みなさんはいつ自分が歩けるようになったか覚えていますか? 自分が初めて発した言葉はなんでしたか?
幼少期の思い出として語られる「はじめての○○」。多くの親御さんは、きっとわが子がはじめて両足だけで大地と重力に立ち抗った瞬間を、生涯忘れはしないでしょう。
しかし、その感動も、「はじめて」が増えるごとに徐々にすり減っていく。「はじめて計算ができるようになった日」など、誰が覚えているでしょうか。それは、きっとある程度子どもが大きくなってきて、日々の出来事の中に「はじめて」が埋もれていってしまうから。
逆を言えば、異常な速度で計算を覚えたなら、それもまた、生涯語り継がれる「天才エピソード」として残り続けるはず。今回お話を伺った永田耕作(ながた・こうさく 24歳)さんは、「二足歩行より先に足し算を覚えた」そうで、両親を大層驚かせたとか。
一歳そこそこで計算機にハマり、年中から小学5年までに公文式の数学・研究コースを終え、小学4年生のときには、同学年約9万人の中で全国1位相当の成績をおさめる──まぎれもない天才。いまであれば「ギフテッド」と呼ばれるべき子どもでした。
このまま進めば、数学の天才としてきっと歴史に名を遺す__。ですが、現在彼は都内の教育ベンチャー企業で会社員として働いています。これには、両親や先生、親友など周囲の働きかけの力がありました。
天才から一転して「普通の人」になってしまった永田さん。にもかかわらず、彼は今の自分を顧みて「数学がちょっとできる“普通の人”になれて、すごく満足しているんです」と取材班に笑いかけました。
本記事では、「天才の予後」というテーマのもと、かつての神童たちの歩みをたどりつつ、才能を伸ばすことと、人として“まっとうに生きる”ことの間にある揺らぎを見つめていきます。
立つより先に足し算を覚えた
2001年、愛知県名古屋市に生まれた永田さん。まだ立つこともおぼつかない頃から、家にあった電卓に異常なほどの興味を示したといいます。
「よちよち歩きの時期から、電卓をずっと触っている子どもでした。立って歩けるようになる前に、簡単な足し算ならできるようになっていたらしいです」
室内はもちろん、外出時にも電卓から離れたがらない幼い孫を見て、祖父は首からぶら下げられる“ポータブル電卓”仕様に改造。公園で遊ぶときも、彼の胸元にはいつも電卓が揺れていました。
数字への熱意は、成長と共に一層ヒートアップしていきました。幼稚園の自由帳には、好きなキャラクターでも家族の似顔絵でもなく、「1,2,3,4,5…」とひたすら数字が並びます。1冊目の最後の数字の続きから2冊目が始まり、3冊目の途中で途切れた数字は「3266」。
「これ、ランダムな数字を並べているんじゃないんです。よく見ると、3503,3504,3505……と途切れなくカウントアップしている。周りの子たちが絵を描いている横で、僕だけずっと数字を数え上げていました。迷路を自作したり、マンションの家賃表みたいなものを書いたりもしていましたが、とにかく“数える”“並べる”ことが好きだったのでしょうね」
年中の夏休み、転機が訪れます。父のパソコン画面に映った「公文式 無料夏期講習受付中!」のバナー広告に目が留まり、その場で「やりたい!」と訴えました。「無料ならいいんじゃない?」と、そこまで乗り気ではない両親に対して、永田少年は数字を扱う学問「数学」の世界へのめりこんでいきます。
公文式はレベルごとに200枚の教材があり、これが終わると次のレベルへ先取りもできる仕組み。週2回しか通っていないにもかかわらず、彼は驚異的なスピードで教材を推し進め、ついには教室長すらも採点できない研究コースまでたどり着いてしまいました。
実際に、小学4年生のとき、学年ごとに集計される公文の全国進度テストで、同学年約9万人の中で「全国1位」に該当する成績をおさめており、異例の「あがり」を果たします。
家でも教室でも、数字と計算に没頭する日々。夢も「寿司職人」「ピアノの先生」「プロ野球選手」と移り変わりつつ、最終的には「数学の先生」へと落ち着いていきます。小学生の頃の永田さんは、周囲の大人から見れば、将来有望な“数学者候補”に見えていたかもしれません。
しかし、ご両親含め、周囲の反応はいささか冷たかった。
「正直、みんな心配していました。体育大学出身で、運動一筋だった母からすれば、数字ばかり書いてドッジボールもやらない息子は“怖い”存在だったはずです」
公文を辞めたあとは、算数に触れる時間は「ご褒美」として制限されたそう。代わりに、家族や友達と遊ぶこと、外で体を動かすことを優先するように、意識的に環境を整えられていきました。
「このままじゃプレーヤーとして出せない」
小学4年生になると、野球好きの父の影響もあり、野球部へ。運動神経にはあまり自信がなかったものの、破天荒ながら情に厚い顧問の先生のもと、少しずつ上達していきました。
中学に進学しても野球部に所属し、勉強一辺倒とは違う「集団スポーツの世界」に身を置き続けた永田さん。ですが、彼の中には「レギュラーを勝ち取るために努力しているのに、なんだか空回りしている」ような空虚さが残ります。そんな中学2年の夏、決定的な出来事が起こりました。
