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二〇三〇年の日本では霊感の存在が立証された。
1
明け方から降っていた小雨は、
陽が落ちる寸前になってその勢いを増した。
薄墨を塗ったように黒くぼやけた
平日の梅雨時に、折り畳み傘をさした人々は、
俯き加減に交差点を往来する。
今朝の天気予報では、この小雨は昼過ぎに、
ぱったり止むものとされていた。
我慢できないわけではないが、
ぎりぎり不快に思う程度にまとわりつく
霧のような粒は、今度は水滴として人々に降り注ぐ。
往来の中には傘を持っていない人も
それなりに多く、帰宅途中の人の波に揉まれて
雨宿りに走ることもできない彼らは、
舌打ちでもしそうなほどに淀んだ表情で、
じりじりと歩みを進めていた。
雨の東京は、ぶよぶよとした
不機嫌な緩慢さに満ちている。
まるで街全体が水を吸ってしまったかのように。
行き交う群衆のどれもが、
ぼんやりとした焦燥と疲労を、
その表情にじゅくじゅくと滲ませていた。
人々の流れの中心──
その街の名を冠する地下鉄の直上には、
大きな道路が交わる三叉路がある。
カラオケボックスや居酒屋など、
繁華街じみた雑多な景色が広がる
大通り沿いは入れ替わりが激しく、
新店舗ができては潰れを数か月のペースで繰り返していた。
無表情で湿っていくゴム人形のような人々に、
カラオケボックスのロゴがあしらわれた
薄い法被を着たスタッフが、
高い声で愛想を振り撒いている。
週末ならまだしも、
木曜日ともなれば、
客引きに応じてくれる人は少ない。
折り畳み傘をさした主婦が、
あからさまに邪魔そうな表情で、
さしている傘をよけた。
女性の左肩に、
ぼたぼたと唾液のような雨垂れが伝う。
小さな人影が、
きょろきょろとあたりを見回すように動いた。
交差点近くの大通りから
一本だけ道を逸れて路地に入ると、
帰宅途中の人々で溢れた風景が嘘のように、
辺りはがちゃがちゃとした薄昏い細道に変わる。
屋根の低い建物が窮屈そうに並ぶ道の両側には、
朱い提灯がぼつぼつと立ち並ぶ。
その風景は、
下町の飲み屋街というよりは、
たとえば東アジア圏の夜市を思わせた。
橙色と赤色、
ビビッドな暖色に彩られた家並みの光が、
大きな雨粒にきらきらと反射するように輝いている。
スーツのジャケットが若干ずれた
赤ら顔の男三人が、
がらがらと硝子窓の扉を開けて店を出る。
どうやらそこは六席ほどの
小さな焼肉屋のようで、
店の中から出て来た若い女性が、
笑顔で見送りに出ていた。
肘の辺りまで捲られた彼女の白い腕が、
軒先の裸電球に反射し、より一層白く浮かび上がる。
酔客は店先の褪せた黄色の
ビールケースにぶつかりかけながら、
やや大きな笑い声をあげて、
狭い路地を歩き去っていく。
向かいの店はベトナム料理を
提供する居酒屋のようで、
窓の向こうはサークル帰りか
コンパ中の大学生と思しき集団が、
ふたつのテーブル席を繋げて座っていた。
その店は普段だと外にも
席を設けているらしく、
軒先に小さな丸椅子が数個置かれていた。
しかしこの雨でオープンエアに座る人はおらず、
錆びた丸椅子の中心には
透明の水溜まりができている。
締め切られた扉の向こうは、
梅雨時の湿気と押し込まれた
客の熱気が蒸し蒸しと滞留して、
窓には季節外れなオレンジ色の結露が光っていた。
小さな人影が、
赤い路地裏を所在なげに彷徨っている。
それは、凡そ雑然とした
繁華街の喧騒には似付かわしくない、
華奢な出で立ちの少女であった。
両肩から胸元にかけて垂れる二束の黒髪が、
暖色の灯の下で控えめに揺れる。
彼女が目元あたりまで
深く被っているパーカーのフードには、
パーカーの灰色を黒く染めるような
水玉模様が、明晩の雨粒で形成されていた。
長い前髪の向こうで、
硝子窓のようになめらかに濡れた瞳が動く。
彼女のふらふらとした足取りが、
何かを探すような動きが、
ある建物の前でぴたりと止まった。
それは、小規模な飲食店が立ち並ぶ
その路地裏においても、
さらに小さな店構えであった。
赤提灯も橙色の裸電球もない、
木造二階建ての細長い民家のような建物。
恐らく、意識して探さない限りは、
この店の存在すら気付かずに
通り過ぎてしまうだろう。
店の軒先にある、
褪せて罅割れた木製の看板には、
