ディアトロフ峠事件──めっちゃ詳しく詳細をまとめて色々な説を解説したりロシアのサイトから情報を深堀りしたのをまとめた件──
今回は2022年に配信で1時間かけて話しをした今世紀最大の未解決事件「ディアトロフ峠事件のめっちゃ詳しい詳細と深堀り」についてnoteにまとめたいと思います。
なお、ネットにあるような隊の悲惨なご遺体は一切ありません。
2022年に調べだしてから、今日までふとディアトロフ峠事件について新しい情報がないかと調べてしまいます。
今年(2025年)になり新説が出てきたりといまだ謎が多いこの事件。
ふと、過去のありとあらゆる事件の真相を知れるならと考えると真っ先にこの事件が浮かびます。
マイナス20度以下の雪山で当時なにがあったのか。どんな辛く怖い思いをしたのでしょうか。
皆さまも是非、考えてみて下さい。そして少しでも彼ら彼女らのことを思い、事件解明(本当の意味で)を願いましょう。
■事件概要
ディアトロフ峠事件とは、1959年2月2日の夜、当時のソ連領ウラル山脈北部で雪山登山をしていた男女9人が不可解な死を遂げたことで知られる事件である。事件があった峠は一行のリーダーであったイーゴリ・ディアトロフの名前から、ディアトロフ峠と呼ばれるようになりました。
当時のソ連の捜査当局、主任レフ・イヴァノフは「未知の不可抗力」によって9人が死に至ったとし、ソ連は事件後3年間にわたって、事件の発生した地域へ立ち入ることを禁じました。
■ディアトロフ隊について
一行の最終目的地は、事件発生現場から北に約10キロのオトルテン山に設定されていた。
そのルートは、事件当時の季節においては踏破難易度がきわめて高いと推定されたが、一行の全員が長距離スキー旅行や山岳遠征の経験を有しており、この探検計画に表立って反対するものはいなかった。
※一部webサイトでは「トレッキングを~」という表現があるが、そんな生半可なものではないです。
●ディアトロフ
グループのリーダー。大学のトレッキング部やそのグループでは一目置かれており、彼のグループに入ることを誰もが憧れていたが、実力を兼ね備えていないと入れなかった。
彼は当時のソ連では禁じられていた無線通信機を自身で作成し自宅で使用しており様々な山岳キャンプでも使用していた。
今回の旅にはかさばるという理由と、**第三級の資格(スポーツマスター)**取得のため、持参しなかった。もし持参していたら・・・。
●ドロェシェンコ
ジーナと恋仲で、彼女の両親に会うためにロストフ州カメンスクまで出向いた。
恋愛関係が解消された以後も、ジーナやディアトロフと良好な関係を維持していた。
トレッキング中に熊と遭遇し、地質調査用のハンマーで追い払ったという武勇伝がある。
●ゲオルギー
グループのムードメイカーで、マンドリンを奏でながらジョークをよく言っていた。
建築学や流体力学を専攻。
また、1957年に起きたウラル核惨事故で放射能除去の仕事をしていた。
これは後に明らかになったチェルノブイリの20倍規模の大事故で、被爆者は約45万人に上ったとされている。
●コレバトフ
核物理学専攻。几帳面で優秀な学生。
日記をメンバーに見せたがらない内向的な性格。
●リューダー
活発で歌を歌ったり踊ったりするのが好き。カメラもよく使い、よく見かける写真は彼女が撮ったもの。
ライフルの誤射で足を撃たれても80キロ踏破した武勇伝があり。
また熱心な共産党主義者としても知られていた。
●コリャ
共産党員の父はスターリン時代に処刑され、自身は強制収容所で生まれた。
エネルギッシュでユーモアにあふれ、誰にも不快な思いをさせない人格者。
「これが最後のトレッキング」と母に約束していたが、戻ることはなかった。
●ジーナ
きわめて外交的で多くの男性が魅了された人気者だった。
過去のトレッキング中、毒蛇に噛まれても荷物を自分で持ち、完遂する精神力の持ち主。
●ルステム
グループの中での「おぼっちゃんキャラ」。
物静かだがマンドリンを弾き、周囲を楽しませていた。
●ゾロタリョフ
当時37歳。最年長でプロのガイド的存在。
多言語(ロシア語、ポーランド語、ウクライナ語、ドイツ語)を話し、「サーシャと呼んでください」と自己紹介。
出発当日に急きょ参加。元々は別グループに帯同予定だった。
●ユージン
唯一の生存者。
旅の途中で持病のリウマチが悪化して離脱したため生還。
以後、ディアトロフ隊の調査に生涯を捧げた。2013年4月27日死去。
■事件詳細
1959年1月25日、スヴェルドロフスクを出発、数日かけてイヴデルへ到着。
そこからヴィジャイへ向かい、1月27日、登山を開始。