「ある日、野球部の先生に呼び出されて、『このままだと、お前をプレーヤーとしては出せない』とはっきり言われたんです。技術の問題というより、『周りが見えていない』『集団でスポーツをやる時に力を出せない』んだ、と」
永田さんは、当時の自分を「かなり、余計な一言が多くて距離感を誤るタイプ。今風に言えば”アッパー系のコミュ障”だった」と振り返ります。良かれと思って放った一言で、場の空気を凍らせてしまうことが何度もありました。
「例えば、何かトラブルがあって、みんなで試行錯誤して解決したとしますよね。『解決してよかったね~』と戦勝ムードの中でも、つい『なんでこんな無駄な回り道をやったの? 最初からこうすればよかったじゃん』と言ってしまう人。それが当時の僕でした。誰かを責めたいわけじゃないのに、口から勝手に出てしまう。言った結果どうなるか、想像する力が決定的に欠けていました」
先生からの言葉を受け、永田さんは幼稚園からの幼なじみであり、中学野球部のキャプテンでもあった友人に相談します。
「長年の付き合いだからこそ、彼ははっきりと言ってくれました。『お前、一言多いんだと思う』って。具体的な場面をいくつも出しながら、『こういう時は、こう言った方がよかったんじゃない?』って丁寧に教えてくれたんです」
「傷ついたけれど、それ以上に大きいものが得られた」。その言葉は、永田さんにとって衝撃的でした。同時に、「どうすればいいか分からないまま、人を傷つけていた自分」に初めて気づくきっかけにもなります。
意識的に言葉を飲み込み、相手の表情を見てから話す。野球の練習でも、試合の場面でも、「チームの一員としてどう振る舞うか」を考え続けるようになりました。やがて中学3年生になる頃には、試合にレギュラーとして出場できるまでに信頼を取り戻します。監督からも、「いろんな意味で人間的に成長したな」と声をかけられました。
「中学が、完全にターニングポイントでしたね。小学生の頃は“変わった子”で済んでいた部分も、中学になると周りも大人になってくる。あのタイミングで『お前、このままだとやばいぞ』と言ってもらえたのは、本当にありがたかったです。
平成から令和への過渡期に生まれたからこそ、僕は成長できたのかもしれません。いまは個性を伸ばすからとなかなか周囲が個人の性格や特性に言及しにくくなっていますよね。ただ、もし僕がみんなに半ば放置されていたら、今の僕はここにいないでしょう。
『個性を尊重しよう』という風潮自体はとても大事。一方で、先生が『君はちょっとずれているよ』と伝えにくくなっている面もある。親が学校に出てきて揉めてしまうケースも耳にします。僕の時代はまだ、ギリギリ“愛のある指摘”が届く環境でした」
天才ではなく「バランサー」へ
その後、永田さんは愛知県立明和高校に進学し、野球部で汗を流しながら受験勉強にも打ち込みます。紆余曲折ありながらも、2020年に東京大学理科一類に現役合格。教育学部基礎教育学コースへと進学しました。
大学1年の頃からは、株式会社カルぺ・ディエムでインターンを開始。高校への出張授業や進路プログラムの企画・運営に関わり続け、現在は同社で教育事業を担う社員として働いています。
「メインの仕事は、高校生向けの講義パッケージを作ることです。『勉強って何のためにやるの?』『なぜ今この科目に向き合う必要があるの?』といったテーマで、授業を設計し、実際に学校で話したりもしています」
社員としては1年目ですが、教育現場に立ち続けている期間はすでに5年。営業として学校を回りつつ、「現場を知っている講義設計者」という社内でも珍しい立ち位置を確立しています。
そんな現在について、永田さんは「天才ではないと思っている」と言い切ります。
「人間には無数のパラメータがあると思っていて、昔は数学とか集中力みたいな一部のパラメータが飛び抜けていた。その代わり、コミュニケーションやチームで動く力は明らかに低かった。でも今は、数学のパラメータは当時より下がっていると思う一方で、他の項目がだいぶ上がって、全体としては“バランサー”になった感覚があります。天才って「一極集中」な代わりに、突出しているイメージがあるので、少なくとも今の僕は天才ではないのかなと。
『天から授かった才』っていう意味で言うなら、二足歩行より先に足し算ができていた幼少期の自分は、確かに天才でした。でも、そこから東大合格まで持っていったのは、才能だけじゃなくて努力や環境の影響が大きい。いまの僕は“ギフテッドだった経験を持つ秀才”くらいの方が、しっくりきます」
今の永田さんの生活は、とても「普通」です。仕事仲間や友人と飲みに行き、地元の幼なじみと定期的に会ってライブに行く。たまにバッティングセンターで汗を流し、野球観戦に心躍らせる──そんな日々を「楽しい」と言い切れることこそ、「天才から普通になれた」ことの証なのかもしれません。
親は「何をさせ、どこまで止めるか」──“天才の予後”から見える子育てのヒント
「子どものやりたいことを尊重しよう」
