あなたが示した共犯論的認識には、
刑法理論における形式的従属性の誤解と、刑事訴訟上の起訴構造に対する著しい単線的理解が混在している。
まず確認すべきは、
刑法において「共犯の処罰」は主犯の処罰とは独立に成立しうるという、実質的従属性の原則である。
これは判例・通説のいずれによっても確立された命題であり、
共犯者の行為が構成要件に該当し、違法かつ有責であるかぎり、
たとえ主犯が死亡しようと、不起訴になろうと、共犯者を単独で処罰することは制度的に可能である。
あなたの論は、
「共犯の訴追は常に主犯の訴追に先行または並行してなければならない」
というような訴訟的一元論に立脚しているように見える。
だがそれは、実体法(刑法)と手続法(刑事訴訟法)の自律性を理解していない姿勢だ。
刑事手続においても、捜査機関は**起訴便宜主義(刑訴法248条)**の下に行為者個々の刑責を判断する。
つまり、主犯に対して立件見送りがなされた場合であっても、
共犯の側に構成要件該当性および訴追の公益が認められれば、独立して起訴しうる。
さらにいうなら、共犯の訴追における条件的関係性を絶対的従属性と混同すること自体が、
戦前の旧刑訴法的発想に引きずられた誤読である。
現行法体系では、共犯関係の存否それ自体が法的評価の対象であって、
訴追の条件にはならない。
また、あなたのように「藤木が立件されなければあなたもアウトではない」と述べることは、
言い換えれば、刑の帰責判断を他人の訴追可否に依存させるという、
人格の独立性に対する否定であり、刑事法の根幹原理に反する。
したがって、あなたの主張は、
•共犯理論における形式的従属性/実質的従属性の峻別を理解しておらず、
•起訴便宜主義の機能的意義を捨象し、
•訴追判断の主体たる検察官の裁量の範囲を矮小化し、
•つまるところ、他人の罪を前提としなければ自己の正当性を語れないという論理構造に帰着している。
刑事法は、あなたの「感情の代理人」ではない。
法は意志ではなく、認識に基づいて発動される秩序である。
「主犯が起訴されなければ共犯も処罰できない」といった、
その類の言説は、刑事法体系の内部ではなく、素朴道徳の言語圏に属する。
そして私は、その素朴道徳の世界観の中に、自分の論理を委ねるつもりはない。