細田守に何があったのか? もがき苦しむ「果てしなきスカーレット」が目指す場所
大型商業作品を次々と送り出してきた、細田守の最新作「果てしなきスカーレット」。これまでとは異なって、現代の等身大のキャラクターが主人公ではない。中世の王女が父王の復讐(ふくしゅう)のためだけに立ち続け、彷徨(ほうこう)し、亡者の群れと対峙(たいじ)し、泥の中でもがき苦しむ。この作品は観客に何を問いかけているのか。
看護師青年はなぜ王女と同道するのか
本作は、典型的な「ライオンキング」型の復讐譚(たん)――なのだが、この物語には現代日本の看護師青年が突如、登場し、彼女の旅に寄り添う。
それだけだと異境譚であり、異世界バディーものでもあるのだが、視点は王女側であり、“なぜこのふたりが同道せねばならないのか”“なぜ看護師なのか?”、観客は思考を錯綜(さくそう)させたまま見続けるしかない。
確かに、青年が看護師であることでエピソードが膨らんでいく。しかしそれは、映画「戦国自衛隊」(1979年)で描かれたような、異境で浮き彫りになる、現代兵士の青春や戦争の残酷さというものではなく、現代の医療がどれほど進んでいるのか、そして現代の看護師がどれほど人に優しいかが描かれていくのみである。
“現代と中世ではものの考え方や常識が違う”という感覚をアクティベートするための装置としてしか、物語の中盤までは機能していない。
現代の若者と等身大だった
「時をかける少女」(2006年)から始まった、細田のオリジナル作品群(「時をかける少女」は、原作小説の約20年後を独創的に描いた)であるが、そのほとんどが現代の人間の物語だった。
「時をかける少女」では互いの片思いが互いを守り続けていたことを語り、「サマーウォーズ」(09年)では個人の能力と家族の絆が結合し、世界を救う群像が描かれた。
自身の制作拠点「スタジオ地図」設立後の第1作「おおかみこどもの雨と雪」(12年)では一転して、異能によって人目をはばかる母子家庭の移ろいと別れの物語となり、「バケモノの子」(15年)では父と子、師と弟子、男と男、それぞれの心象を説き、「未来のミライ」(18年)では、子どもの世界という小宇宙が巨大なイマジネーションに直結していることがうたわれた。
そして「竜とそばかすの姫」(21年)では、ちっぽけな個人がデジタルによって世界とつながり、仮想世界が現実世界を救うことの可能性を開いた(「サマーウォーズ」の世界観の延長的展開である)。いずれの物語も、その中心にいるのは現代の若者と等身大のキャラクターたちだった。
「バケモノの子」の熊徹と東映動画時代
「バケモノの子」公開時、元アニメプロデューサーで評論家の岡田斗司夫が、主人公九太と師の熊徹を、細田のスタジオジブリ時代と重ねて「細田本人と宮崎駿の現身(うつしみ)」と評していた。だが、熊徹は恐らく細田が東映動画(現・東映アニメーション)時代に師事した監督、演出家の佐藤順一(「おジャ魔女どれみ」「カレイドスター」「たまゆら」など)と、山内重保(「劇場版『聖闘士星矢 神々の熱き戦い』」「DRAGON BALL Z」「おジャ魔女どれみ♯」など)ではないか。
宮崎駿の集権性は確かに暴れ者の熊徹に模しやすいが、熊徹の実像はむしろ鷹揚(おうよう)であって、権威や先達に迎合しない、自分だけの強さを追い求める武闘家の姿である。
佐藤の作品群はたくさんのスタッフを受け入れたし、山内には映像的な独自のアプローチがあった。さらに両者ともオリジナルな物語を開発する独創性を持ち、原作企画の多かった当時の東映動画内にあって、後に続いた演出家たちの多くがその姿を範とした。
師というよりは先行者、兄貴分的な鷹揚さをもって後進を育ててきた佐藤は、業界内でも愛される人柄だ(GONZOで佐藤の盟友だったプロデューサーの故・池田東陽が、酒を飲むたびに「カレイドスター」制作時の話を繰り返し聞かせてくれたものだ。「優しくて、厳しくて、おっもしろいんですよお!」)。
山内の「言葉で説明するのではなく、自然と伝わる物語づくり」は、細田の、観客に判断を預けるストーリーテリングと同じである。さらに独自の映像技術を展開する山内流という意味では、もはやスタジオ地図のお家芸とも言えるCG描画にその精神性が宿っているといえる。