雑な筆文字で「雑貨 など」とだけ記されていた。
扉を隔てた玉暖簾の向こうには、
僅かだが商品の陳列棚やカウンターが見える。
少女はその店構えを見て、
都内の雑貨屋というよりも、
昭和時代を舞台としたアニメやドラマに出てくる、
貧相な駄菓子屋を連想した。
その路地を行き交う人々は誰も、
その地味なパーカーを着て
立ち尽くす少女に目を向けなかった。
酒に酔って──或いは、
連れ立って歩く異性に下卑た視線を向けて、
彼女の後方を通り過ぎる。
その一角だけが、
喧騒に満ちた歓楽から遊離するように、
閑かに色褪せていた。
少女はふと、玄関の傍らに目を遣った。
その「雑貨屋」の扉の横には、
雨に曝されてしとどに濡れた、
薄汚い布が掛かっていた。
元の色や印刷が何であったかも分からないほど、
日焼けと脱色を繰り返した、肌色の布。
彼女の細い指が、
雨水を吸ってぐずぐずに濡れたそれを、
引っ張って広げる。
そこで少女は、それが長方形ではなく、
長い三角形であることにはじめて気付いた。
ペナント、という言葉は、
彼女の頭には浮かんでいなかったかもしれない。
退色してほぼ無地になった三角形の布には、
油性ペンと思しきもので直接、
こんな文字が書かれていた。
「雑貨以外のご注文は 店主まで」
少女はそれを見て、
何かを決心したように静かに息をついて。
からからと、建物の扉を開けた。
中は。
田舎の寂れた土産物屋のように、
閑散としていた。
廉価なビーズがゴム紐に
通された謎のアクセサリーや、
数世代前の戦隊ヒーローの顔が印刷された、
微妙なサイズの自由帳。
そういうものが無秩序に陳列されている。
客は当然のようにひとりもおらず、
電卓と算盤が置かれた小さなカウンターにも、
店員の姿はない。
数秒きょろきょろと店内を見回した少女が、
息を吸いかけたところで。
「扉、閉めてもらってもいいですか」
「え」
店の奥から声が聞こえた。
少女もそれに呼応するように、頓狂な声を発する。
玉暖簾を邪魔そうに潜り、
バックヤードから出て来たのは、
少女ほどではないが若い年齢の女性であった。
藍色のインナーカラーで
染められた長い黒髪や、
耳や唇にいくつも付けられた鈍色のピアスは、
店前の少女を威圧させるのには十分だったようだ。
それ以上の声を出せずに
固まっている少女を暫く眺めた後、
エプロン姿の店員はつかつかと歩み寄り、
玄関の扉を閉めた。
「──この家、無駄に古いから。
雨水が入ってくると、すぐに黴が湧いちゃうの」
「あ。ご、ごめんなさい」
少女はほぼ無意識にぺこぺこと頭を下げたのち、
店員の女を見上げた。
目の前の少女を困ったように見下ろすその瞳が、
一重瞼の奥で細められる。
「……雨宿りか、夜の寄り道か、
分かんないけど。生憎、
今日はもうすぐ店を閉めちゃうんで。
雨に濡れてきたとこ悪いけど、
二十分ぐらいしたら──」
「いや、違うんです。その」
少女は、店員を見上げたその姿勢のままで、
先ほど閉められた後方の玄関を指差した。
「『店先の旗を見ました』。『雑貨以外の注文をしたい』、です。……お願いします」
少女の言葉に、店員の女は
驚いたように少しだけ目を開いた。
左耳に連なるピアスが揺れ、
ちりちりと音を立てる。
「……へえ。気になることは色々あるけど、
分かった。ひとまず、ここで少し待ってて」
緊張の面持ちで、少女は頷く。
店員は先ほど歩いてきた
バックヤードの方を振り向き、声を張った。
「店長」
「はーい」
バックヤードの向こうから、
やや間延びした声が返ってきた。
ほどなくして、
先ほど急いで着たのであろう
皺皺のエプロンを付けた男が、
大きく伸びをしながらやってきた。
色素の薄い茶色の髪を垂らした
その男は、店の入り口に佇む
少女を見て、やや意外そうな声を発した。
「あれ。意外と若かった」
「でしょう、珍しいですよね。
子連れの親はまあ見るけど、
子供ひとりなんて──まあ、
とにかく、『雑貨以外の注文』を
お望みみたいですよ。対応をお願いします」
「はいはい──それじゃあ、確認だけど」
男は、へらへらとした笑みを
崩さないまま、パーカーの少女を見た。
「店長」と言われた、
彼女と変わらないくらいに
華奢で色白なその人は──
その極めて異様な状況でさえなければ、
ただのか弱い優男にも見えたかもしれない。
その素性も、年齢も、感情も、
少女には一切判別できなかった。
