ことし7月、私は新潟県立文書館を訪れた。「戦後80年」の取材で、終戦前後に作成された公文書を閲覧するためだ。一番の目当てだった「新潟への原爆投下計画に関する資料」は見つからなかったものの、開示された一覧を眺めていると、見慣れないタイトルの文書が目についた。
「連合軍進駐関係綴 秘」
終戦後、日本に進駐したアメリカなど連合軍に関する資料だ。作成したのは新潟県警津川警察署。600ページもある。試しに開くと、一部に驚くような内容が書かれていた。 連合軍兵士を相手にする「慰安婦」。つまり性接待に関する詳細な記録だった。
当時の日本政府が、米兵らによる性犯罪の増加を恐れ、彼らの相手をする場所「慰安施設」を全国各地に設けたことは知られている。だが、地域の警察によって作成された具体的な文書は、専門家によると非常に珍しいという。
読み進めていくと「女性を差し出して難局を乗り切ろう」とした日本の官僚らの姿勢が浮かび上がってくる。(共同通信=石黒真彩)
▽県内151施設
連合軍兵士を相手にする慰安施設の設置。その発端は旧内務省が極秘で発出した「外国軍駐屯地における慰安施設」に関する通達だ。敗戦のわずか3日後、1945年8月18日に出された。連合軍から日本人女性を守る「性の防波堤」をつくるのが目的だったとされる。
通達を受け、全国の警察が民間業者と協力するなどして開設を進めた。設置方法は自治体によって異なり、接客業者らでつくる「特殊慰安施設協会」(RAA)が運営したり、警察署が選定した業者が運営したりした。
業態は料理屋やカフェ、キャバレーなど。女性の募集には新聞広告が使われた。報道機関も加担していたということだ。
慰安施設は国内各地に広がり、神奈川県警察史の記載によると、1945年末に横浜市で「営業者数174、接客婦数355」。新潟県警察史によると、1945年10月25日時点で県内に151施設あった。
▽寝具類は清潔を保持すること
今回、取材の中で偶然見つけたこの公文書は、慰安施設の運用方針や細かい内規を記録したもので、初めて明らかになる内容も多い。1945年10月時点で新潟県内の駐屯地に7856人の兵員がおり、9月26日からの1カ月間で延べ1万2116人の将兵が利用したことも記されていた。
文書には、新潟県の警察部長が1945年9月19日、県内の各警察署長に宛てた通達が含まれている。その冒頭には、日本人を対象とした慰安娯楽施設の設営を「徐々に戦前に復帰させる」とある。そしてこうも書かれていた。「進駐軍を対象とする慰安娯楽施設の急速な設営は、風紀維持、不慮の事故防止のため喫緊の要務」
通達の主な内容は以下の通りだ。
【方針】
進駐軍に対する性的慰安を目的とする娼妓や接待婦の充足に努める。
【業態と営業地域】
特殊飲食店は進駐軍駐屯地と知事が指定する地域のみ。料理屋やダンスホールは連合軍駐屯地で必要と認められる地域。
【注意事項】
業態の許可、営業地域、建物の指定は警察部長に稟議の上、決定すること。業態に関する願い届けの手続きは極力便宜を供与すること。
【特殊飲食店の内規】
17歳未満、夫がいる者、未成年で親権者や法定代理人の承諾がない者は雇ってはいけない。
毎月2日以上休業させること。
接待婦は警察署長の指定する医師の健康診断を受けること。
妊娠中や分娩3カ月を経過しない接待婦は業務に従事しないこと。
客用寝具類は常に清潔を保持すること。
▽占領軍は共犯関係
こと細かく内規などが記されている。どう読み解けるのかを慰安婦問題に詳しい大阪大学の藤目ゆき名誉教授(日本近現代史)に聞いた。
「地域の警察による詳細な規則の公文書が初めて見つかり、貴重な発見です。各地の文書館にも一次資料が残っている可能性があります。都道府県の警察史に頼らず、元になった一次資料を見つけ出し、実態をつかむ必要があります。
『戦前に復帰』という言葉からも分かるように、日本の警察には戦前から女性の売り買いを管理するような制度がありました。占領軍は、そういう体制を利用する、いわば共犯関係にあったと言えます」
▽未経験の女性
ジェンダー史に詳しい文化センター・アリラン(東京)の宋連玉館長が注目したのは、内規の雇用条件に書かれていた「17歳未満」という年齢だ。
