世界一わかりやすい「令和人文主義」入門
令和人文主義。
最近注目されている、新しいタイプの「教養ブーム」のことである。その担い手としてよく挙げられるのが、以下のような若い世代の人々だ。
歴史系のポッドキャストを配信している人(コテンラジオ)
クイズ番組を制作している人(QuizKnock)
学問をYouTubeで発信している人(ゆる〇〇ラジオ、ネオ高等遊民)
若手の文芸評論家(三宅香帆、スケザネ)
彼らに共通する特徴として、次の点があると思う。
人畜無害そうな風貌で、シュッとしており、話し方の好感度も高い
悪口を言わない(タイトルで挑発しても、中身はゆるく、エンタメの範囲)
わかりやすい言葉で楽しそうに「知」を語る
政治性・思想性が薄く、みんな仲良し
ターゲットは会社員(ビジネスパーソン)や普通の人(マジョリティ)
ようは、こういう感じの人たちのことだ。
■令和人文主義への批判
一方で、この令和人文主義に対しては、いくつかの批判も寄せられている。
学問(アカデミック)の現場の人間ではない人が語っているので、内容の正確性が疑わしい。
「楽しく知を届ける」点に偏りすぎており、弱者や社会問題への視線が乏しい。実際、会社員(ビジネスパーソン)など“人生に困っていない人”を視聴者のターゲットにしており、結果として、人文知が「(順風満帆で幸福な人々のための)娯楽的コンテンツ」として消費されてしまっている。
ようするに、こういうことだ。
「なんか最近、新書やYouTubeやポッドキャストで、 『わかりやすく哲学や歴史、教養を語ります!』と発信している、 爽やかでシュッとした若い連中が人気を集めているけれど、 あいつらって、たいした学問的訓練も研究経験もないまま、 知をオモチャにして語ってるだけの“中身のない連中”なんじゃないの?」
つまり、こうした疑念が向けられている、というわけである。
■令和人文主義がなぜ生まれたか?
もちろん、こうした批判は一面では正しい。しかし、思想というものは、いつの時代も前の価値観への反動として生まれる。そう捉えると、令和人文主義の登場には必然性がある。
その背景を簡単に整理してみよう。
まず思想史の流れを、超要約すると次の通りとなる。
①教養主義
→ ②倫理主義
→ ③令和人文主義(いま)
それぞれの特徴を軽くまとめたものが以下である。
①教養主義:「権力者や理想家に扇動されないために、人は“知”(=教養)を学ばなくてはいけない」
⇒ポストモダン、文学批評、フランス哲学。「賢さ」が価値基準。
主張)「理想」を押し付けてくるやつらに気をつけろ!人間の理性には限界がある!そんなもんはわからん!人間は、もっと混沌としたものだ!だから、胡散臭い理想から距離をとれ!戯れろ!逃走しろ!
欠点)無駄に言葉が難しい、常に教養マウントで偉そう、基本的に人間(=勉強してない自分以外のやつら)を見下しているのでケンカしがち
↓(時間の流れ)
②倫理主義:「人間が理性を働かせれば、普遍的な正しさ(=倫理)が見えてくる。弱者を支えることは当然であり、“知”はそのためにこそある」
⇒ポリコレ、ケア倫理、リベラル思想。「正しさ」が価値基準。
主張)差別や不平等に敏感であれ!マイノリティの声に耳を傾けろ!共感し、寄り添い、正しい言葉を選び、正しい態度で世界と向き合え!世界は変えられるし、人間も進歩できる!
欠点)無駄に言葉に厳しい、常に倫理マウントで偉そう、基本的に人間(=倫理的ではない自分以外のやつら)を見下しているので断罪しがち
↓(時間の流れ)
③令和人文主義:「わーい、“知”って楽しいー」
⇒「楽しさ」が価値基準。
■哲学は批判から生まれる
哲学や思想は、常に前時代への批判(反省)から生まれる。
たとえば、①教養主義(ポストモダン)は、前時代における「権力や政治的理想に人々が扇動され、悲惨な戦争へと突き進んでしまった」という歴史的経験への反省から生まれた思想と言える(だから、ことさら“理想”を警戒し、小難しい哲学用語を駆使してあらゆるものを相対化しようとする)。
同じように、②倫理主義は、教養主義(ポストモダン)が「自由」「主体性」「相対主義」を極端に推し進めた結果、セクハラ・パワハラ・差別・自己責任論が横行し、社会に傷跡を残した──その反省から登場した潮流と言える。
したがって、③令和人文主義は、倫理主義への反動として生まれたムーブメントである。ゆえに彼らは、意識的に「政治」「差別」「倫理」といった重いテーマを避け、あくまで“楽しく知を味わう場”としての語りに徹する。
戯画的に表現すると以下のとおりだ。
①教養主義「人間ってこんなもんよ、俺たちはそういう《アポリア》を《宙吊り》にしたってことよ」
⇒(老人)50代以上の文学批評家など
②倫理主義「いけません、悪いことは悪いのです! アップデートしてください!(キリッ)」
⇒(中年)30、40代以上の大学知識人など
③令和人文主義「(こいつら、めんどくせー)わーい、“知”って楽しいー」
⇒(若手)20代以上のクリエイターや在野研究者やビジネスマンなど
■批判を無視する令和人文主義
令和人文主義のおおよその立ち位置が見えてきたところで、改めてその批判を振り返ってみよう。現在、SNSなどで見られる令和人文主義への批判は、大きく2種類あり、それらは①と②の立場からのものだと言える。
①教養主義からの批判
「おまえら、本当は何も知らないだろ!もっと勉強してから話せ!」
②倫理主義からの批判
「おまえら、弱者への配慮が足りてないだろ!もっと想像力を持ってから話せ!」
では、こうした批判に令和人文主義はどう応答するのか?