「『お望みなら、二階で話しましょうか?』
閉店時間ぎりぎりですが、
特別対応ということで」
「……『はい』」
店長の男と少女との間で、言外に、
何らかの契約が交わされたようにも見えた。
こちらです、と男は言い、
少女を促すようにバックヤードへ入っていった。
少女がパーカーのフードを脱ぎながら後を追い、
店員の女も玄関の鍵を閉めた後で、
それに付いていく。
店の裏は、旧い住居であった。
店員らはここに住んでいるのだろう。
小さなテレビが置かれた畳張りの居間や、
古い型の色褪せた洗濯機が、
曇り硝子の向こうにちらりと見えた。
廊下の奥にある、
やや急な階段を、
ぎしぎしと上がっていくと、
少女はひとつの小さな部屋に通された。
そこは比較的整然と片付けられた、
こじんまりとした和室だった。
部屋の隅には扇風機が置かれており、
その奥にはアルミホイルの容器に
入れられたホウ酸団子が見える。
客間──というよりは、
田舎の安い民宿を思わせる内装である。
「さて、そちらへどうぞ」
男は、部屋中央にある卓袱台の奥、
紫色の薄い座布団を右手で指した。
ありがとうございます、
と少女はかすかに口を動かし、
促された場所へ座った。
いつの間に持ってきていたのか、
店員の女がペットボトルの緑茶を
彼女と男の前に置く。
女は慣れた手つきで
懐から百円ライターを取り出すと、
足元の蚊取り線香に火を付ける。
独特の湿った香気が辺りに漂い始めた。
少女の向かいに座した男は、
愉しそうに口角を上げ、口を開いた。
「それでは、改めて──
ここに来たということは、
あなたは『霊感』の取引に来た、
ということで、合ってるかな?」
「……はい」
2
「先に名前を訊いておこうかな。
あなたの名前は? 偽名でもいいけど」
「──ハルカ、です。本名です」
「わかった。じゃあ、ハルカちゃん。
どこから質問しようかな──
僕らがどういう仕事をしてるか、
何となくは分かってるんだよね?」
「たぶん、大まかには」
「そうだよね。ただまあ、
一応認識の擦り合わせも必要だし、
店としての告知義務もあるから、
ちょっとだけ『前提』の話を
してもいいかな。
万一だけど、勘違いもあるかもだし」
少女が無言で頷く。
男は緑茶のペットボトルをぱきりと開け、
話を始めた。
「知っての通り、
この世界にはどうやら、
霊感なるものが本当に
存在するらしい、ということが、
ここ数年の研究で分かってきた。
霊感、第六感、霊力──
色んな分野で色んな訳語が
当てられているけど、一応ここでは、
霊感と統一しておこうか。
ごく限られた人間には、
この世界に存在する不可視の何かを、
感知する能力がある。
ある程度の再現性をもって
人々の前に現れるそれは、
世間一般に言う『幽霊』に
限りなく近いらしい、
ということが最近分かってきた」
男はすらすらと説明を始める。
その話の内容に、ハルカも店員も、
驚く素振りは一切見せなかった。
まるで、そのことが
社会的に周知の事実であるかのように。
「とは言っても基本的には、
霊的なものを『感知できる』、
ただそれだけだ。
コミュニケーションが
立証された実例はないし、
幽霊が見えるからといって
死後の世界の存在が
判明したわけでもない。
ヒナちゃん、あの新聞って出せる?」
男は後ろを振り向き、
座って話を聞いていた青髪の店員に声をかけた。
はい、と彼女は頷き、
小さな棚の抽斗を開ける。
中にはやや厚いクリアファイルがあり、
数色の付箋が貼られた書類が
整然と並べられていた。
彼女は物件案内でもするような手つきで、
ぱらぱらとファイルを手繰り、
ひとつの新聞記事のスクラップを見せた。
“「霊感」を診断名へ 有識者会議始まる”
そんな見出しの、数年前の記事。
紙面には、精神科医や
心理学者として知られる人々が、
スーツ姿でビルに入っていく
写真が印刷されている。
類する光景はニュース番組で
何度も見てきていたから、
ハルカも差し出された紙面を
熟読することはなかった。
「こういう風に、霊感というものの存在が、
急速に人口に膾炙し始めた。
まあ霊感と言っても、
未来予知や透視ができるわけじゃない。
有史以来、極まれに
珍しい感覚でものを見る人はいて、
今回はそれが霊的な要素を
持っていたというだけだ。
紫外線が目に見える人がいる、
って話は聞いたことがある?
