◆生々流転 ~ぼくたちは神に見放されたのか~
2025年2月某日。
わたしは夫と、三種の神器のひとつを祀ることで名高い、とある神宮の境内にいた。
基本的には楽観主義で、余程のことがない限り大抵どんな時でも明るいマインドセットを崩さない夫の横顔は、今は少しばかり緊張して見える。
事前に打ち合わせてここへ来ることを決めていたにも関わらず、あぁ、やだな…と、夫は溜息をついた。
彼の憂鬱の原因は、寺社仏閣における儀礼である。
寺ならば合掌。神社ならば二礼二拍手一礼。
彼はそのいずれも、礼以外の儀礼を完璧にこなすことができない。
正確に言うと、こなすことが「できなくなった」のだ。
なぜなら彼は、8年前に肩から下の左腕を、まるごと欠損してしまっていたからである。
夫とわたしは、伴侶兼30年来の友人だ。
共通の友人の家で知り合い、そこから集団を抜けて二人きりで食事に行くようになるには、そう時間はかからなかった。
ただ、互いに互いを異性として意識することは全くないままに、逢瀬(?)はどちらかに付き合っている人がいる間も連綿と続き、会うたびに夜が更けるのも忘れて夢中で語り明かした。
話題は音楽・漫画・ゲーム・歴史・政治・哲学・宇宙と多岐に渡り、時にはそこに宗教やオカルトの話題が混ざることもあった。
あの頃の彼の興味は四方八方に散らばって、ひとつところに留まることを知らず、神や怪異の存在も、まるで在るものの如く語っていたはずなのだけれど。
腕を失ってからの彼は、徐々にオカルト的なあらゆるもの、そして神からさえ、少しずつ距離を取るようになったかに見えた。
彼の家系は代々が敬虔な正教会の信徒で、熱心とまでは行かずとも、彼自身もそれなりにキリスト教徒である自分に誇りを持っているように見えたのに。
「昔よりは、どうでも良くなっちゃったんだよね」
時折、彼はそう零すようになった。
別に、左腕を失ってしまったことにかこつけてこの世の全てを憎むだとか、神を恨むだとか、そういうわけではない。
ただ淡々と、恰も恋が冷めるが如く、それらのことから身を引いていった。
わたしたちが結婚したのは、彼が腕を失ってから1年と2か月後のことだ。
ただの異性の友人から結婚に至った経緯は筆を改めて書く時が来るかも知れないが、ともかく、5歳も年下の弟のような友人が一人の男として、そこから更に踏み込んで「夫」という存在になってからというもの、わたしから見た彼という人間に対する印象が一変したことは言うまでもないにせよ、本来の彼が持っていた人としての根幹を成す部分までもが些か揺らいだように見えたのは、やはり肉体の一部分を欠損するに至ったことが大きく影響しているであろうことは容易に想像がついた。
ただわたしは、人生の何もかもが変わってしまって、まだそれらを受け入れ切れていない段階の彼と結婚したために、彼の変容が結婚という社会的立場の変化によって起きたものなのか、それとも、欠損という肉体の変化によって起きたものなのか、すぐには見分けることができなかった。
それは多分、彼自身がいかなる理由にせよ、自分自身が変容したことを他者にあれこれ詮索されぬよう、意図的にいつも通りに振舞っていたことにもよるのではないかと思う。
ここから、彼の変容について事細かに筆を割くことはできるが、本稿のテーマにはあまり意味を成さない情報もたくさん含まれているので、必要と思われること以外は割愛する。
わたしがもっとも驚いた変化のひとつは、神仏や占い、新興宗教、スピリチュアル、オカルトなど、とにかくそれまでは比較的好きだった目に見えない何かに纏わる世界に対して、時に非情なほどの攻撃性を見せるようになったことである。
友人として夜な夜な語り合っていた頃には、まずそんなことはなかったのだが、腕を失ってからの彼は、時折酷く暴力的な口調で拝金主義の寺社仏閣やスピリチュアル的なものに対して罵詈雑言を吐くようになった。
どうして?という気持ちがなかったわけではない。
結婚するまでは、いつも穏やかで楽しそうな彼しか知らなかっただけに、いざ蓋を開けてみれば、農家を営む少し武骨な肉体派おじさんだった彼に対して鮮やかな驚きがあった以上に、神仏や宗教に対する姿勢の変化は心に引っ掛かるものがあった。
ただ、結婚当初は彼自身が左腕を失って2年にも満たなかったために、障がい者の就労支援施設で長く働いていたわたしは、彼の変化に対する疑問には、そっと蓋をしておく方が良いだろうと判断したのだ。
事情が何となく見えてきたのは、結婚して2年目の晩秋のことだった。
彼の叔父さんが亡くなり、初めて2人で葬儀に参列することになった時のことである。
何しろ腕を失った彼が、一族郎党が一堂に会する場に姿を現すのは初めてのことだった上に、わたしたちは結婚式を挙げていなかったので、あれこれと噂好きの親戚たちが彼のもとに入れ代わり立ち代わりで殺到する事態になった。
しかし、その時も彼は特段いつもと変わった様子もなく、腕の質量が入ってない袖を振り回してみたり、にこにこと愛想よくわたしを紹介するなどして、むしろ上機嫌にさえ見えたのだ。
空気が変わったのは、亡くなった叔父さんに、まずはお線香をあげてこようという話になった時のことである。
「おれ、もう、お参りできないんだよな」
ぽつり、と彼がそう零した。
わたしはふと彼の顔を見て、次に言うべき言葉を探した。
こういうとき、多くの人は「別にきちんと両手を合わせられなくても、気持ちがこもっていればいいんだよ」と言うのではないだろうか。
わたしも一瞬、そう言おうとした。
しかし同時に、もはや誰よりもよく知ったこの男が、素直に「そうだよね。心があれば、形なんていいよね」などと都合のいいことを宣うとは思えず、出かけた言葉を呑み込んだ。
彼は絶対に、こう言うのだ。
「心さえあればいいなら、どうして儀礼があるんだよ?」
まだ言われてもいない言葉を前に、わたしは立ち尽くした。
夫は、それでもとりあえず神妙な面持ちで、片手だけの合掌(この言い方もおかしいな)をして、わたしのお参りが終わるのを待っている。
どうして?
