どこに出しても恥ずかしい。
尼僧をやっている女性A様から「尼友がお店をやっているから一緒に朝ごはんを食べませんか」とご連絡をいただいた。私の正しい使い方である。普通の主婦から突然出家をして尼僧になられたA様の人生には、絶大なる関心がある。A様のホームページには「もともと救われている」と書かれてあり、救われたくてたまらない私はゾクゾクした。ゾクゾクしながら待ち合わせ場所で合流したが、結局、持ち前のクラッシャーマインドが爆発して、事故に次ぐ事故を巻き起こしてしまった。
本も出しているA様と、テレビにも出たことがある飲食店の店主さんは、世間話に花を咲かせた。私は「やばい。馴染めない」と思った。出家をされている二人の会話が、めちゃめちゃ俗世間の話に聞こえて耳を塞ぎたくなったのだ。だが、私にも社会性があるので「耳を塞いだらいけない」とは思う。思うのだが、体が言うことを聞かない。正気を保つために、スマホを取り出して取材メモを取り始めた。食事中にスマホを触るのは失礼に当たるのはわかる。わかるのだけれど、そうでもしなければ人間の形を保つことができなかった。
壮絶な人生を経て尼僧になられた店主さんは「若い子は苦労が足りない」と言った。大変だ。世間的なおじさんと同じことを言っている。店主さんは「自由な私は業界からも嫌われているんだよ」と言ってガハハと笑った。大変だ。業界から嫌われているアピールをするおじさんも大量にいる。私は、取材メモに「全然出家できてないじゃん」「普通じゃん」「社会と同じじゃん」と書いた。私を気遣ったA様から「会話を聞いていて思ったことはありますか」と聞かれた。私は「あんまり囚われない方がいいと思います」と禅のお坊さんみたいなことを言ったが、見事にスルーされた。
なぜ呼ばれたのかわからないまま、食事を終えた私は虚空を見つめた。気遣ったA様から「坂爪さんもたくさんの人から必要とされて素晴らしいですよね」と言われた。感謝されたくてたまらない人たちっているのだなとダークモードになっていた私は「人から必要とされることはそんなに大事なことですか」と聞いた。質問は見事にスルーされて、居場所を失った私は三森さんのことを思い出していた。友達の三森さんは、父親から虐待を受けて一切の義務教育を受けておらず、日本語は弟と一緒に覚えた強者である。三森さんは「苦労が足りない」とは言わないだろうなあと思った。苦労なんてするものではない。苦労はしないに越したことはない。そう言うだろうなあと思った。
別れ際に「ご縁に感謝です」と言われてゾクっとした。ご縁って言葉は呪いみたいだなと思った。呪いを断ち切るために「全然出家できてないじゃん」と言った。二人の会話が上っ面過ぎて会話についていけなかったと言った。A様から「ちょっと話していいですか」と言われた。私は「ごめんなさい(たくさん時間はあったはずです)」と言った。宗教界も大変だなと思った。常識と真逆の価値観で衆生を救うのが宗教の役割だと思うが、俗世間と同じことで苦しんでいる。子育てに成功したと思っている親は「どこに出しても恥ずかしくない」みたいな褒め方をするのだろう。どこに出しても恥ずかしくないように、人間を教育するのだろう。私には、それが、非常に怖いものに見える。優等生ほど、脆く危険で死に近い。どこに出しても恥ずかしい。そんな私を、私は愛する。
坂爪さん
今日はお付き合いありがとうございました😊🙏
"しゃべっていいですか?"の後、伝えたかったこと、書かせてくださいませ🙏
昨日直感で 坂爪さんにお会いしたいと思ったのは"会うべき人"と感じたからです。
実際お会いできて、直感は正しかったと感じています。
私の発するのが"本当じゃない会話"そう感じさせてしまったから、もうこれで、になってしまったこと、この展開を体験できたことが私にとって有意義でした。
坂爪さんの貴重な時間を私との時間に当ててくださり有難うございました🙏
おおまかな予定
11月26日(水)東京都新宿区界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
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ばっちこい人類!!うおおおおおおおおお!!


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