本質的には、ああいうものと
そんなに変わらない」
「まあ、もっとセンセーショナルな
書かれ方はしてたけどね。
政教分離に反しているとか、
血税をホラー談議に使うのか、とか」
クリアファイルを捲りながら、
店員が口を挟む。
「まあ、それはそうだろうね。
具体的には『あの建物で
死んだ息子の声が聞こえる』
みたいな話だって沢山あったんだし。
通常だったら単なる幻聴や
集団ヒステリーとして処理されただろう。
でも、それだけでは説明がつかなくなってきた」
そのクリアファイルには、
様々な「事件」記事の切り抜きや
スクリーンショットが収められていた。
恐らくは顧客のための説明資料として、
付箋紙を付けて常備しているのだろう。
男は話を続ける。
「そんなわけで、
どの宗派に依存した霊なのかは置いといて、
とにかく『霊感』らしきものの
存在は、頭ごなしには否定できなくなった。
信じる信じないではなく、
実際に『ある』のだから、
こればっかりは仕方ない」
さて。
男はそう言って、
目の前の少女に向き直った。
「そんなことがあって、はや数年が経った。
霊感という言葉も、出始めた当初よりは
ありふれたものになっている。
もちろん未だに、
物珍しいものとしては見られているけどね。
そこで、依頼者のハルカちゃんに
質問をするけど──
霊感の存在が立証されたことで、
僕たちの生活はどう変わった?」
「何も、変わりませんでした」
ハルカは即答し、
男は少し意外そうに彼女を見た。
「──ほう、意外な答えだった。でもその通り。
別に僕たちの生活が劇的に
変化することはなかった。
精神医学や心理学、
或いは隠秘学とかの人たちは、
今も侃々諤々の議論を
続けてるのかもしれないけど──
僕たち一般民衆の生活は、
それまでとほぼ変わらなかった。
ただ、物珍しい生きづらさに、
新たな概念が加わっただけだ。
それこそ紫外線が見えるとか、
そういう特殊な認知の延長線上として」
「──私がいた中学校でも、
霊感って言葉はすごく流行っていました。
友達のお母さんに聞いたら、
お母さんの時代にも
そういう流行りはあったらしくて、
霊感を持ってる同級生がいっぱいいたって」
ハルカはぽつりと呟くように、男に言葉を返す。
俯きがちな少女の瞳を、
微笑を湛えた男はただ愉しそうに眺めていた。
「確かに、そうだろうね。
君のお母さんやその少し上の世代でも、
『霊感』持ちのクラスメイトは
たくさんいただろう。
流行が自認と自称を
変容させるというパターンは、
世代を問わずありふれている。
もっと上の世代だと、
流行っていたドラマの影響で
『白血病』のクラスメイトはたくさんいたし、
さらに時代が下ると、
『共感覚』や『ギフテッド』
あたりがその役割を代替した。
あれほど昭和の迷信扱いされていた丙午も、
2026年にはしっかり流行ったしね」
つらつらと説明を続けるその男性の年齢は、
外見だけでは判然としない。
ハルカには十代の華奢な子供にも、
三十代の細身な男性にも見えた。
「そして今は『霊感』が先祖返りで流行中だ。
共通しているのは、
診断名としての用語と俗語としての自称が、
同じ名前で混在しているところだろうね。
この温度感は『恐怖症』にも似ている。
あの頃に共感覚を自称した子供たちは、
単に『自分は感受性が強い』くらいの意味で、
その言葉を使っていた人が大半だった。
わざわざ診断書を持ってこいなんて
言う人はいないから、
当人の自称がそのまま診断名として扱われる。
そして、それは霊感も同じ」
そう。
霊感という言葉が
診断名として扱われるくらいに
市民権を得た社会は、
霊的なものに対する意識も、
怪奇現象に対する懐疑性も、
それまでと一切変わらなかった。
ただ、「特異な感受性」を意味する
いくつかの自称の中に、
新しく霊感が加わっただけであった。
「まあ『霊感』の名誉のために言うと、
