いりや/古怒田望人@単著『クィア・レヴィナス』重版出来✨(they/them/いりや)

28.8K posts
Opens profile photo
いりや/古怒田望人@単著『クィア・レヴィナス』重版出来✨(they/them/いりや)
@ilya_une_trace
研究者・物書き/Ph.D.(人間科学)/Drag・Genderqueer/『クィア・レヴィナス』/哲学/現象学/ベルサーニ/クィア理論/トランスジェンダー研究/ポケモン/『フェミニスト現象学』/『現代思想』『ユリイカ』等寄稿 /ツイート転載禁止/ お仕事のご依頼→ilyaunetrace@gmail.com
これまでのお仕事一覧⬇️researchmap.jp/ilyaunetrace/Born December 25, 1992

いりや/古怒田望人@単著『クィア・レヴィナス』重版出来✨(they/them/いりや)’s posts

「私、ゲイの人に会うの初めてです〜!」と嬉々として話すノンケの客に対し、ゲイのママが「ゲイなんてこの世にごまんといて、あんたの周りにもいたはずなのに、あんたにゲイだって誰も告げなかったってことは、あんたのこれまでの振る舞いに差別的な所があったからよ」と返していてなるほどと思った。
ほぼ義務教育不登校から大学に進学した頃、地元の人たちに「お前なんかが大学行っても金の無駄でしかない」と言われた。ままならないけど首席で学部を卒業して、修士号をもらって、奨学金も全額免除になって、今もちゃんと研究を続けられているよと、独り泣いていたあの日の自分を抱き締めにゆきたい。
『クレヨンしんちゃん』のオカマキャラが政治的に正しくない表象として批判されるべきなのはもちろんなんだけど、クローゼットのクィアだった子どもの頃の自分にとって、しんちゃんのオカマキャラはキラキラ輝くエンパワメントの対象だったので、そのときの気持ちが何だったのかちゃんと言葉にしたい。
10人に1人の割合でセクマイがいること、義務教育の段階から包括的な性教育をいれるべきであることも話してました。NHKを見て学んだらしい。NHKすごい。
Quote
いりや/古怒田望人@単著『クィア・レヴィナス』重版出来✨(they/them/いりや)
@ilya_une_trace
人権の観点から同性婚は絶対に認めるべきだと熱弁する95歳の祖父。
Image
本を読むのに大事なのは、学歴とか知識とかじゃなくて実存だと思いますよ。自分の実存に関係あるものは一般的に難しいとされているものであっても頭に入ってくるし、実存と関わりがないものはどんなに平明な文章でも読み込めない。自分が触発されるか、されないのか、それが本との出会いの試金石。
「推しは推せるときに推せ」とか、「会いたい人には会えるときに会っておけ」とか言われますが、自分の経済的都合とか、諸々の状況でそれが出来ない場合もあるので、そういうときは自分を責めずに、「時が経てばまた巡り会えるさ」という精神でいるようにしています。
「共生しよう」ではなくて、「共生してしまっている現実を見つめよう」と言う方が正しい。誰かが行動したら共生が始まるんじゃなくて、共生には常に既に巻き込まれている。多様性を否定する言説がおかしいのも、あたかも多様性とは別の生き方ができると吹聴しているからだ。共生は理念ではなく現実。
もう何年も前からSNSではこの手の言説で溢れていて、トランスジェンダーであることを公的に話しながら大学にいるボクみたいなのは「死ね」と言われているようなもんだけど、ボクはこういう言葉には一切耳を貸さないし、死なないで大学に残り続けます。そうすることがこういう言説への抵抗だから。
Quote
ライブドアニュース
@livedoornews
【主張】アレン様、女子大学のトランスジェンダー学生受け入れめぐり「好ましくはない」 news.livedoor.com/article/detail 「多様性を武器に変な理想をぶつけてくる人がいる。女子大やセンシティブなところに、元々男性の方で体格差もある人が入ってくると、不安を助長する可能性もある」と語った。
