「多様性を認めない考えも多様性」? その意味に関する対立について

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哲学者・三木那由他=寄稿
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Re:Ron連載「ことばをほどく」第14回

 多様性について異なる意見がぶつかるとき、私たちは何の話をし、何について意見を戦わせているのだろうか。最近、それが気になることがある。とりわけ、マイノリティの人権を重視する立場として「多様性を認めない考えも多様性」のような主張とどう向き合うのかということに。

 ある立場と別の立場が対立し、論争をしていると、私たちはつい「実際にどうなっているかを確認すれば済むじゃないか」とか、「過去の発言と矛盾していないか調べよう」とかと考えがちだ。そして実際にそれで決着がつくこともある。「多様性を認めない考えも多様性」といった主張も、「多様性は大事だ」という考えを持つ人間のある種の自己矛盾を指摘するものと見なされることがある。

 けれど、すべての論争にそのように決着をつけられるわけではない。

 論争には言葉の意味や物事の理解を共有したうえで具体的な事柄で対立しているものと、それとは別に、そもそもの言葉の意味に関して対立しているものとがあるのだ。後者をデイヴィッド・プランケットという哲学者は「メタ言語的交渉」と呼ぶ(注1)。私が疑っているのは、「多様性を認めない考えも多様性」のような主張を取り巻く議論は、実はメタ言語的交渉なのではないか、ということだ。

 注1)David Plunkett“Which Concepts Should We Use?: Metalinguistic Negotiations and The Methodology of Philosophy”(その概念を使うべきか? メタ言語的交渉と哲学の方法論)(Inquiry, Vol58,2015(7-8): 828-874.) プランケットはその後も精力的にこの概念を取り上げた論文を書いている。また日本語でも小田拓弥がメタ言語的交渉についての研究状況をまとめたサーベイ論文がある(小田拓弥「メタ言語的交渉をめぐる研究について」『科学哲学』2022、54巻2号93―111ページ)。

■メタ言語的でない論争とメタ言語的交渉

 メタ言語的でない論争とメタ言語的な交渉の違いを見るために、こんな例を考えてみよう。

 1.街ですれ違った動物が犬のようにも猫のようにも見えた。私は「あれは犬だよ」と言い、あなたは「いや、犬じゃないよ」と言う。

 2.これまで知られていなかった動物を私たちは発見した。その身体的特徴は一般的な犬と類似しているが、しかし大きく異なる点もある。私は「これは新種の犬だ」と言い、あなたは「いや、これは犬じゃない」と言う。

 このふたつの例で私とあなたは論争をしているわけだが、争点が微妙に異なっている。ひとつ目の例では、私たちは犬がどういうものなのかは互いに共有していて、そのうえで先ほど見た動物が猫に似た犬なのか、犬に似た猫なのかを言い争っている。この論争は、実際にその動物をもう一度観察したり、飼い主に「犬ですか?」と訊(き)いたり、DNA検査をしたりすれば容易に解決する。

 これに対し、ふたつ目の例はもう少しややこしい論争だ。その新種の動物は、これまで知られている犬に似ている点も似ていない点もある。この動物は一般的な犬と外見的には類似しつつちょっとだけ異なっており、DNA的にもおおむね一致しつつちょっとだけ不一致があるとしよう。そうすると、私が言わんとしているのは「これくらいDNAと外見が類似しているなら多少の違いは許容したうえでほかの犬と同列に置き、研究や飼育に関しては犬として扱うのがいいだろう」ということで、あなたはそれに対し「いや、これだけ違いがあるなら犬としては扱わず、まったく新しい動物と見て、既存の犬の扱いを参考にすべきではないだろう」と言い返していることになる。これは、その動物が犬かどうかを観察やDNA検査で確かめるという話ではなく(それはもう済んでいる)、「犬」という言葉や概念をこの新動物も含むかたちで拡張して使うべきか、そうでないのかという問題だ。プランケットが「メタ言語的交渉」と呼ぶのはこの種の論争である。「メタ〇〇」というのは、ここでは「〇〇について」くらいの意味で、「使われた言葉に関しての交渉」ということだ。

 プランケット自身の関心はやや異なるのだが、私としては私たちの日常の語りのなかにメタ言語的交渉がしばしばそれとわかりにくい姿でひっそりと紛れ込んでいることが気になっている。その具体例として念頭にあるのが、「多様性」である。

■■「望ましい」という前提の…

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