それでも社会の意識は
ほんの少しだけ変化した。
恐怖症を診断する精神科医や
臨床心理士がいるように、
霊感の有無を判定する『霊感鑑定士』が、
この世界に誕生した。だから、
ハルカちゃんもこの店に来たんだよね?」
細身の男は、
ハルカの目の奥を覗き込むように首を傾けた。
「……はい」
ペットボトルの緑茶を一口飲むと、
彼は話を続けた。
「まだ、国家資格ができるほど
診断体制が整備されているわけではない。
しかし、鼓膜の振動やら
一部脳機能の活発化やら、
霊感がある人特有の身体活動の
データは集まってきているから、
それなりの精度で霊感の有無を
判定できるようになった。
いるはずのないものが見える、
という『実害』を被ってるから、
多少の医療補助は受けられる。
よく眠れる薬を安めに出すとかね」
ただし。
男はそう言って、
ハルカの前で人差し指を立てる。
「分かってると思うけど、
それでもまだまだ診断に時間はかかる。
民衆の需要に対して診断者たちの供給が
明らかに追い付いていない状態だ。
鬱や不眠症を診断したいと思って
メンクリに初診を求めても、
人員がパンクしてるから
門前払いされるのと状況は似てるね」
「……分かってます。でも、あなたがたは」
「そう。僕らは違う。
僕と後ろの女の子は、資格も法人格も持たない
非公式の霊感鑑定士として働いている。
法的にはペテンだけど、
一応は二人とも本当の霊感持ちだ。
僕らの能力に関しては、
本物だと思ってもらっていいよ。
そして僕らは、霊感が欲しい人に
『霊感の自称』を与える、
いわば霊感の売人をしているわけだ」
霊感の、売人。
およそ耳慣れないその言葉を
平然と発する男を前に、ハルカは唾を飲んだ。
この状況は、
初診で門前払いを受けた人たちに
鬱や不眠の診断を与えるための、
いわゆるコンビニクリニックが
たくさん存在するのと、
実態としては似ている。
「本当の」手続きを経て診断をしている人々は
眉を顰めているのだが、
コンビニクリニックに通う人々が
正規のクリニックに流れたら、
特に都内の診断インフラは数日でパンクする。
どちらにせよ、
診断すら受けられないまま
壊れていく人に対処できていない、
という現実の問題はあり、
それを場当たり的に
解決するために非公認で動く人々を、
彼らはただ苦々しく眺めている──
というのが現状であった。
霊感が欲しい人に対して、
霊感ではなく、霊感があるという証明を売る。
それが、この路地裏の「雑貨屋」が
法の外で行っている仕事であった。
「ということで、僕らにかかれば、
診断は一日どころか数十分で終わる。
勿論、色んな道具を使った診断によって、
霊感の有無を判別することもできるけど──
ここに来るってことは、そうじゃないんだろうね」
「…………」
「さて、ここまでが前提。長くてごめんね。
それで、君は、何が欲しい?
それっぽく造られた、霊感ありの証明書?
それとも、霊感を持つ人が
安く手に入れられる精神安定剤の方かな。
もしくは、非正規の霊媒に関する依頼か」
「証明書。私用の証明書を書いてください」
「了解。それじゃあ、
いくつか形式的な質問をするから、
君は霊感があるという前提で──」
「いや、違います」
ハルカは男の顔を真っ直ぐに見据え、その話を遮った。
「私に霊感はないという証明書をください」
3
男は、そのへらへらとした笑みを保ったまま、
面白そうに彼女を見る。
「……霊感がないという、証明?
だったら別に、僕みたいな人間に
一筆書いてもらうまでの
必要はないんじゃないかな。
霊感はその性質上、
結局は自己申告制でしかない。
ないと思う人は自分で『ない』と言えばいい」
「いえ。私はとにかく、霊感がないことを、
誰かに証明してほしいんです。
不可能でなことではないんですよね」
「もちろん。全く難しい話ではない。
前例があまりないってだけ。
ちなみに、理由とかはあるの?
