気付いたら五百年前のフォンテーヌに居たので、水神を救おうと頑張りたいのだが……脳内で語り掛けてくるナニカがうるさい 作:たゆな
鳴神大社の境内に在する社務所。その宮司部屋には、行燈の光に照らされた文書を──どこか遠い目で見つめる桃髪の妖怪が一人。
「さて……どうしたものか」
鳴神大社を司る大巫女──”宮司”である彼女は……復興作業の支援要請について記載された書類を、ゆっくりとした動作で机の上へと置く。
「そろそろ
その表情は一見、”宮司”という肩書きに相応しいほど堂々としている。しかしこの顔も彼女と付き合いの長い者たちが見れば、少しばかり憔悴した様子であることが読み取れるだろう。彼女は視線の端で朝日を捉えながら──朝餉は何を食べるとするか……? と独り言を呟いた。
「……妾としたことが。仕事熱心なあまりに、久しく油揚げを食しておらぬ」
『はぁ』と大きなため息を吐いた彼女は、痺れ気味な足を伸ばして立ち上がると、外と宮司部屋とを隔てていた障子を開ける。どうやら息抜きも兼ねてか、境内を巡回するつもりのようだ。
「───」
左足を踏み出して──ふと、視界に入り込んで来た桜色の花弁。神子は僅かに微笑むと、その一片の花弁を手のひらで
「──『宮司になれば好きなだけ油揚げが食べられる』などと……」
そんな甘言に惑わされた当時の記憶が神子の脳内を巡った。かつての自分にこのような面倒事を押し付けてきた”面倒な女”への思いを馳せる。
「……ああ、あの頃は全てが単純で──楽しい日々じゃった」
祭りの度に好き放題遊び回っていただけの子狐も今や国の重鎮であり、鳴神大社を抜け出すだけにもそれ相応の理由が必要だ。いつも彼女の傍にいた友たちは、既にそれぞれの道を進んでしまった。瞼の裏にほんの数瞬だけ浮かんだ一柱と一匹の姿。今の神子は旧友達が恋しくなる程に窮屈で退屈なこの日常を過ごし続けなければならない。
「……やはり、少々働き過ぎたようじゃな」
少し感傷的な思考に陥ってしまう神子。それが八重宮司としての務めによる疲弊が原因なのか、当分の間油揚げを食べていないことによるストレスが原因なのかは分からない。
そして彼女は──その事実を無かったことにするかの如く、不敵な笑みで再び左足を踏み出した。
*********
暫く境内を巡回していた八重神子の耳に、どこか切羽詰まったような声が届いた。
「八重宮司様〜!」
神子は足を止め、声の主へと目を向ける。黒髪のポニーテールを揺らしながら駆け寄ってくる女性──稲城弥里の姿を見て、一足先に“面倒事”の気配を察知し、眉を僅かにひくつかせた。
「……弥里か」
崇高なる雷神の眷属である彼女の横で、黒のポニーテールを揺らしながら息を切らしているこの女性は、まるで二十代の若巫女のような外見だ。
しかし、実際は狐斎宮が存命の時から鳴神大社に勤めていた大ベテランであり、ぶっちゃけて言えば──かなりの歳を重ねている。
「珍しいのう。そのように慌てる汝の姿は……ふふっ、とても面白いのじゃが──」
「宮司様! 面白がってる場合じゃないですよ!」
息を切らし必死な弥里とは対照的に、神子は優雅に右手を口元へ当てたまま微笑んでいる。
「……ふむ」
だが弥里の表情からただ事ではないと判断すると、神子は──手を引いて進もうとする彼女の後に付いて歩き出した。
境内の端に差し掛かったころ、弥里が立ち止まり、指を伸ばす。
「宮司様、あれを見てください」
神子が視線を向けると──。
「これは……」
鳴神大社へ続く唯一の入口が、大量の木箱によって完全に塞がれているのが目に入った。
「ちなみにこれ、全部“大豆”だそうです」
「……何じゃと?」
「どうやら、誰かが鳴神大社宛てに大量の大豆を運搬する依頼を出していたみたいで……」
神子は虚ろな眼差しで積み上げられた木箱を見つめた。
「……とんだ嫌がらせを思いつく者がいたものじゃ」
弥里が悔しそうに唇を噛む。
「あの運搬業者、受け取りを拒否されて荷物を持ち帰るのが嫌だったんでしょうね。こちらの返答も待たずに、最低限の会話だけ済ませてそのまま影向山を下っていっちゃいました」
「──」
神子は無表情を保ったまま、しかし内心では静かに怒気を膨らませていた。
「そういえばこれ、依頼主から預かった手紙だそうです」
弥里が懐から封書を取り出し、神子へ渡す。
「誰じゃ……多額のモラを払ってまで、おそろしく面倒で無駄な迷惑行為を働く馬鹿者は」
神子が封を切ると、見慣れた筆跡が目に飛び込んだ。
「……な──これは甘雨の姉君?」
一瞬だけ目を丸くした神子。直ぐに表情を整えると、そのまま手紙を読み始める。
──以前の失敗から、原料である大豆を送ることにしました! 璃月の名産であるこの大豆で作れば、きっととても美味しい豆腐ができあがると思います!
「どうやら……」
読み進めるにつれ、神子の眉がぴくりと動く。
──そちらに居らっしゃる“イツキさん”という方は、遥々遠くからやってきた帝君の御友人でして……。
その文を目で追った瞬間、神子の表情から柔らかな笑みがスッと消えた。
「……なるほどのう」
思考するより早く、神子の口から小さな溜息が漏れる。
「妾が尊敬する姉君からの仕事を途中で放り出すとは──ふむ、これは妾にとっても実に都合のよい話ではないか?」
その声音は静か。しかし、底に潜む愉悦は隠しようもない。
彼女の口元にはゆるりと──悪戯を企む特有の、妙に艶めいた笑みが浮かんだ。その目に宿る光は、弥里が思わず身を引くほど鋭く、そしてどこまでも楽しげである。
神子は手紙をそっと閉じ、薄桃の爪で封書の縁を軽く撫でながら小さく鼻で笑った。
「あ、あの……宮司様、どうなさるおつもりで?」
弥里が狼狽えながらにまばたきをする。
「決まっておろう。妾が敬愛する姉君の名を穢した不届き者を──軽く“教育”してやるだけじゃ」
(これで堂々と此処を抜け出せる理由ができたわけじゃが……今日ばかりは、天が妾に味方しておるのやもしれぬな)
内心でそう呟くと、神子はひらりと袖を翻し、朝の薄光を全身にまとう。その姿は封印を解かれた妖狐がふらりと山を下りに行くかの如く、周囲の空気すらざわりと揺れる。
「弥里、留守は任せたぞ。……ああ、ついでにこの大豆の山も片づけておいてくれぬか。妾が戻る頃には、大社の入口が見えるようになっていることを期待しておる」
「えっ……えぇぇ!? 八重宮司様、それはさすがに──」
「大丈夫じゃ、汝にならできる。なに、妾がいない間に少しは身体を動かした方が健康にも良いであろう。ふふ、期待しておるぞ?」
肩を落とす弥里を軽くいなし、神子はゆるりと歩みを進める。
軽やかで、無駄のない足取り。しかしその背筋には、雷光のように張り詰めた気迫と、少しばかりの愉悦が宿っていた。
──その双眸は細く、鋭く。
獲物の匂いを嗅ぎつけた妖狐さながらに、ひっそりと笑みを深めるのであった。