細田守監督『果てしなきスカーレット』を見てきた。
『ハムレット』がベースで、近世あたりのデンマークを舞台にした時代劇アニメである(中世警察:あれは中世ではないだろ…)。デンマーク王女スカーレット(芦田愛菜、ハムレットに相当)は父王アムレット(市村正親)を叔父クローディアス(役所広司)に殺され、復讐を誓うが失敗し、どうも死者の国っぽいところをさまようことになる。そこでもやはり復讐を求めるスカーレットは、ずっと後の時代の日本の看護師だという聖(岡田将生)に出会うが…
まず、話の前提として、私は1年に平均して5本『ハムレット』あるいはその翻案を見ているシェイクスピア研究者である(ウソだろそんなに『ハムレット』やってるわけない…と思う人はこのブログの「ハムレット」タグをクリックしてください。友であり同胞である市民諸君、世の中は諸君が思っている以上に『ハムレット』で溢れている)。なんでそんなに『ハムレット』を見ているのかというと、一時期は東京23区でやってるシェイクスピア上演は病気か出張に阻まれないかぎり全て見ようとしていたので、まあそれくらいの覚悟でやればこのペースで『ハムレット』を見られるのである。東京芸術劇場とか新国立劇場みたいな「まあ大丈夫でしょ」というところから、コートの下はパンツしか履いてないのではというような奇抜なファッションの人が隣に座ってたり、トイレに反ワクチンのポスターが貼ってあったり、私以外の客は全員、出演者ノルマで売りつけられたチケットで来ているのではという疑念を持たざるを得なかったりするようなプロダクションまで、シェイクスピアをやってればクオリティに不安があってもどこにでも見に行く。シェイクスピアを見に行くためなら朝5時くらいに起きて当日券待機列に並んだり、深夜バスで真夜中に砂漠のど真ん中に到着したり、とりあえず何でもやる。
そしてそんだけシェイクスピアを見ていると、シェイクスピアの翻案に対する期待は大変低くなる…というか、だいぶ評価が甘くなる。あらゆるものの90%はクズであり、私はたぶんシェイクスピア上演もそうかもしれないという疑念に常に襲われているが、決してそれに屈することはない…というか、ほとんどのシェイクスピア上演はまあ見られるレベルだと信じて、外れが続く時があっても自分を欺きながら暮らしている。そしてシェイクスピアの翻案というのは『 マイ・プライベート・アイダホ』とか『ウエスト・サイド物語』みたいな素晴らしいやつがある一方、やべえやつもすごく多い分野である。いちいち怒っていたら身が持たない。
そういうわけで『ハムレット』の翻案に対する私の期待はだいたい低いので、世評が大変悪い『果てしなきスカーレット』も「いくらなんでもアレとかアレよりはマシだろう」と思って行ったのだが、まあこの予想に違わない感じだった。全然面白くなかったし、見た後に「これって何かキメて見るのが前提の映画なのかな」と思わなくもなかったのだが、『CASSHERN』の監督が演出した『ハムレット』とか、通常ルートでチケットを売っていないのになぜか演劇祭にエントリーしている謎のアイドル舞台『ハムレット』とかよりは全くマシであった。たぶんマシだと思ったのは映像や音楽はそこそこちゃんとしているからで、「つまんない『ハムレット』の翻案舞台よりもつまんない『ハムレット』の翻案映画のほうがだいぶマシ」という貴重な知見が得られた。
まず、このお世辞にも面白いと言えない『ハムレット』の良いところとして、少なくとも監督は原作が政治劇だということは理解しているらしいということがある。原作のハムレットは神及びデンマークという国に責任を負っている存在であり、だからこそ正統でないやり方で王位を簒奪した叔父に復讐しなければならない。これを意識せずに『ハムレット』をやるとよくわからないただのドロドロのメロドラマになりがちなのだが、一応この作品のスカーレットは暴君と戦おうという気はあるみたい…である。とはいえ、死者の世界でクローディアスを殺してその後正統な王になれるのかはあまりよくわからない。