言いたくないならいいけど」
少しの逡巡の後で。
「……母は、私の『霊感』を望んでいました」
その小さなパーカーの少女は、話を継いだ。
「元々、趣味も嗜好も性格も、
全く違う母でした。流行りもの好きで、
私が全く興味もないワイドショーのゴシップを
嬉々として話す、そういう人です。
PTAの仕事とか事務的なことは
父が全部やっていたから、
私にとっては単に、
『いつも家にいる人』くらいの立ち位置でした」
「ほうほう」
「件の霊感ブームが起こった頃、
私は中学生で。母は私に、地元では有名な
私立の全寮制高校を受験させたがっていて、
でも私が到底それに見合う
偏差値を持っていなかったことを、
いつも悔しがっていました」
そんな時に、母が私に言ったんです。
ハルカ、あなたに霊感はないのかと。
「──実際には、
もっと婉曲的な言い方でした。
あなたも診断を受けたら、
何か分かるかもしれないねって。
それこそ、親にとって出来の悪い子供が
ギフテッドであることを望むような、
そういう言い方に聞こえて、
すごく嫌になったんです」
卓袱台の下で、
彼女はぎゅっとパーカーの裾を握った。
「──学校でも色々あったから、
卒業の前後くらいに衝動的に家出しちゃって。
この近くにある繁華街の辺りで
色んな人に拾ってもらいながら
生活してたら、気が付けば
数年単位で時間が経っていました。
もっと都心の方に行けば、
私みたいな年頃と境遇の子は
いっぱいいるから、生きていくだけなら
そんなに難しくなかったです」
「なるほどなるほど。大変だね」
男は依然として、
全く感情の感じられない相槌を打つ。
その様子を、店員の女は静かに眺めていた。
「もう、家に帰るつもりはさらさらありません。
でも、自由に生活してる今もどこかで、
母のあの言葉が付いて回ってる気がして。
友達との雑談の中で、もしかしたら
霊感あるんじゃないって言われて、
それをちゃんと否定できないことが、
ずっと嫌だったんです。それで」
あなたに依頼をしに来ました。
霊感がないことを証明してもらうために。
蚊取り線香の煙が漂う湿った和室の中、
その声が頼りなく響いた。
「店長さんが言った通り、
霊感の有無を判別してくれる
正規のクリニックは、どこもパンク寸前です。
それに、ただ『霊感を調べる』ために
非公認の店に行く人は、
殆どが『霊感があると言って欲しい』需要を
満たす目的でお金を払っている。
だから私は、
ちゃんと霊感を判別できる能力があり、
かつ私の言い分を理解してくれる
お店を探しました。
いろんな噂を辿った結果、
ここのお店の方々が一番信用できると」
「それはそれは、光栄なことですね。
勿論、ハルカちゃんのご意向を尊重しつつ、
誠心誠意対応させていただきますよ──ただ」
男はその瞳を一層細め、彼女を見据える。
「その場合、ハルカちゃんにとっては、
困ったことになる可能性もある。
実は、さっきからずっと
君のことを『見て』いたのだけど──
僕の見識では、どうやら君には霊感がある。
それも、並大抵ではなく、非常に強い霊感が」
「──え?」
突然の宣告に、彼女は戸惑いの声を上げる。
「勿論、ここは霊感の自称を売る
非公認の店だ。だから、霊感がある人に
『あなたに霊感はありません』
という証明書を渡すこともできる。
だけど、ハルカちゃんは
僕らの霊能力を信じて、
その能力による折り紙付きの
証明が欲しかったんだよね?
その場合、君の意向に
沿えない結果を出してしまう可能性もある。
だから、よく考えて──」
「ちょっと、待ってください。
私に、霊感が?」
彼女は防御するように右手を胸の前に掲げ、
彼の発言を遮った。
「それは、何の根拠があって」
「それこそ、僕の『第六感』が根拠である、
としか言いようがない。
こういう仕事上、『本物』の
幽霊や霊能者に会う機会は
それなりに多くてね。
多少なら、色々な人の
バックボーンに存在する霊を
感じ取ることはできる。
この人は霊感を持っているか、
この人の話す怪談に登場する幽霊は本物か──
そういう、ある人に
まとわりついた霊の残滓は、
直接会いさえすれば、大体は正確に見れる」
勿論信用しなくてもいいけどね、
と彼は付け加えた。
「そのうえで僕の私見を述べるなら──
君は、しっかりと霊感を持っている。
それも最上級の、
『現実と霊の区別が全くつかない』
レベルで鮮明な霊感をね」
「そんなこと、言われても」
「ねえ。ハルカちゃんはさ、
本当に気付かなかったの?