翌日ユージンが離脱し、一行は9人に。
ここから先の行動は、日記や写真から推定されたものとなる。
1月31日、原生林を進み、オトルテン山麓に到達。
食料や物資を分け、簡易シェルターを作成して一部を残置。
2月1日、悪天候で進路を誤り、**死の山「ホラート・シャフイル」**へ。
風をしのげる森林には行かず、斜面にキャンプを設営。
→多くのサイトでは、何故斜面にキャンプを設置したのかと書かれていることもあるが、これは資格条件(スポーツマスターという資格)のため、あえてそうした可能性が高い。
そして、この夜、9人に何かが起きました。
■救助隊派遣と調査開始
2月13日以降、家族が大学へ問い合わせ、2月17日には大学が調査を開始。
大学が派遣したのは軍事講師であるゲオルギー大佐。
ウラル大学は軍需産業と深い関係があり、著名な卒業生にはエリツィン元大統領や赤軍パルチザンの英雄クズネツォフがいる。
2月20日、軍・警察・学生・現地民(マシン族)を交えた大規模な捜索が開始。
ちなみにマシン族は「シュメール人の末裔」という説があります。
■テント発見(2月26日)
テントは斜面をならして設置
中には設営途中の暖炉(ディアトロフ自作)
テントは内部から3か所ナイフで切り裂かれていた
→テントに関しては中からナイフで切り裂かれていたという説が根強いが、
発見当時かなりずさんな管理方法だった(ただの遭難事件だと思っていた)為、救助隊がナイフで裂いた可能性もあるそうです。
上着、靴、リュック、パスポート、カメラ、鉄道チケットなどが残置
足跡は裸足もしくは靴下姿で一直線に斜面を下る形跡だった。
食事の準備中だった形跡もあり、ハプニング的な形でテントから出た(逃げた?)模様。
■遺体の発見と状況
最初に発見されたのは①②の5名。
残り4名は雪解けが進んだ5月にようやく発見されました。
ゲオルギー&ドロシェンコの発見時の様子
ヒマラヤスギの木下で、下着姿で発見
木の枝が5mの高さまで折れており、誰かが登った証拠と言われています
ディアトロフ・ジーナ・ルステムの発見時の様子
それぞれキャンプから300m、480m、630mで発見
全員、テントに戻ろうとしていた姿勢だった
発見が遅れた4名の発見時の様子
ヒマラヤスギからさらに75m先の渓谷で発見
4mの深さの雪の下から発見
ここからこの事件の最大の謎の1つメンバーの遺体の状況についてです。
苦手な方は飛ばしてください(画像はなし)
■遺体の詳細について
●ドロシェンコ
靴なし。ソックスに焼け跡あり
頭部の右側、燃えていた
手足に多くの傷、胸部圧迫による灰色の泡状分泌物あり
死後、遺体が移動された可能性
ゲオルギー
ほとんど下着姿。靴は履いていなかった。
手の傷とスギの木の状態から、木に登ったのではないかと推測されている。
鼻の軟骨は破壊され、顔の右側にひどい打撲が見られた。
彼の右目は損傷し、顔面の骨が折れていた。また、頬の皮膚には破損があり、口から血が流れていた。
全身に打撲や切り傷があり、その損傷の度合いから、戦ったか何かから逃れようとした様子が感じ取れる。
死因:低体温症。
●ジーナ
ジーナもテントから木の方へ向かっている途中で倒れたと見られる。
顔と手に擦過傷があり、特に鼻に赤黒い出血が見られた。
体は雪の中に部分的に埋まっており、衣類は着用していたが不十分な状態。
死因:低体温症。
●ルステム
他の遺体よりもしっかりと衣類を着ていた。
彼の頭部には激しい打撲傷があり、これが決定的な致命傷となった可能性がある。
また、右側の側頭部に骨折があり、この傷は車の事故や高所からの落下に匹敵する衝撃だったとされる。
しかし、外傷は少なく、内部的な損傷が中心だったことが謎を深めている。
死因:頭蓋骨骨折による外傷性ショック。
残る4人の遺体は、深い雪の中から発見されたが、その状況はさらに異常だった。
●リューダ
彼女は4人の中でもっともひどい損傷を受けていた。
肋骨が左右合わせて10本折れており、舌が失われていた(完全に欠損)。
目もなくなっており、口内と唇も大きく損傷していた。
このような損傷は強烈な圧迫力が加えられた結果と考えられる。
しかも彼女の服には高レベルの放射線が検出された。
死因:胸部の圧迫による致命的な内臓損傷。
●ゾロタリョフ
ゾロタリョフの遺体も胸部の肋骨が5本折れていた。
彼の遺体には目がなかったほか、口や頭部にも複数の損傷が見られた。
服にはリューダと同様、放射線が検出された。
しかも彼は軍歴を持っており、民間人の中で特に軍に近い立場だった可能性があり、謎を深めている。