特に彼らが育んだ「原作に依存せずに企画開発されるアニメーション」は新規作家群の苗床となり、日本のアニメ産業において最も大切に守られるべき領域でもある。
梁山泊というより虎の穴 東映動画
東映動画という希有(けう)なカンパニーの歴史に触れないわけにはいかないだろう。
敗戦から随分たっていたにもかかわらず、1970年代にもなお、左派の脈動はメディアを中心に若者たちの心をつかんだままでいた。
しかし、彼らが叫ぶロマンチックな理想は、企業においては経営危機の呼び水となった。労使団交とリストラ、業界離脱と廃業が相次ぐ不幸な時代でもあり、誰もその原因を正視しない出口の無い状況が続いていた。
東映動画でも組合活動は先鋭化し、多くが会社を離れた。しかし残った人々は、高度経済成長を追い風にテレビ放送産業が開花する中で、大量のコマーシャルフィルムを受託するスタイルへと会社の主軸を移行させる。東映動画は、厳格な動画枚数の制限を伴う徹底したコスト管理のシステムを構築し、強じんな筋肉を持つ企業へと生まれ変わった。
それは“制限されたキャンバスの中で、才能とアイデアのみで面白いものを描く”という、本来はスタジオが備えていなければならない理想のクリエーティビティーの姿のひとつだった。これは現在も、佐藤や細田が常に観客を意識しながら作品を撮り続けていることの源泉思想でもある。当時の東映動画は梁山泊ではなく、虎の穴だった。
自己投影、届かない思いと現実
先にも引用した岡田斗司夫が、「『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』は、富野由悠季の当時の精神状態の現身」であり、現実世界を投影する私小説的な側面が内在することを述べている。
おそらくそれは正しい。多くの作家の創作動機は自身の体験に基づいた内省や、釈明、野心であるからだ(単純に“見たいものを見るために創る”ということもあるが)。そうであるならば、細田のこれまでの作品には、彼自身の何かが反映されていたはずだ。
それと同時に細田はこれまで、届かない思いやどうしようもない現実も描いてきた。
「時をかける少女」の主人公真琴の初恋が届かないであろう遠い予感や、「おおかみこどもの雨と雪」の、雨と雪の父親の死の真実、「竜とそばかすの姫」の忌避すべきなのに絶対的な現実としての虐待――これらも細田の訴えたい本質だろう。細田はそれを誰に届けたいのか。
10代の共通体験、昭和世代の郷愁
これまでの細田作品の主役は、ほとんどが10代までの少年少女たちだった(「未来のミライ」は幼年だが)。私のような昭和世代に、「サマーウォーズ」や「竜とそばかすの姫」のような、デジタルが個人の社会性の半分を占めるような世界はなじみ難い。
しかし、デジタルネーティブで、家族との断絶が周囲に普通に散見され、学校がスキンシップをいとう場所となり、SNSで聞こえよがしな大声で独りごとを言うことが当たり前の現代において、共通体験となり得るコンテンツや映画こそが、10代にとって“ヒトの気持ち”や“あたたかさ”、そして社会規範を獲得できる唯一のメディアになっているのではないか。
そして細田作品を見る度にこぼしてしまう昭和世代の涙は、取り戻したい、わずか数年前、数十年前の時代への拘泥ではないか。
ところが「果てしなきスカーレット」は、それら“細田作品感”をすべて遺棄し、悲劇「ハムレット」を逆説的に解釈した世界観を構築した。
われわれの知っている、細田作品のどこまでも抜けたような青空や、懐かしく切ない夏の空気感はどこにもなく、薄暗い漆黒の北欧の曇天と、血の混ざった土砂と荒野の描写が延々と続くのである。
キャラクター造形もまったく変質し、等身大の肉感や息遣い、片思いや狭い人間関係に煩悶(はんもん)する、愛らしいトラウマなどはどこにも見ることはできない。細田は等身大の若者を描きたかったのではなかったのか。
いったい細田に何があったのか。
管理体制の中で追求した「新しいもの」
便宜的に「時をかける少女」からを細田の作品群としたが、それ以前、細田は「デジモン」や「ONE PIECE」の劇場用映画を撮ってもいれば、テレビシリーズにも参加している。そう、厳格な東映動画の管理システム内で制作された作品群である。