あの店先にある三角の布が、
普通の人には見えないものだって」
「…………え?」
ハルカは、
ぱちぱちと目をしばたたかせる。
店員の女が無言でちらりと男の方を見た。
「幽霊だって、
大体は服を着ている。つまり、
霊の世界にも布の概念はある、
ということだ。あの布は、
僕がとある上級霊を
退治したときに拝借した、
とある布の端切れだよ。
もう随分と色褪せちゃったけど──
嘗ては霊が着てたものだから、
当然、普通の人には見えない。
それを、依頼者が多少なりとも
霊感を持っているかを判別する試験紙、
いや試験布として転用しているんだけど」
「──そんな。あれはただのぼろぼろの布にしか」
「そう。君はあれを、ただ現実世界に存在する
ぼろぼろの布としか思ってなかったようだね。
それくらい霊感が強かったということか」
にやにやと、男は話を続ける。
「それと、僕のもつ能力はもう一つ。
誰かの怪談話に登場する霊の真贋を、
判別することができる。
雑な言い方をすれば、
その話に何らかの言霊が宿っていた場合、
それを感じ取れるという能力なわけだけど──
さっき君が話をしているときに
ずっと、怪談話でもないのに、
僕の『感覚』が反応していて」
「……え?」
「多分だけど、
君が言う『母』は、人間じゃない。
お母さんが幽霊だったということを、
君は理解すらしていなかったんだろうね」
たらりと、やや粘性を帯びた汗が少女の額を伝う。
「どこのタイミングかは、
僕には分からないよ。
生まれたときから
亡くなっていたのかもしれないし、
五歳なり七歳なり、
どこかで事故にあって『切り替わった』
のかもしれない。どちらにせよ、
君は恐らく、霊体である母親に、
長いこと人間として接していた。
学校の色んな手続きは全部、
お父さんがやっていたんだっけ。
まあお父さんからしたら、
本当のことも言いづらいだろうし──」
「あ、はは、まさか。
だとしたら、何で母は
私に何も言わなかったんですか。
私はもうこの世にいないとか、
いくらでも伝えることはあるだろうに」
「さあ。そこは僕も想像することしか
できないけど──『人間』として
接してくれる我が子を見て、
自分から真実を伝えることを、
躊躇ったんじゃないかな。
お母さんは、全寮制の高校に
入るよう勧めつつ、
霊感の診断の存在を仄めかしてたんだっけ?
家から離れて、もっとずっと
成長したときに、『誰か』が
それを伝えてくれたら──
そんな風に考えていた、とか」
「──っ、そんなはずが」
「だから」
声を張り上げかけた少女を、
男は右手を上げて制した。
「何度も言っているように、
これは信じてもらわなくていい。
必要であれば、これを踏まえて、
『霊感がない』ことの証明書を
発行することもできる。だけど君は、
僕らの見識と能力を信頼して
ここに来たみたいだったから、
一応の確認として、
霊能者として現状の私見を伝えた。
これを踏まえて何を望むかは、
ハルカちゃん次第。
急ぐ話ではないだろうから、よく考えてね」
「…………」
4
呆然自失、
といった面持ちでふらふらと店を出るハルカを、
二階から眺めながら。
ずっと黙っていた店員の女は、
眉間に皺を寄せながら、男に話しかけた。
「──何を言い出すかと思えば。
また、変な嘘ついて」
ペットボトルの結露で
濡れた卓袱台を拭きながら、男は笑う。
「別に、他意はないよ。
信じなくていいって何回も言ってるし、
ペテンだってことは最初に伝えてる」
「他意しかないでしょうが。
あの子、霊感なんてまったくなかったよ。
店長よりも力の弱い私にすらわかる。
あのペナントだって、
単に旅行のお土産で買ったやつじゃん。
だからあの子の言う通りに、
霊感はありませんって言えばよかったのに。
何で、わざわざあんな嘘ついたのさ」
彼女の唇のピアスが、蛍光灯を鈍色に照り返す。
男は少し黙った後、話を始めた。
「もう、何年前になるかな。
ヒナちゃんがここで働きだすよりも、
ずっと前だから──
十五、六年は軽く経つだろう。
その年に生まれた子がいたら、
今頃高校生の年齢になってる、
それくらい前。
ある女性が、若かった僕のところに、
縋りつくような勢いでやってきた。
黒髪で少し小柄な──ちょうど、
ハルカちゃんにそっくりな女の人だった」
「……?」
「当時、僕は今みたいな店を
開いてるわけではなかったけど、
その力を生かしていろんな仕事をしていた。
そういえばヒナちゃんは、
うちのお客さんを指して
『子連れの親はまあ見るけど』
って言ってたよね。
その女性も厳密に言えば子連れだった。
子供は、まだお腹の中に
いたみたいだけどね」
「……あの女の子が生まれるくらい前に、
あの子によく似た女の人が、
中に子供を身籠って、店長のもとに?