死因:胸部圧迫による致命的な損傷。
●コレバトフ
比較的しっかりとした衣類を着ていたが、顔が大きく変形しており、目や眉毛が失われていた。
皮膚の損傷も激しく、強い放射線も検出された。
死因は外傷性ショックまたは低体温とされるが、明確には特定されていない。
●コリャ
頭部の損傷が著しく、頭蓋骨に亀裂が走っていた。
彼もまた比較的衣類を着ていたが、内部損傷と外傷のギャップが大きく、解明が困難とされた。
死因:外傷性ショックの可能性が高い。
当時の主任捜査官レフ・イヴァノフは、最終報告書に「不可抗力による死」とだけ記載し、ソ連は3年間にわたる現地立入禁止措置としました。
そして、事件から60年近くが経過した2019年、ロシア検察当局は再調査を開始。
その結果、2020年に「雪崩によるもの」とする公式見解を発表しました。
■事件の謎と諸説
被害者家族や当時探索した学生を中心にしたディアトロフ財団は事件当時から今にいたるまで、自然現象説を完全に否定しており、むしろ今から話す都市伝説要素の説を真剣に肯定しています。
個人的にも雪崩説に関しては確かに矛盾していて、スキー板がテント前に立っていたままだったが、なぜ雪崩が発生しテントも崩すほどの雪が降ってきたのにスキー板は倒れなかったのかっていう疑問はあります。
また、ディアトロフ隊はテントからまっすぐ斜面を下って逃げています。
もし、雪崩を恐れてテントから逃げ出したのであれば、雪崩に巻き込まれる危険性が高い斜面を下るでしょうか。
ベテランで経験豊富な彼らがなら、雪崩の心配のない、斜面とは別方向に逃げるはずです。
不可解な出来事/陰謀論
被害者家族やディアトロフ財団はソ連、ロシアの公式見解を否定しています。それは事件後に行われた彼らの葬儀からその疑念は始まりました。
彼らディアトロフ隊の葬儀はなぜかソ連の政府は共産党が葬儀の執行方法を管理し葬式は2日にわけて行うようにと指示をします。
そして、葬列(遺体を乗せた車を参列者が追いかける)は大学のキャンパスを抜けるルートを遺族はリクエストするも、政府が認めずなるべく目立たないルートで行うようにと指示を出したそうです
また、葬儀には友人家族関係者の他に警察、KGB(ソ連の国家機密保護組織)も参加していたそうです。
さらに最後に発見された4人の葬儀に関しては親族以外の参加は禁止され、その4人(ゾロタリョフ、コレヴァトフ、リューダ、コリャ)の葬儀は国指定の陸軍病院だったのです。
そして、4人の遺体を山から搬送をする際、空軍のヘリコプタで輸送をしたのですが、操縦していたパイロットが遺体を放射能検査をした上で適切な容器に入れないと搬送しないと遺体の搬送を拒否。
最終的に亜鉛で内張にした容器に遺体を入れ、完全に密閉するようにと要求してきた。
そもそも、なぜ遺体を放射能検査したのか。
調査主任をしていた地元検察官のテンパロフと、元軍人で州の検察官イヴァノフは当初から雪崩説を否定しており、殺人事件ではないかと疑い、そして放射能についても調査を進めたそうですが、ソ連当局に呼び出しをうけ放射能調査を打ち切ることになりました。
彼は呼び出し以降、消極的に調査をし5月28日に事件原因を「未知の不可抗力」と発表して事件調査を終了させることになります。
しかし、事件後イヴァノフは行った放射能数値の測定結果が出します。
それによると、遺体は当時ソ連が定めた放射能基準の2倍もの数値が検知されたそうです。
数か月も水や雪に浸ってたにも関わらず。
■ソ連軍の核事件被害説
ディアトロフ隊のキャンプ地はあるソ連の軍事施設と直線上にありました。バイコヌール宇宙基地と、沿岸部のチェルナヤ・グバを結ぶ直線上にあります。
バイコヌール宇宙基地では、スペースシャトルの試験発射場で、
チェルナヤ・グバでは核実験を行ってたと言われてます。
これらの周辺では頻繁に核実験やミサイルの試験発射などが行われていて、環境汚染から閉鎖された都市もありました。
ソ連がディアトロフ峠事件の事件現場であるウラル山脈付近をミサイルなどの発射実験場(何らかの目的で)密かに利用していたと噂が当時からあり、山では度々オレンジ色の火球が目撃されていました。
ディアトロフ隊は遭難した際にひょんなことからソ連軍の機密実験場に迷い込んでしまったことが事件の原因なのかもしれません。
■KGB、CIA関与説
ゾロタリョフ、コレヴァトフ、ゲオルギーの3人がKGBから何らかの密命を帯びたエージェントであり、そのミッション失敗の結果としてメンバー全員が殺されたという説があります。
急遽メンバーへの参加が決まったゾロタリョフが身分を隠していたソ連のNKVDでいわゆる諜報員だったからです。