おそらく表面的には受け止める素振りを見せるだろうが、本質的な反論や議論には踏み込まないだろう。
というのも、彼らにとって①と②の思想はすでに「終わったもの」、つまり歴史的に役割を終えた古い枠組みに見えているからだ。極端に言えば、「すでに間違ってると証明された“時代遅れの思想”をやってる連中」に何かゴチャゴチャ言われてるという認識である。
もちろん、①と②の人たちも、そんなこと(=お前らなんてとっくに終わってるぞ)を面と向かって言われれば怒るだろう。「何を根拠にそんなことを言うのか説明してみろ」と詰め寄る。しかし、そこで議論が噛み合うことはない。なぜなら、このズレは理屈の問題ではなく、世代の感性・空気の違いから生まれているからである。
たとえば、私たちが「子供を怒鳴りつける親」「性的マイノリティを笑う芸人」「部員を殴る監督」を見たとき、事情や文脈に関係なく、瞬間的に「あ、無理……アウト……」と感じてしまうことがあるだろう。そこには理屈ではなく、もはや“時代的な感性”が働いている。
③の側からすれば、古い世代の知識人のふるまいも同じカテゴリ(=アウト)に見えるのだ。
・ポリコレ棒を振りかざす知識人
・知識の間違いを攻撃的に指摘する知識人
・酒を飲んで人の悪口と愚痴を配信する知識人
・口汚い言葉で政治家を腐す知識人
──そうした言動に触れた瞬間、内容以前に反射として「うわ……」と感じてしまう。つまり、それは理屈ではなく、すでに“世代の感性”によって線引きが行われているのである。
そして、そうだからこそ、③ははっきり言って、①と②を尊敬していない。
だって、③の視点からすれば、こう見えるからだ。
「①と②の人たちって、あれだけ偉そうに語るわりに、社会を良くした成果があるわけでもないよね? 本も売れてないし、影響力も全然持ってないじゃん」
「むしろ、SNSで揉め事を起こして醜態を晒して、“知は学べば学ぶほどバカになる”という悪い見本になってしまってない?」
こうした評価が、言葉になる前の無意識レベルで蓄積されている。
結論として、令和人文主義の側から見れば、①と②は“議論すべき対象”ではなく、「関わりたくない時代遅れの存在」として見えてしまっているのである。
しかし、そうは言いつつ──
③の若者たちは、それを表に出すことは決してしないだろう。
「いやいや、そんなことないですよ、もちろん尊敬してますって〜」
「いや〜ほんと勉強不足で、すみません〜」
「マジすか、さすがに俺も怒りますよ! まあ、でも確かにおっしゃる通りなんですよね〜(笑)」
と、あくまで柔らかく、好感度高めのテンションで受け流す。
議論にも対立にも踏み込まず、エンタメ性と謙虚さを装いながら、ニコニコと距離を保ち続けるのである。(そこには①や②に対する悪意もなければ、見下しもない。単にナチュラルに最初から相手にしていないのだ。また、③は生まれたときからSNSが存在する環境で育った世代であり、『偉そうなのに人間性が伴わず、炎上していく知識人たち』を日常的に見てきた世代でもある。だからこそ彼らにとって、“口汚く言わないこと”は思想ではなく、単なる当たり前の“世代の作法”なのである)
そして実際、彼らの行動が変わることはない。
どうせこれからも、「読者や視聴者を喜ばせるために、専門外の分野であってもAIを駆使してリサーチし、それをより楽しく・わかりやすい形へ翻訳し、コンテンツとして提供する」行為をし続けるだろう。そして同時に、自分たちが持つ知名度や影響力を、政治運動や社会運動に結び付けることもしないのである。
■令和人文主義~まだこれから明らかになる思想の潮流
さて、ここまで述べた「令和人文主義論」は、現実の令和人文主義を担う個々の人物像を、そのまま正確に写し取ったものではない。もちろん例外はあるし、個人差もある。だが、大きな思想史の流れとして見たとき、この構図は無視できない傾向だと私は考えている。
哲学・思想は、常に前時代との対立や反省によって更新されてきた。哲学史を大きく俯瞰すれば、それは「黒哲学」と「白哲学」の緊張と循環の歴史である。
その系譜に照らせば、
①教養主義は黒哲学であり、②倫理主義は白哲学である。
そして、③令和人文主義は明らかに“黒”に属する。
中心を持たず、理想や理念よりも「娯楽」としての知を選び、AIに整理させた知識を用いて、それを“啓蒙”ではなく“遊び”へと転化させる。そうした態度は、まさに黒哲学の系統に位置する姿勢である。
ゆえに、もし思想史的に整理するなら、以下のほうが正確だろう。
①古い教養主義(黒)
→ ②古い倫理主義(白)
→ ③新しい教養主義(黒)
二千年かけて蓄積された膨大な知の体系──もはや一人の人間では記憶も管理も不可能な規模となった知識群。それらをAIが整理し、翻訳し、必要に応じて提示してくれる時代に私たちは生きている。もはや知識へのアクセスは制限された資源ではなく、AIを駆使する若者たちによって“誰でも触れられ、楽しめる素材”へ変わったのである。
であれば、そのAIを前提とした時代において、知を一般人向けに再編・再配布し、さらに“遊び”として再起動させる──
そんな“新しい知のルネサンス(=令和の人文主義)”
が生まれるのは、むしろ必然だと言える。
もちろん、「令和人文主義」という呼び名は、まだ仮の名称にすぎない。思想としての輪郭が定まる前の、暫定的なラベルであろう。だが、いずれこの現象をより正確に捉える新しい名称が現れ、思想史のどこに位置づけるべき潮流なのか──その姿が明確になる日が来るのではないだろうか。
最後にもう一度──
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