わからない。
心さえこもっていればいいのなら、どうして儀礼があるのか。
別に、合掌ができない隻腕の夫の姿を見て、あいつは儀礼を疎かにしている…という人は居ないだろう。
それでも、例えば儀礼を知らない外国の方や、年端もゆかぬ子供が寺社仏閣を前にしたとき、わたしたちは彼らにも、願わくば儀礼通りに振舞って欲しいと思う側面はないか。
彼らに、祈り敬う気持ちがないとも限らないのに───。
一見気のいい楽天家に見えて、身内になってみると存外偏屈な夫は、まだ腕を失って間もないがために「合掌ができない」という一点に過敏になっているのかも知れない。
ただ、合掌という儀礼をもって、これまでたくさんの親戚や友人知人を見送ってきた彼にとって、その行為が「できなくなった」という現実は、殊更に重く肩に圧し掛かったのだろう。
そのことに、わたしは無性に腹が立ってしまった。
そしてそれ以来、わたしもまた神仏や目に見えないものに対して、日に日に冷めてゆく気持ちを止められなくなってしまったのである。
この記事は、書くかどうかをかなり悩み抜いた。
何しろ、わたしの職場にはたくさんの身体障がいの方たちが居て、彼らはほとんど皆、神仏に対して自分なりの折り合いをつけて向き合っている。
「祈る心」は儀礼があってもなくても同じなのだ。それも一面、真実なのであろう。
だから、こんな風に殊更に、目くじら立てて神仏への儀礼を糾弾したくなるような気持ちになるのは、夫がまだ障がいを背負って間もないからで、わたしも障がい者の夫を持って間もないからで、世の中の多くの障がい者の方たちは、もっと早くにこんな壁に当たり、疑問を抱き、悩みに悩み抜いた結果、それぞれの立ち位置に居られるのであろうことは百も承知なんだけれども───。
それでも、敢えてわたしは書くことにした。
今、目の前の格式が高いという神の社の前で、二礼二拍手一礼ができない事実に、悔しそうに唇を噛みしめている夫の背中を見て、書かなければならない、と思ったのだ。
実は昨年、わたしが独身の頃から娘のように可愛がっていた愛犬が、虹の橋の向こうへと旅立ってしまった。
それからわたしたち夫婦は、彼女を失ってしまった空白の辛い時間を無理やり埋めるようにして、休日という休日を旅行に費やした。
そして行く先々で目にしたのは、国内なら都会・田舎問わずどんな地域にも必ず、しかも場所によっては驚くほどの一等地や高級住宅街にある寺社仏閣だ。
いつの世も救いを求める人の心がある限り、そりゃ宗教がなくなることはない。今なんてスピ再ブームだし。それはいいのだ。
お寺の車庫に高級外車が停まっているのもたくさん見た。
いや、うん。別にいいんだそれも。時代は変わるものだ。
格式高い神社で何かを買う時も、券売機が設置されていた。あとチケット販売ブースみたいなビカビカのガラス張りのスペースの中にお坊さんが3人も並んで売り子をしているお寺もあったっけ。
しかも何と、今やお賽銭を電子マネーでも払えるんだとか!すごいね!!
…いや、いいんだマジで。変わるのは全然いい。
ただ、わたしが言いたいのは、だ。
そんなとこばかり随分と時代に合わせてブラッシュアップしてるくせに、多様性のこの時代に、何で根本的な祈りの心を司る儀礼がきちんと「手を合わせるという行為が難しい人」にも寄り添われていないのか、ってことなのだ。
そんなにあらゆる手を使ってお金を取る方法が整備されてるんなら、手を合わせるのが難しい人のための儀礼も整備できないものなのか。
「基本はこの形なんだけど、できない場合はこうします」みたいな。
きちんと定められていたら、それはちゃんと公式の儀礼ということになるのではないか。
少なくとも、神や仏に祈るための儀礼を正しく執り行うことができないがゆえに辛い・寂しい想いをする人が少しは減るんじゃないだろうか?