NKVDは1934年から1946年までソビエト連邦に存在した組織で主に諜報活動や秘密警察などの組織。
さらにゾロタリョフというのは本名ではなく、 ロシア語、ポーランド語、ウクライナ語そしてドイツ語に通じていたそうです。
彼は合格率3%の徴兵制を通過し1941年10月から1946年5月までソ連の軍隊に所属。
4つの勲章をもらうほどの戦闘員で遺体を回収して調べてみると体に無数の入れ墨があり五芒星の入れ墨もあったそうです。
捜査隊が彼の遺体からメモ帳を発見し手に取った際、「なんてことだ」と呟いたと言われてます。その後、メモに何が書かれていたか聞かれた調査隊は「メモには何も書いていない」と話したそうです。
またコレヴァトフはモスクワで最高機密の科学施設で研究室の助手をしていた。
ゲオルギーは、ウラル核惨事で知られるマヤーク核技術施設でゲオルギーは除染するために送られた技術者の1人でもありました。
実はコレヴァトフの日記が見つかっていない為、コレヴァトフは日記に重大な機密事項が書かれているのではないかと言われている。
彼ら3人はCIAにソ連の放射能物質サンプルをCIAに渡す密約をしていたが実はKCGと内通しており、機密プロジェクトが失敗した為、メンバー全員殺されてしまったという説があります。
■雪男に襲われた説
ディアトロフたちはウラル工科大学で書学生新聞を書いていました。
その新聞に次のような記載が。
「現在、科学者たちは雪男が本当に存在しているかどうか、積極的に議論している。最新情報によると、雪男が北ウラル山脈、オトルテン山の周辺に存在しているそうだ」
それを裏付ける謎の写真が彼らのカメラからありました。
マンシ族はホラート・シャフイル山をして『あの山は2つの世界が混じり合う場所。こちらから向こうへ移ることが出来る。魂の世界へゆく事ができる』としており、妙な生き物がこちら側にやってくることもあり得るだろうと話をしていたそうです。
■UFO説
これは有名な一枚で、ゲオルギーのカメラから現像されました。
この一枚はフレームNo.34と言われています。
この写真は火の玉なのかUFOなのか。はたまたただのミスショットなのか。
写真がモノクロなのでAIに色付けをしてもらいました。
実はディアトロフ隊の捜査隊が早朝に火の玉をみています。
証言によると「輝くボールが空を横切って動いているのが見えました。みんなを起こした。20分間、ボール(または円盤)の動きが山腹の後ろに消えるまで観察されました」
これが先ほど話をした軍事陰謀説のR-7大陸間弾道ミサイルが発射された際のものではないかとも言われています。
実はディアトロフ隊が山に登った時期とほぼ同じ1959年2月17日、同じ地域でもこの火の玉が目撃されています。
この火の玉がUFOであり、彼らは宇宙人によって襲われたのではないかという説もあります。
そして、ディアトロフ隊の発見探索に参加した人物は、少なくとも4人のメンバーがテントの外にいて、大きく明るい白い光の現象を見ていたことを示す写真を入手しています。
この写真は唯一靴を履いて、しっかりとした服装を着ていたゾロタリョフ、コリャたちが写真を撮るために先にテントから出ていたことを裏付けることにもなります。
また、ディアトロフ隊が所持していたカメラから現像された写真はロシアのサイトで全て公開されています。
多くが経年劣化からかがピンボケしているのですが、ロシアのとある人物がピンボケ写真を3Dに再現しています。
この画像からは銃らしきものをもつ人物が誰かを取り押さえているようにも見えます。
また、明らかにおかしな「何か」が映っているピンボケ写真もあります。
本当にディアトロフ隊が撮った写真であるのかは定かではありませんが、
これが本当ならUFO説もあり得るかもしれません。
■さいごのまとめ
これで最後になるんですが、ロシア政府は自然現象が原因と結論付けしています。
ロシア、ソ連のことですので真相を隠蔽している可能性もあるし、ずさんな調査をしている可能性もあります。
9人の若者たちが、どれほど困難な自然と向き合い、どんな恐怖と闘ったのか。
真相が明らかになるその日まで、僕はこの事件を忘れず追い求めていきます。
今回は3年前に配信で話をした時点の情報をまとめました。
新説やほか説については(今年発表されました)また別の機会にまとめたいと思います。
長文最後まで読んで下さりありがとうございました。


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