その過酷な制作現場は、明日の制作環境を、未来のコンテンツ経営を保全することが最優先課題であった。その現場において、細田は自身に何が課されていたかを分かり過ぎるほど分かっていたはずだ。
それは「(コストを死守した上で)観客を飽きさせず、常に新しい魅力で刺激を生み出すこと」である。どれほど制作費的に厳しくても、観客から見放されてはならないのだ。
佐藤の下で名作「おジャ魔女どれみドッカ〜ン!」第40話「どれみと魔女をやめた魔女」を信託された細田は、毎週のルーティンの制作体制の中で、子どもたちのあどけない夢のはてに恐ろしい現実があることを、そうっと描いた。
その隠喩的ドラマツルギーこそが「飽きさせず」「刺激を生み出す」方法でもあることを確信していたに違いない。
子どもの頃に負ったカスリキズが大人になってトラウマになる――特撮テレビシリーズ「ウルトラマン」第23話「故郷は地球」でのジャミラの断末魔の後味の悪さは、大人になってからの方が効いたのと同じである。
「バケモノの子」で興行収入58億5000万円を稼いだ後、次作「未来のミライ」の興収は28億8000万円にとどまった。大ヒットには間違いないが、半分の数字である。
細田は感じたはずだ。「このままではいけない」と。意を決し、その結果、クリエーティビティーを最大化させた次作「竜とそばかすの姫」では、興収66億円を記録した。そして「新しいものを――」「まだ見ぬものを――」と、常に観客に向けられていた細田の意識は、ついに当作にたどり着いたのではないか。
描画一新、陰影と情報満載のセリフ
まず、キャラクターの描画モードが、ルック(外観の描画様式)と共に一新されている。これは作家としてどれほど怖いことだったろうか。投手が投法を変えたり、老舗が伝統の味を変えたりすることと同じような、大きく孤独な決断だったはずだ。最も自信のある武器を封印したのだ。
そして、細田作品の看板だった陰影の無いフラットな景観画風も同時に減退し、キャラクターは手描きの質感を残しつつもデジタルの味わいに近い、光の陰影を感じさせるオブジェクトとなった。
無論、細田の最大の魅力とも言える、実写映画的な奥行きのあるフィックスカットや、丁寧なカットバックは健在である。
特に、“分速5センチメートル“とも称される超スローなズームやトラックアップは、細田の演出家としての高い力量を示しており、本作でもそれを確認できる。
おなじみの「分かれ道」「クジラ」は出てこないが、「吐瀉(としゃ)」は描かれる。そして、神の座の象徴としての「竜」は登場している。
一方で、これまで批判も多かった“観客に委ねる”演出は影を潜ませ、セリフには情報が山積された。銀幕に映し出される高い画素数の緻密で薄暗い景色と、血と雷の鮮烈な風景が、見る者を拒む可能性を、言霊で抑え込むかのようだ。
作家が踏み出した新しい世界
ビートルズが「Revolver」(66年)で作風を一変させ、吉田秋生は「BANANA FISH」作中で劇的に画風が変わった。週刊少年ジャンプの人気作の中には、連載当初とまったく作風やコンセプトが変わるものが多くある。それは市場の声を反映した結果でもある。
われわれの愛する作家が、新しい世界に足を踏み出した。鬼が出るか蛇が出るかは分からない。だがその決断は、われわれ観客を楽しませることを目指し、届けたい誰かに差し出されたものだ。
その決断をことほぎ、たたえよう。そして銀幕に映る細田世界をこれからも楽しむために、劇場に足を運ぼう。
物語の最後、いつもの細田作品らしいシークエンスがある。主人公が自分の片思いを知覚する瞬間である。主人公が恋する、誰にも優しい看護師は、実はいつもの細田作品の彼氏役と同義であったと、気づく瞬間でもある。
社会体験が希薄な割に社会規範はしっかりと獲得して、義憤も感じている。一方で、非道徳的だったりわい雑だったりするものには無防備で、対応できない。特にコロナ禍以降の、優し過ぎる現代の等身大の若者の姿だ。“ウブい”と感じつつも、それはかつて大人たちが若い世代に押しつけていた理想像である。
細田の視線はどこまでも優しい。あの看護師こそ、細田が今の10代を顕彰し、励まそうとして設計したものなのだ――と、最後にようやく、気づいた。
ぜひ銀幕で確かめてほしい。(公野勉)