Image
「LGBTブーム」は、あえてその名前を使うなら、2010年代に始まった企業によるLGBTの資本主義的な利用に当てはめるべき言葉。当事者を資本化した形がブームの形なのであって、当事者の実存そのものは、そのブームとは全く別のところでそれ以前から続いていた。そもそも人の生き方をブームとか呼ぶなよ。
「私初めてゲイの人に会いました~!」とゲイの知人に言った人に対して、そのゲイの知人が「ゲイなんていろんなところにいるのに、あたなたが今までゲイに出会ってこなかったのは、ゲイにとってあなたが自分のことを明かすのが嫌な人だったからよ」と答えていて、とてもスマートな返しだなと感じた。
6月はプライド月間ですが、セクシュアルマイノリティは6月限定で出現するような夏の風物詩ではなくて、今までも、これからもずっと存在し続けて、あなたたちと同じようにこの社会で日常を営んでいるということを、忘れないでほしい。わたしたちはここにいて、過去も未来も生きている。
ボクのジェンダーにノーコメントだった90歳を過ぎた祖父が、今年帰省して話したら、NHKで同性婚を制度化するための運動とかトランスジェンダーの人権の問題とかを知ったみたいで、ボクみたいな人の法的な権利は絶対守られるべきと話すようになっていて、テレビも捨てたもんじゃないなと思いました。
「多様性に配慮しろ!」と色んな人たちが言っていて嫌になるという呟きを目にしたのだけど、多様性とは配慮することで存在するようになるわけではなく、現に存在している現実の複雑さですよね。だから、正確にいうと「多様性が存在する現実を無視するな」と言うほうが妥当だと思うのですが。
「社会に貢献しているから差別するな」というのはちょっと語弊を招く表現で、べつに社会に貢献してようが、貢献していまいが、どんな人に対しても差別がなされてはならないし、「社会に貢献していないから差別していい」がまかり通ると、平気で優性思想が跋扈する社会になってしまう。
文系の研究者をしているが、本を読むというのが自分の障害特性上あまり得意ではなく、いわゆる「多読」が全くできない。だから、研究者になるなら沢山本を読みなさいという言説には少々尻込みしてしまう。活字を読めることが当たり前の行為ではなくて、健常者のある種の特権なことは理解されるべき。
セクマイであることをカミングアウトしてからちょっとしんどいなと思い始めたことは、同じような人と出会うためには夜のバーにいかないといけないことだった。バーが一つのクィア・カルチャーとして重要なことは分かっているけれど、夜が苦手な人、お酒が飲めない人にとっての居場所も増えてほしい。
例のウェディングドレスの件にもやもやしている人はゲイル・ルービンの論文「性を考える」を読んでください。そこでは異性愛の夫婦における性的なものが社会的に肯定されるのに対して、性的マイノリティやセックスワーカーの性的なものがいかに周縁化され、監視や処罰の対象になるかが論じられている。
「多様性を認めないのも多様性」という表現を目にすると、多様性がちんけなイデオロギーに還元されてしまい、多様性の視座に賭けられている「社会的に周縁化されても生き延びられる社会への希求」という血肉のこもったメッセージが踏みにじられてしまっている。マイノリティが明日を迎えられる社会を現
旧帝大の大学院に進学して、毎年毎年業績と競争が求められることに疲れ果てうつ病になった。うつ病になったときカウンセラーから研究者に向いていないとも言われた。それから約十年、周囲のことを気にせずマイペースにやるようになって徐々に結果が出てきて、今年博論提出までこぎつけた。大学院は
去年殺害されたトランスジェンダーの数は320人。そのうち94%がトランス女性、ほとんどが黒人で、多くがセックスワーカー。殺害の80%はレイシズムに影響を受けている。これだけインターセクショナルなトランスの死の問題を、なぜフェミニズムと切り離す人たちがいるのだろうか。
