怒りきることで人は次のフェーズに進める
――それなりに経済力があり、社会的な立場を得ている以上、僕は自分が強者男性である自覚があります。でも、今の地位を手に入れた理由をすべて男性だからという特権に回収されてしまうと、自分なりに積み重ねてきた努力を無効化されたような気がして、ちょっと抵抗があります。そういう自分にフェミニズムを学ぶ資格はあるのでしょうか。
今、おっしゃった「努力が無効化されてしまう感覚」って「自分だけが損をしているような感覚」に近いと思うんですが、実は学校の中でも似たようなことがあるんです。たとえば、ディスレクシア(読み書きに困難を抱える学習障害のこと)の子に対して、特別にタブレットの使用を認めたとします。そうした合理的配慮に対し、特段何も思わないクラスと、あの子だけズルいという反発が出てしまうクラス。この違いってなんだと思いますか。
――え。なんでしょう……?
要は、日頃から自分たちの言い分がきちんと聞いてもらえているかどうかなんです。自分たちの人権や尊厳が大切にされていると感じていれば、ディスレクシアの子がタブレットを使うことも、当然の権利として受けとめられる。けれど、理不尽な校則や先生からの抑圧など、日常の中で小さな我慢を重ねていると、その鬱屈がたまっていく。そうなると、誰かへの合理的配慮が「贔屓」や「ずるさ」に見えてしまう。
このように、他者と比べたときに「自分だけが損をしている」「自分ばかり我慢させられている」と感じてしまう心理を相対的剥奪感と呼びます。女性優先車両やレディースデーに対して「逆差別だ」「女尊男卑だ」と反応したり、性的マイノリティへの配慮に対して「いきすぎた多様性だ」と反発したりする人たちも、この相対的剥奪感を強く抱えていると言えるのではないでしょうか。
――心当たりがありすぎます。この一瞬奥歯を噛みしめたくなる気持ちは、自分の頑張りをちゃんと認めてもらえていない虚しさから来るものだったんだなと。
そうなんですよね。こんなエラそうなことを言っていますけど、僕自身も全然立派じゃなくて、大人になってからも、ああ自分まだまだだなって思う瞬間は山ほどあります。たとえば、ある高学年の子の担任をしたときのことなんですけど、その子は自分の気持ちや希望をすごく率直に言える子だったんです。学校に対しても、「こうしたい」「こうしてほしい」という思いを、遠慮せずにちゃんと出してくる。もちろん、その子が悪いわけでも、要求が間違っているわけでもないんです。むしろ、自分の希望を言語化できる力は、その子の大きな強みだと思います。ただ、その率直さを受け取った瞬間、当時の僕はなぜかイラッとしてしまったんですね。
で、なんでこんなに反応してしまうんだろう? って自分に問い直してみたら、実はその怒りは目の前の子どもに向いていたわけじゃなくて、僕自身の子ども時代に向いていたんだと気づいたんです。子どもの頃の僕は、理不尽に遭遇しても「大人が決めたルールだから仕方ない」って勝手にあきらめて、飲み込んで我慢してきたタイプの子どもで。だから、自分の思いを率直にぶつけてくる子を見ると、「ああ、僕にはできなかったことをこの子はやってるんだな」「なんで僕はあの時、言えなかったんだろう」みたいな悔しさや羨ましさが混ざってしまって、「ズルい」と感じ、イラッとしてしまった。
でも、そこに気づくだけで落ち着けるんですよね。自分が何にイライラしているのかわからないと対処のしようがないけれど、「あ、これは目の前の子どもの問題じゃなくて、僕自身の昔の傷が反応してるんだ」ってわかると、ちゃんと自分で自分をなだめられるようになる。僕の場合は、「自分は満たされない少年時代を送ったんだな」と憐れんであげることで、子どもに向けそうになっていた苛立ちを手放すことができました。目の前の子を責めるんじゃなくて、過去の自分を丁寧に扱ってあげることで、子どもに向ける視線も変わっていく。そんな経験でした。




タヌキツネ
この記事を拝読して、改めて問題の難しさを実感しました。確… 全文表示
2025.11.29