どこで差がついた!? 同じ西軍なのに…家康が下した“謎ジャッジ”
1600年、日本史最大級の合戦“関ヶ原の戦い”が勃発。
勝った徳川家康は天下を握り、
負けた武将たちはそれぞれまったく違う未来を歩むことになります。
ここでは処刑された武将と処刑されなかった武将、それぞれの違いをみていきましょう。
【処刑された武将】
石田三成 — 東軍の“最大の政敵”として処刑
西軍の実質的リーダーであり、徳川家康最大の政敵と見なされていた石田三成。
三成は家康と豊臣政権内で長年対立しており、
家康は彼を「天下の大罪人」と断じました。
その結果、慶長5年(1600)10月1日、京都・六条河原で斬首されています。
参考資料:『慶長日件録』
安國寺恵瓊(あんこくじ えけい)— 毛利を“西軍側に導いた責任”
豊臣政権下で強い政治力を持ち、西軍の参謀として活動した安國寺恵瓊。
特に、強大な勢力を誇る毛利家を西軍に引き込んだことは、
家康にとって脅威と映りました。
そのため、「三成の謀士」として責任を問われ、斬首されています。
参考資料:『徳川実紀』
【処刑されなかった武将】
大谷吉継 — 西軍中枢でありながら名誉を保つ
関ヶ原の敗北後、吉継は自害によって最期を遂げました。
家康は彼の武士としての生き方を高く評価し、遺体を晒すような処罰は行っていません。
さらに、吉継の息子についても赦免し、仕官を許したことが記録に残されています。
参考資料:『駿府記』
島津義弘 — 極刑を免れた“島津の退き口”
島津義弘は西軍武将の中でも特に厳しい処罰が予想されていましたが、戦場脱出戦術「島津の退き口」によって生還。その後の処遇で家康が「無益な戦いを避ける」と判断し、義弘を罪に問わないと表明しています。
予想に反し、まさかのお咎めなしで赦されたのでした。
参考資料:『徳川実紀』
関ヶ原古戦場跡へ
現在の岐阜県不破郡関ヶ原町にある「関ヶ原古戦場跡」では、今回取り上げた武将たちの布陣や脱出経路を実際の地形で確認できます。
興味を持った方は、歴史の舞台を歩いて体感してみてはいかがでしょうか。