「日本政府は1900年、18歳未満は娼妓の対象外とする規則を設け、その後、国際条約にならって満21歳まで引き上げました。しかし内規には、17歳未満は雇ってはいけないと書かれ、再び雇用できる年齢が引き下がっています」
その理由は何か。宋館長は分析する。
「急に女性を集める必要があり、人数確保のために引き下げたのではないかと思います。
植民地(朝鮮、台湾)では、性接待に従事する女性の雇用条件が、日本より低年齢に設定されました。植民地などで勤務経験があるか、その知識がある官僚が定めたのかもしれません。未経験で性病にかかっていない女性を差し出そうとした可能性もあります。
いずれにしても、戦後、女性の人権はさらに後退したことが分かります」
内規では、妊娠・出産した場合の取り扱いも規定している。
「占領軍が避妊しないことを前提にしていたことが分かります。女性の健康を無視した非人道的な制度です」
▽だまして募集
公文書の中には、慰安婦を刺激的な広告やだまして募集するのが横行していたことが分かる記録がある。
県の警察部長が津川署長に電話で指導した記録には「従業婦獲得に狂奔」している実態があると書かれている。合わせて、政府から「募集公告を刺激的に新聞紙上に掲載」する現状を指摘されていることから、業者に自粛させるよう求めた。
さらに「慰安婦の周旋業者が誤大虚偽(原文ママ)なる言辞を弄し、紹介先を隠蔽し不正な紹介」をしないよう取り締まりを求めた。
記録からは、こうした募集が横行していたことがうかがえる。
▽事実上の強制性
「占領期の性暴力 戦時と平時の連続性から問う」(新日本出版社)の著書がある芝田英昭さんは、当時、女性が置かれていた状況をこう解説してくれた。
「業者が『衣食住の待遇が良い』とうその誘い文句で貧困女性をターゲットにした実態は、各地にあります。新潟でも同様だったとみられます。性を売る以外に生活費を得る選択肢がない女性にとっては、事実上の強制性があったと言えます。
警察が業者の営業許可と取り締まりの両方を担っていました。実際に業者の取り締まりが機能していたのかは疑問です」
▽目的は達成されず、性暴力増える
占領軍は、慰安施設をいくらで利用していたのか。
新潟県知事が内務省に実態を報告した文書には「性的慰安料金」の記載がある。1回20円、1時間以内30円、泊まり200円などとあった。
慰安施設は「風紀維持や不慮の事故防止」の名目で設置されたが、占領軍は「粗暴放漫となり各種事故発生漸増の傾向」と報告され、目的が達成されていないことも分かる。
宋館長に見解を聞いた。
「当時の公務員の月給が数百円だったことを踏まえると、将校向けの価格設定です。階級の低い兵士らは頻繁に通えず、結果として性暴力を誘発したのではないでしょうか」
文書には「進駐軍将校は料理屋・芸妓等の利用により満足し居る状況なり」とも記されている。
「戦時中に日本軍の慰安所を開設した経験から、占領軍を性的慰安で懐柔できると見積もった日本官僚の意識がよく表れています」
▽現代に残る発想
旧内務省は「慰安所」開設を全国に通達した際、急速に開設する必要があることから「あらかじめ内部的な手はずを定めて、外部に絶対に漏えいしないこと」と命じた。
最後に、近現代女性史に詳しい一橋大学の平井和子客員研究員に聞いた。
「秘匿のために資料を非公開扱いにしたり、破棄したりした自治体が多い中で見つかった貴重な資料です。施設の運営が地方でどのように実施、展開されたのかが手に取るように分かります。公文書全体を通して、女性を使うことへの葛藤や後ろめたさは感じられません」
平井さんは、戦後もその発想は変わらないと語る。
「戦後、女性たちは不可視化され、政府や占領軍の責任は十分追及されてきませんでした。女性を差し出して状況を乗り越えるという発想が、現代の社会にも根深く残っています」
【取材後記】今回紹介した文書は、新潟県警津川署が作成した「連合軍進駐関係綴 秘」。約600ページ中、少なくとも22ページに慰安施設に関する記述があった。新潟県立文書館が特定歴史公文書として保存されている。持ち出しはできないが、予約すれば館内で閲覧できる。