「死者の世界」が舞台なのも一応、原作の大事なセリフを意識してはいる。ハムレットの有名な「生きるべきか、死ぬべきか」独白で、ハムレットは「旅人がその境界から戻ってきたことはない/見知らぬ国」つまり死後の世界について思いを馳せるのだが、そこにハムレットが行って帰ってきたとしたら…みたいな発想はわからないでもない。ハムレットが時をかける少女になって戻ってくるんならまあそれはそれで面白いような気もする。さらにこの「死者の世界」が煉獄みたいなやつだとすると近世の頭が痛くなるような神学論争にド直球で突っ込んでいってくれるので乞うご期待なのだが、別にそんなことはなく、瀕死のスカーレットが臨死体験中に見た夢オチでしたということで終わるので、「やっぱり何かキメて見るべき映画だったのかもしれない」と思った(死んだことも何かキメたこともないのでよくわからないが、臨死体験は何かキメてる時の幻覚に類似していることがあるそうである)。この作品のスカーレットは死にかけていただけで、別に時をかける少女ではなかったようである。
さらに別の良いところとして、考証はけっこうちゃんとしているというのがある。私の指導教員だった河合祥一郎先生をはじめとしていろいろ専門家がかかわっているそうなのだが、エルシノアのお城が本当に現存するクロンボー城そっくりなのはちょっと感心した(ただしクロンボー城の近くには、最後にスカーレットが演説をしたような、人をたくさん集められる場所はないと思う。一応野外上演ができる程度の広さのスペースはあるのだが、あんなに広くない)。衣装とか調度とかもほどよくフィクション風味で派手にしてはいるがけっこう凝っている。
面白くなかったところはたくさんある。全体的に脚本は行き当たりばったりで、辻褄とか整合性は全然考えていないように見える。映像は綺麗なのだが、どこかで見たような絵柄がけっこう多い。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』とかマーベル系の映像作品(とくに『ロキ』と『デッドプール&ウルヴァリン』)とか『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』とかを思い出したところがいくつかあった。また、これは作画の省力なのか何か演出意図があるのかはよくわからないのだが、とくに序盤でふたりの人間が会話している場面で、引きの画面で両方を映すのではなく、話している人の声だけ画面外から聞こえて、聞いている人の表情だけを映すショットが多いのはえらいクセがあるなと思った。話している人と聞いている人の表情、両方が見えたほうがわかりやすくない?
あと、芦田愛菜スカーレットに対して、たまに若く美しく清らかな女体に対する変なフェティシズムがブワっと出てくるところがあったのは閉口した。近世のイングランド演劇には戦闘美少女は意外と出てくるし、それどころか戦闘中年美女も出てきたりするので、ハムレットが戦闘美少女になるのは別に全然いいと思うのだが、ケガしたスカーレットが聖に袖を切られるところで恥ずかしがるところは不気味であった。この前にもスカーレットが死者の手みたいなので全身をつかまれる場面があり、ここだけだと『TALK TO ME/トーク・トゥ・ミー』みたいながっつりホラー描写をアニメでやりたいのか、ただのフェティシズムなのかあまり判別できなかったのだが、だんだん雲行きがあやしくなって、この袖の場面でこれはフェティシズムであると確信した。ルネサンス風のドレスを着こなすこともできる戦士がこの程度のことであんなに恥ずかしがるわけはなかろう…恥ずかしがる美女を見たいというフェティシズムのあらわれである。
世の中にはもっと面白い『ハムレット』風味の映画がたくさんある。女ハムレットの話が見たいなら『マッドマックス:フュリオサ』があるし、すごいアクションが出てくるハムレット映画なら『バーフバリ2 王の凱旋』もある。来年はナショナル・シアター・ライブでイギリスの『ハムレット』を日本の映画館で見ることができる。この映画を見るならたぶんこのうちのどれかを見たほうがいいと思う。また、この映画に出てきたキャストを雇って舞台でそのまんま『ハムレット』をやったほうが百倍くらい面白いだろうとは思う…ので、演劇ファンとしては資源の壮大な無駄のようにも思えてしまった(岡田将生は以前、かなりいいハムレットをやっている)。芦田愛菜がハムレット役をやる舞台がもしあったら私はすごく見たいのだが…