「子どもの自主性を大事にしよう」
近年、教育現場でもSNSでも目にする機会が増えたメッセージです。それ自体は大切な価値観ですが、永田さんは「それだけでは語りきれない」と感じています。
「そもそも、何も知らない状態で『やりたいこと』がはっきりしている子どもの方が、むしろ“ギフテッド”なんだと思います。僕の場合は、たまたま家に電卓があって、それに異常に惹かれた。でも、多くの子は、野球ボールもサッカーボールもピアノも知らないまま生まれてくる。何にも触れていなければ、『やりたい』なんて言いようがないんですよね」
だからこそ、「芽生えた好奇心は尊重すべきだし、その前段階として“選べるだけの選択肢”を用意するのは親の役目だ」と続けます。
母親が幼少期から野球に触れる機会を用意してくれたのも、公文を辞めてから算数の時間を制限し、「外で遊びなさい」「友達と関わりなさい」と強く働きかけてくれたことも、結果的には自分を「人間として」守る判断だったと受け止めています。
なかでも象徴的なのが、「水恐怖症」と向き合ったエピソードです。
「小さいころ、僕は極端な水恐怖症で、海を見ただけで泣いてしまうくらいでした。学校のプールなんて、当然無理。授業をずる休みしたエピソードももちろんあります。今ならきっと『水に触れないでも生きられる』というのかもしれない。でも、僕の両親は、泣きじゃくる僕を問答無用で近所のプール教室に叩き込んだんです(笑)
もちろん、ふざけ半分とか虐待ではありませんよ。大人になっても水が怖いままだと、最悪の場合“命に関わる”と親が判断した結果でした。最初の2日間は水に顔をつけることすらできず、僕は号泣して抵抗しました。でも、最終的には蹴伸びができるようになり、人並みには泳げるようになった。今振り返っても、あれは本当に行かされてよかったと思っています」
「やらせる/やめさせる」の境界線は、「それを避け続けることで、人生や安全に明らかな不利益が生じるかどうか」で引くべきではないかと永田さんはそう考える。
「ピアノをやらなくても、それで人生が詰むことはあまりないと思う。でも、泳げないまま大人になるのは、やっぱり危険。だから、そこは“親の誘導”が必要なラインでしょう。一方で、電卓に夢中だった幼少期の僕から、電卓を取り上げることはついぞありませんでした。
親子で公園デビューしたとき、首から電卓をぶら下げた幼児なんて、周りの保護者からしたら、明らかにヘン。それでも、祖父も両親も、『まあ、この子はこういう子なんだな』と受け止めてくれた。変な視線を浴びる覚悟も含めて、『生えた個性はつぶさない』というスタンスでいてくれたことには、本当に感謝しています」
「子どものやりたいことを尊重する」「親が多少は“型”を提示する」。この二つはどちらか一方を選ぶものではなく、その子の安全と将来を見据えながら、状況に応じて組み合わせていくものなのだと、永田さんの人生は教えてくれます。
天才ではなくなったことは、失敗ではない
もし、中学の野球部で厳しい言葉をかけてくれる大人や、本音で指摘してくれる幼なじみがいなかったら。もし、スポーツを嫌がる子どもを前に、「好きなことだけさせておけばいい」と両親が割り切っていたら。
永田さんの「予後」は、まったく違うものになっていたかもしれません。
「正直、超進学校に行って、数学の才能だけを徹底的に伸ばすルートもあったと思います。そうしていたら、今より数学はずっと“強かった”でしょう。でも、コミュニケーションを犠牲にしてまでその道に進んでいたら、僕は今ほど人生を楽しめていない気がします」。
天才でなくなった代わりに得たもの──それは、「普通に人と関われること」そのものです。
友達とライブに行く。仲間と野球観戦で盛り上がる。高校生の前に立ち、「勉強ってしんどいよね」と笑いながらも、「だからこそ一緒に考えよう」と語りかける。教育の現場で、“ちょっと数学ができる普通の大人”として生徒と向き合える自分。
そのどれもが、「歩くより先に足し算を覚えた幼児」の頃には、想像もつかなかった未来でした。
「『天才の予後』って聞くと、才能がしぼんでしまったような印象を持つかもしれません。でも僕にとっては、天才だった頃の“尖り”を少しずつ丸くしていった結果として、“普通に楽しい”人生が手に入った、という感覚に近い。
生まれ持った“おかしさ”は、大切にしていい。でも、それだけでは人の中で生きていけないとき、誰かが『そのままだと困るよ』と伝える必要もある。子どもの“天才”と向き合うことは、きっとその両方を怖がらずにやっていくことなのでしょう」
子どもの才能を見つけたとき、親や教師は、ときに不安になります。伸ばすべきか、抑えるべきか。どこまで任せ、どこから介入するべきか。永田さんの物語は、その問いに対して一つの答えを示してくれました。
「天才から普通になれた」。その言葉の裏には、「生きやすさ」と「他者とともにある喜び」を選び取った、一人の人間の長い時間が流れています。そして、そんな「普通に楽しい」未来こそが、多くの子どもたちにとっての、いちばん豊かな“予後”なのかもしれません。