いつぶりに乗ったかわからないモノレールに揺られて、シラトリ区にたどり着いたのはもうどっぷりと日が落ちた頃だった。
「お、お邪魔します……?」
「“うん。シャーレへようこそ”」
厳重なセキュリティチェックを抜けて、うんざりするほど長いエレベーターへ。そこそこな重力をかんじながらたどり着いた高層階は書類がこれでもかと積み上がったオフィスだった。
足の踏み場こそあるものの、これら全てが彼に課された仕事だと思うとあまりの激務に思わず同情してしまう。ぼんやりと書類を眺めていると手招きで誘われたため、誘われるがままにソファへと腰を落とした。
「“何か飲みながら話そうか。コーヒー、紅茶にジュースとか、色々あるけど何がいい?”」
「こ、コーヒーでお願いします」
「“ミルクとか砂糖はどうする?”」
「なしで大丈夫です」
俺からの注文を聞き終えた先生が給湯室へと向かったのを確認して、一度肩の力を抜く。緊張の糸が切れると同時に今日一日分のため息が出た。
初めこそウキウキと探索を始めたものの、丸一日過ごしてみてもこのタチの悪い夢が覚める気配はない。この景色も、肩の痛みも、銃を持つのが常識という世界観も。そろそろ現実として受け入れるしかないのかもしれない。
「全く、俺は前世で何をやらかしたのやら……いや、今は前々世か」
本当に、どんな悪行を積んだら突然幼女と言って差し支えない風貌で世紀末のアメリカみたいな治安の場所に放り出されるのだろうか。少なくとも、俺の想像を絶するほどの極悪人だったのだろう。元の世界では妻子がいなかったことだけが不幸中の幸いだ。
まあ、そんな幸いも『マイナスになるかもしれなかったところをゼロにした』だけであって全く何もプラスになっていないのだが。
「“ただいま。何か考え事?”」
「あ、先生……いえ。ほんの少しだけです」
「“何もわからないっていうのは不安だろうから、私も少しその気持ちがわかるかも。あとこれ、コーヒー”」
「ありがとうございます」
ごちゃごちゃと散らかったものは一度置いておいて、受け取ったコーヒーカップに口をつける。味自体は美味しいのだろうが、あまりの苦さに顔を顰めそうになった。こんなところまで子供になっているのか。俺は。
「“さっきの時間を使って色々調べてみたんだけど”」
「何か分かりましたか?」
その問いに対して、彼はゆるゆると首を横に振るだけだった。一抹の望みすら絶たれ、目の前が闇に包まれるような錯覚を覚える。
「“少なくとも、君はキヴォトスに昨日まで存在しなかった。今日突然、降って湧いたように現れたんだ”」
「そう、ですか……」
「“そう、だからこれからどうするのかっていうことをまずお話ししないといけないかな”」
「ああ、確かに。行くアテもありませんしね」
たはは、と乾いた笑みが溢れる。そう、俺はこれから一人でこの世界を歩まねばならないのだ。大人として、これ以上人に頼りきりではあまりにも不甲斐ない。住居は段ボール、腹は雑草で満たすとしよう。
「“そうだろうと思って、私から一つ提案があるんだ”」
「提案、ですか」
「“しばらくの間でいいから、シャーレに居てくれないかなって”」
「……え?」
「“ほら、見ての通りの大忙しでね。昼間は生徒のみんなも授業や部活があるし、一人で処理しないといけない仕事が多すぎて”」
『衣食住付きでちゃんとお給料も出るし、いい職場だと思うよ』なんて言いながら、彼に募集要項や条件をまとめてある紙を見せてもらった。正直言ってあまりの突拍子のなさに口が空いたまま塞がらないが、一応ざっと目は通しておく。確かに、給与含めた待遇は破格と言って差し支えないほどのものだった。ただ、一点これを俺に提示してきたということだけにどうしても不信感を抱いてしまう。
「確かにいい条件ですしありがたいんですけど……」
「“けど?”」
「どうしてここまでしてくださるのか、理解ができません。俺はあなたの生徒じゃないのに」
そう。俺は彼の生徒ではないのだ。ここにくる道中聞いた話のなかで、『私はキヴォトスの先生だから』みたいなことを言っていたが、それは俺に適用されることはない。
今日突然降って湧いた住所不定無職、名前もないし記憶もない。その上精神は大人ときた……こう列挙してみると、改めて自分の境遇に頭が痛くなる。
「“うーん。それはちょっと違うかな”」
「……何も違わないと思いますけど」
「“別に、私は生徒だけにいい顔をしたいわけじゃないからね。何か問題があれば喜んで解決のお手伝いをするし、それが大人にしか解決できないことだったりするかもしれないしね”」
「大人にしか解決できないこと……」
「“今日急に出会った人間が何言ってるんだって思うかもしれないけど、これが私にできる最善だから”」
これまで彼と言葉を交わして、一つだけ分かったことがある。それは、『彼が全く底の見えないほどのお人好しだ』ということ。なんやかんやと言ってはいるが、きっと彼にとってはその全てが本心で俺に手を差し伸べてくれているのだろうということがわかった。
「……わかりました。しばらく、しばらくの間ですがお世話になります」
「“別にずっといてくれていいんだよ?”」
「それは流石に申し訳ないので」
俺の答えに少し安堵したような表情を見せた先生は、懐から何やら紙とペンを取り出した。どうやらこれに必要な情報を記入すれば正式にここで働くことになるらしい。やれこれが最後の峠だと筆をとり、書き始めようとしたところで早速手が止まった。
「“……どうしたの?”」
「生年月日、名前、住所、学校、学年、部活……」
「“あ”」
「「書ける情報がない……」」
よもや、ここにきた本懐を忘れてしまうとは。俺はこの辺をはっきりさせるためにシャーレへとわざわざ連行されたんだった。
「“あ〜……やっぱり、今日は遅いし明日にしようか”」
「明日になっても何も解決しないのでは……?」
「“なんとか名前だけで手続きができるようにかけあっておくよ。だから、仮のものでも名前を考えてほしいな”」
「名前ですか……頑張ります」
書類を一度片付け、居住スペースへと案内してもらう。先生と別れた後すぐに布団に飛び込んで名前について考えているうちに、うつらうつらと意識が夢とうつつのあいだで揺れ始めたと思えば、精神的にも肉体的にもかなり疲れてしまっていたようであっという間に眠りに落ちてしまった。
◆◇◆◇◆
翌朝、盛大に昼まで寝過ごした後。寝ぼけ眼を擦りながら先生の元へと向かう。名前は準備した。あとはもう自分で正式に名乗りを上げるだけだ。
「“おはよう。よく眠れた?”」
「お陰様で寝過ぎました。ありがとうございます」
「“それで……どう?”」
「考えてきましたよ、名前」
苗字は新しい生を生きる覚悟から、名前はこころ踊らせた透き通るような空から。
「“おお、それは楽しみだね”」
「今から俺は
学籍なし、シャーレ専属。異例の経歴を持って、俺のキヴォトスライフは始まった。
トオルくんちゃんの名づけに協力してくださった皆さん、ありがとうございます。この場を借りてお礼させてください。