でも、それって」
蚊取り線香を片付ける手を止め、
女は怪訝そうな目で彼を見た。
「彼女はこう言った。
私は病に蝕まれている。
お腹の子供の成長も碌に見られないまま、
あっけなく死んでしまうだろう。
私とは似ても似つかない誰かが、
私の代わりをするかもしれない。
それは嫌だ。
だから、
私の娘に霊感を与えてくれ。
私が娘のもとに、
いつか必ず化けて出るからと」
女の目が、驚愕に見開かれる。
「知っての通り、
僕に霊感の譲渡なんてできない。
できるのは、人の霊感の
あるなしを見ることくらいだ。
そもそも、仮に霊感を与えたとして、
あなたが『化けて出る』ことが
できる保証なんてない。
そう伝えたら彼女は言ったんだ」
必ずなる。
どうにかして、なってみせる。
だって。
だって、
こんなにも未練があるのだから。
「──それは、つまり」
「結局、その子は父方の実家に引き取られ、
家の意向で、本当の母がいることは
伝えられなかったらしい。
そして彼女は育ての親ともうまくいかずに
家を出てしまい、以降は消息不明なんだと、
風の噂で聞いた」
彼はその笑顔を崩さないまま、
目下の路地裏を眺める。
「結局、当の母親は未だに、
化けて出ていないようだ。
恐らく、資質が無かったんだろうね。
そもそも子供にも霊感はないのだから、
もし幽霊になれたとしても、
我が子に実母が見えることは
ないと思うんだけど。
でも、僕はあの時、
その鬼気迫る様子に押されて、
首を縦に振ってしまった。
一応は信用商売の端くれなんだから、
交わした約束は守らなければならない。
だから僕は今、
ハルカちゃんに『仮初の霊感』を与えた」
人の行き交う路地を見下ろし、
彼は話を続ける。
「これで一応、
霊感の譲渡ができないなりに、
亡き母親の依頼は叶えた。
本当の母親が誰なのかまで
僕が告知する義務はない──
というか、それは流石に
『本人』から伝えるべきだろうから、
僕の話はあそこで終わり。
この後であの子とあの親がどうなるのかは、
まあ、成り行きに任せる」
「……変なの」
女は首を傾け、吐き捨てるようにそう言った。
5
後日。
その店のもとに、件の少女が訪れた。
「お願いがあります。
私に、『霊感がある』ことの証明書をください。
私が最初に依頼したこととは違うんですが」
「ほう。勿論、引き受けるよ」
「──正直、あなたの話は、まだ信じ切れてない。
何かの嘘を吐かれてる気がするし、
私が知らなくてあなたが知っていることが、
まだたくさんある気もしてて。
でも、だとしても、
私はその嘘を吐かれたことを──
そう思って欲しいって
考えてる人がいることを
尊重したいって、思ったんです。
だって、幽霊って本来、
そういうものじゃないですか。
信じたい人が信じたいように信じる、
そういうものなはずで。
私の世界には幽霊がいて、
私には霊感がある。
だから自分には、
いつか幽霊が見えるかもしれない。
そう思って生きていくことにする。
そのうえで、
私の生活が何も変わらなくても──
それはそれでいいと思う。
だって、この社会だって、
結局そんなに変わんなかったんだから」
彼女はそう言った。
男は無言で笑い、店の扉を閉める。
雨水の乾きかけた布切れが、六月の風に揺れた。
恐怖症店
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