秀吉が「本能寺の変」翌日に毛利方重臣を調略した手紙…直後に知った信長の死、和睦に影響した可能性
羽柴(豊臣)秀吉が、本能寺の変が起こった天正10年(1582年)6月2日の翌日、敵対する中国地方の毛利氏配下の武士に宛てた誓約状が見つかった。毛利氏を裏切った見返りとして、備後(現在の広島県)の権利を与えるなどの約束が記されている。主君の織田信長が明智光秀に討たれた歴史的事件と同時期における、秀吉の政治戦略が分かる史料として注目される。
誓約状(縦32・8センチ、横44・7センチ)には「天正十年六月三日」の日付があり、現在は掛け軸となっている。東京大史料編纂(へんさん)所の村井祐樹准教授(日本中世史)が今年10月、インターネットオークションで入手し、秀吉の花押(サイン)や、右筆(秘書役)の筆跡などから原本と判断した。
秀吉は当時、信長の命令で毛利氏を討つ「中国攻め」の総大将として、備中高松城(現在の岡山市)を包囲していた。誓約状は、毛利氏元当主・元就の娘婿だった上原元将に宛てたとみられ、「上様(信長)」に忠節を誓った見返りとして、備後を治める権利を与える朱印状を信長から受け取ると約束。実現できなかった場合も、備中(現在の岡山県)の「希望する場所」を渡すなどと書かれている。
秀吉は誓約状を送った後の3日深夜~4日未明に信長の死を知ったと考えられる。秀吉は毛利氏と和睦し、「中国大返し」で光秀を討伐したが、村井准教授によると、毛利氏重臣の元将の裏切りも和睦の実現に影響した可能性があるという。
村井准教授は「信長の死を知らない秀吉が、備後・備中を与えるなど大言壮語しながら敵方の調略にあたった様子が分かる。本能寺の変に極めて近いタイミングで出されており、重要だ」と話す。今回の誓約状は来年2月7日から茨城県立歴史館(水戸市)で開かれる企画展で初公開される。