立てなさい」ということを。
自分が本マガジン『MONOLOGUE』を通じてやろうとしているのは、まさにこれである。大げさにいえば成善主義(nariyoshism)の提唱。ただ思いつきで書いているわけではなく、それこそ根底にはこういう思想的背景がある。自分なりに先人たちが打ち立てた哲学を学び、その上で自分だけの哲学を打ち立てようとしているわけだ。
それは絶えず進化し続けるものなので、常に発展途上ではあるものの、その過程を伝えることに意義があると思って、こうして書き続けている。
哲学とは郷愁である
これほどまでに重要で、われわれを惹きつけてやまない哲学とは、いったいなんなのだろうか。
他人が打ち立てた哲学というのは、たとえるなら大工道具のようなものだと思えばよい。それらの道具を用いて、自分だけの家を建てるためにあるものなのだと。喧噪に疲れた時、逆境に挫けてしまいそうな時、そこに立ち返れば自分を取り戻すことができる、そんな聖域を自らの精神に鎮座させるための道具なのである。道具が自分なのではない。道具はどこまでいっても道具である。
そして、道具なのだから多ければ多いほどよいといえるが、使えないのなら少ない道具に精通しているほうがよほどマシである。目的はあくまで自分だけの家を建てることなのだから。決して使えもしないたくさんの道具を見せびらかして、悦に浸るのが目的なのではない。
二十世紀最大の哲学者と評されるハイデガー、彼は『形而上学の根本諸概念』の冒頭で、詩人ノヴァーリスの次の一文を引いている。
「哲学とはほんらい郷愁であり、いたるところで家にいたいと思う一つの衝動である」
このノヴァーリスの一文などは、まさに箴言オブ箴言だなと思う。これまでずっと折に触れて哲学とはなんであるかを考え続けているが、いまだこの一文を超えられていない。その気配すら漂ってこない。そう、まさにそう。哲学とは本来は郷愁、つまり「自分が立ち返るべき場所を追い求める衝動」なのだ。
哲学に手を伸ばそうとする人の人生というのは、だいたいにおいて膿んでいるものだが、ではそもそもなぜ人生が膿んでしまうのかというと、この文脈でいえば帰るべき家がないからに他ならない。これまでずっと他者から半ば強引に押しつけられた家に住んでいて、違和感を抱えて生きてきたものの、とうとう耐えきれなくなったからこそ、人生が膿んでいるのである。
とはいえ、現段階では帰るべき家もない。あったとしてもあばら家で、しかもその場所を見失ってしまっている状態である。
自分も経験があるが、この板挟みは本当に苦しい。なんせたとえ物理的には住む家があったとしても、精神的にはホームレスなのだ。この先自分はどう生きていけばいいのか、平穏な日々が訪れる時は本当にやってくるのか、絶えず襲いかかってくる不安と恐怖。当然ながら行政に頼ることもできやしない。
こうした精神的ホームレスから脱却する方法はただ一つ、一刻も早く自分だけの家を建てることだ。何者にも揺るがすことのできない強固な家を。
それは一朝一夕で為せるものではない。生涯をかけて徐々に、しかしながら着実に為されていくものである。そして完成へと至ることは生涯ない。
それゆえ自分もまた現在進行形で、増築したり、解体したり、リフォームしたりしている。長年をかけて工事をしてきているので、もはやかつてのように帰るべき家がなくて、途方に暮れるようなことはないものの、工事そのものをやめてしまったわけではない。今なお試行錯誤の毎日であり、これから先もずっとそうだろう。
どんなに地道であったとしても、どんなに時間がかかったとしても、決して「自分だけの家を建てる」ことから目を逸らしてはならない。辛く苦しい時ほど、人は今すぐ救われようと対処療法にすがってしまう。が、一時的に症状がおさまったとしても、根本原因を放置しているとすぐにぶり返し、ますます症状は悪化するばかりである。
自分はあなたに代わってあなただけの家を建てることはできない。それは他の誰であっても同じである。親兄弟であっても、親友であっても、恋人であっても、あるいは主治医や教祖であっても。他の誰であってもあなたに代わって、あなただけの家を建てることはできない。
けれども、道具であることはできる。自分がこのようなまるで一般ウケしないであろうテーマに言葉を尽くすのは、大なり小なり成善主義に共鳴してくれたあなたにとってよき道具でありたい、そういう思いが少なからずあるからだ。
自分だけの家を建てて帰るべき場所を見出し、もはや二度とその場所を見失うことはなくなった状態を「自己との和解」と呼んでいるが、ここまで読み通されたあなたのような人であれば、遅かれ早かれ絶対に自己との和解へと至り、あなただけの善を為して世界をよりよくしてくれる、そんな同志であることを自分は確信しているのである。