何だって略式のこの時代に、形ばかりは仰々しいままに支払い方法だけが洗練されてゆく歪さ。
もちろん、ずーっと変わらないままに伝統と格式を守り続けている寺社仏閣も数あろうけれど、派手なものほど目立つのはどこの世界も変わらない。
わたしたちの少し尖ってしまった目には、このことがとても虚しく映ってしまうのだ。
左腕を失ってしまった夫が、とうとう自営業の農家を辞める決断をした時、鬱状態になってしまったことがあった。
親から受け継いだ大切な土地を手放し、経営者という肩書も失うことになったとき、初めて左腕がない自分という抜き身の存在と向き合った彼は、生まれついての明るい精神性をぼろぼろに崩壊させ、苦しんでいた。
そういう時こそ本来、神々が救いになるのではなかったのだろうか。
わたしは出来る限り彼に寄り添い、一瞬でも、少しでも、食べたいと思ったもの、したいと思ったこと、行きたいと思ったところ、全てに従った。
そのあいだ、一度たりとも彼が神や仏に祈る姿を見たことはなかった。
だって、彼はきちんと祈ることができないという事実にさえ、打ちのめされていたのだから。
正しく祈ることが出来ないわたしたちは、神に見放されてしまったのだろうか。
神様が歓迎してくれたら風が吹くというその神社で、わたしは些か挑発的な目をしていたかも知れない。
周囲には『パワースポット』とやらの恩恵を受けようとする人の群れが溢れんばかりにひしめいていた。
わたしたちの順番の時に、風が吹いたかどうかはわからない。
ただわたしは、これ以上彼が孤独を感じなくて済む世界がやってきますようにと、そればかりを祈った。
終
追記:
後日調べてみたところ、そもそも「二礼二拍手一礼」自体が最近になっての儀礼だ!とか、あれは後発の正しくない儀礼だ!なんて声もあるらしい。
どっちよ??
これでますます揺るがないのは集金システムだけということになってしまったじゃないか。
よくよく考えてみれば、一銭たりとも自らの懐に入るわけでもないのに願いばかり投げつけられる神様も大変だよなぁ。
あとひとつ誤解のないように言っておきたいのは、わたしたちは神や仏や霊的なものの存在を頭ごなしに否定しているわけではないです。
むしろ本質的な神とは一体何なのか?とか、魂はどこへ行くのか?というような話を未だに夜更けまですることはある。
ただ、ちっとも弱者やマイノリティの苦しみに寄り添わない割には金だけしっかり取っていく界隈の空気に物申したいだけなのかも知れない。
特に昨今のスピ界隈には看過できない歪みを感じています。
金さえ払えば苦しみから解き放たれて幸せになれるなら誰も苦労はしないのよねえ。



コメント
11『片手で十字を切れるのに、それでは満足できない。両手がない人はどう祈ればいいんだ?』と、普通の人はそこまで苦悩なさりません。旦那様とアサ様は宗教家が悩むような問題で悩んでおられるように見えます。
だって、普通の人は自分さえ納得できればそれで良いんです。でも宗教家はそうじゃない。「他の人を救うにはどうすれば良いんだ?もっと多くの悩める人がいるじゃないか!」と悩むんです。
なるほど、アサ様はそういうお人だからこそ、ご結婚前にキリスト教徒の集合体に遭遇されたのだなぁと運命の不思議を感じました。
旦那様とおふたりで、直接神に想いをガンガンぶつけてみてください。「なんで助けてくれへんねん、アホボケカスー!」と祈っても良いと思います。神はアホほどデカいのでそのくらい大丈夫です👌
そんなにご大層なものでもないのですが😅多分2人揃って偏屈なんでしょうね🤣
考えてみれば、わたしたちこそが拝金主義者たちに振り回されて本質が見えなくなっていたのでしょう
心をもっと大切にしていきたいものです
こんにちは。
う~ん、考えさせられます。私も常々、障がい者やお年寄りこそ神様の助けが
必要かと思うのに、なぜ神社仏閣って古くから長い長い階段が多いのだろうと
思っていました。
あと、夕方のニュース等で賽銭泥棒を追及すべく徹底的に複数の防犯カメラで
やっつける様子を放送したり。賽銭箱って本当に困った時に余裕がある人が
入れたお金を拝借して、必ずいつか返しに来ます!っていう、その為に
防犯緩めに出来ている箱なのかと思ってました。本気で盗られないように
造ることって全然やれば出来そうだから。そんな幻想は昔々の平和で
寛容な時代にあったのかなかったのかも定かじゃないですよね(-_-;)
ただの私の妄想なんだな。
そりゃ、盗っちゃいけないのは大大大前提なのは分かっているんです。
水仙さま
コメントありがとうございます🙏
仰る通りですよね
本来何より弱者に寄り添ってくれそうな場所がふんぞり返っているのです
疑問と不信感がどうにも拭えません
神様って一体、何なのでしょうね…