信長も家康も巻き込まれた!戦国最悪の“嫁姑トラブル”とは?
義理の両親との価値観の違い、子どもの育て方、家族のあり方……。
現代でも悩む人が多いとされる“嫁姑問題”ですが、実はこうしたトラブルは昔から存在していました。
なんと戦国時代には、織田信長まで巻き込むほどの大事件に発展した嫁姑問題があったのです。
信康と徳姫の結婚、そこに起爆トラップが…
徳川家康(当時は松平元康)と、その正室・築山御前との間に生まれた長男・松平信康。
彼は若くして、母・築山御前が深い因縁を抱える“織田信長の娘・徳姫”を正室として迎え入れました。
実は築山御前の実家である今川家は、かつて信長によって滅ぼされた家。
その憎き信長の娘が我が子のお嫁さんとしてやって来たのです。
「よりによって、どうして信長の娘なの!?」
築山御前が複雑な気持ちになったとしても不思議ではありません。
やがて家康が浜松城へ移ると、信康と徳姫は岡崎城で同居生活を開始。
しかしこれが、姑・築山御前の怒りに火をつけてしまいます。
史跡『築山御前首塚』よると、築山御前が二人の仲を裂こうとしていたと見られ、
その行動は「狂乱じみていた」と後世に語られるほど激しいものだったとされます。
そして徳姫、父・信長にチクる
ついに徳姫は築山御前の嫌がらせに耐えられなくなり、父・織田信長へ書状を送り、信康や義理母の問題行動を訴えました。
信長は徳姫からの訴えを深刻に受け取り、
「信康には謀反の疑いがある」と判断し、家康に対して厳しい処置を命じたのです。
家康は必死に弁明し、息子と妻を救おうと奔走したと伝わりますが、
最終的にその努力は実らず、築山御前は家臣によって討たれ、
信康も自害を余儀なくされました。
戦国の世とはいえ、家康がどれほど深い悲しみに沈んだか、容易に想像できます。
今に残る築山御前ゆかりの地
愛知県安城市の「八柱神社」には、築山御前の首塚が残されています。
華やかな武将たちの物語の裏で、家族の悩みが徳川家の未来まで変えてしまった――
そんな戦国の“もう一つのドラマ”を今に伝える場所です。
気になった方は足を運んでみてください。
参考:築山御前首塚(八柱神社)、若宮八幡宮資料