【拡散希望】です。 ボクの博論本となる『クィア・レヴィナス』が、青土社から3/26に発売されます。レヴィナスの理論を徹底的にクィア・リーディングした、国際的にも類例のない本です。レヴィナスに興味のある方はもちろんですが、広くクィアという事象に関心をもつ多くの方に読んで頂きたいです。(続
Image
Image
友情をセックスと切り離したがる人がいるけれど、友情が高まってセックスすることがあってもいいし、愛情があってもセックスを全くしない関係性があってもいい。関係性なんてカテゴライズできるものじゃないんだから、好きに生きたらいいし、そういう思いを込めて『クィア・レヴィナス』を書いた。
「クィア」は元々「オカマ野郎」等を意味する蔑称で、それを当事者たちがあえて引き受けることで、「クィアで何が悪い!」という抵抗と、「クィアのままの自分たちを承認してくれ!」という希求の両方が合わさった極めて社会的な言葉。ファッショナブルな流行語では決してない。
うつ病になったとき、ひたすら女の子たちが戯れる日常系アニメを見続けていたんだけど、それは、現実逃避というより、トランスジェンダーとして自分が生きることのできなかった青春を、フィクションを通じて生き直すユートピア的経験だったのだと思う。日常系の非政治性が批判されることがあるけれど、
「多様性」や「インクルーシブ」の名の下に、マイノリティを「受け入れてあげましょう」みたいな風潮はとても嫌いで、「わたしたち」マイノリティが存在していることは、「あなたたち」マジョリティが受け入れるかどうかにかかわらず、事実なのだから、その事実にまずは向き合ってほしいと思う。
博士号をもらえることになったけれど、生活は厳しい。来年度の研究職は非常勤講師の一コマだけ。研究生活で負った精神疾患のために、一般職で働くのにも困難がある。生活保護を受給して、それをクッションに障害者雇用で働く予定も立てている。博士号を得ても、生活は依然として極めて厳しいままだ。
寝ないで学会発表したとか、身体壊しながら論文書いたとか、そういうことが美談や武勇伝の類として語られる風潮が研究業界にいまだにあるけど、そういう無理ができるのは健常者だからであって、そんなものを基準にされたら障害を背負っている人たちは研究ができなくなる。ほんとうにやめてほしい。
大学院を目指していた時、学部で懇意にしていた教授から「自分の大学院は優秀な人は沢山いたけど、競争意識が高くてどんどんリタイアしていって、自分は将棋を指す傍らくらいに研究進めてたから生き残れた」と教えてもらって、ボクも院に進んだら無理せず頑張ろうと思いを改めました。
ボクの祖父は人間魚雷に志願したほどには戦争にコミットしていた人間だったのだけど、戦後は左翼になって反戦の立場を貫いてる。ある時その祖父がボクの小学校に来て昔話をする機会があった。天皇の名前を空で言って、戦中の教育は「くだらねぇもんだった」と笑い飛ばしていたのを今でも覚えている。
百合やBLは確かに同性愛者の経験とは乖離する部分があるが、だからといってノンケのための作品なのだと言ってしまうと、レズビアンやゲイで百合やBLを愛好する人たちの存在が見えなくなるだけではなく、百合やBLを同性愛的な欲望を通じて解釈する可能性、つまりクィアに読み解く可能性を奪ってしまう。
Replying to
お金がなさ過ぎて、クレジットカードもずっと止められていたんだけど、最近クレカを再度作れるようになってすごく生活が楽になっている。でも、スマホと一緒で、クレカありきでなりたつ社会っておかしいと思う。明らかに特定の人たちを排除する構造でしょう。
「LGBTが増えると社会が混乱する」と言う人がいるが、増えるも何も、あなたたちが知らないだけで、沢山のLGBTがこの社会でずっと生きてきたし、今もこれからも生きてゆく。私たちがここにいるという事実は、たとえ私たちを誰かが葬り去っても消えることはない。LGBTはつねにすでにあなたの側にいる。