2024年1月1日に発生した能登半島地震。もうすぐ2年が経つというのに、壊れた建物の公費解体がようやく終わろうかという段階だ。しかも、解体された跡地が空き地だらけになるなど、復興への道筋はなかなか見通せない。
そうした中、「瓦バンクというプロジェクトを進めています」という連絡をもらった。製造されなくなって久しい「能登瓦」を解体される建物から救出。再利用しているほか、アートにも利用を始めたというのだ。能登特有の黒瓦と自然が織りなす美しい風景を見に来てもらおうと、ツアーも企画している。
「能登瓦」とはどんな物なのか。何が動き出しているのか。メディア向けツアーが催されたので、参加した。(全2回の1回目/続きを読む)
「空手の瓦割りをしたら、逆に手の方が割れてしまいます」
瓦には素焼きの瓦、いぶし瓦、表に釉薬を塗った瓦があるが、石川県の瓦は特殊だった。表だけでなく裏にまで釉薬を塗っていた。塗るというより、ドボンと浸ける。そして1200度の高温で焼く。
すると、両面にガラス質のコーティングがなされたうえ、キンキンに固く焼き締められる。
能登半島で使われていた「能登瓦」にはさらに特徴があった。49(しく)判と呼ばれる大きなサイズで、屋根1坪(約3.3平方m)当たりに49枚の瓦が使われた。同じ県内でも南部の加賀地方や全国では53(ごさん)判といい、1坪当たり53枚だ。
でかくて、固い。そして両面にコーティングがなされた瓦。「空手の瓦割りをしたら、逆に手の方が割れてしまいます」。石川県小松市に住む鬼瓦職人、森山茂雄さん(52)が笑う。「瓦バンク」の代表だ。鬼瓦を作る職人は「鬼師」と呼ばれ、森山さんは石川・富山・福井の北陸3県で最後の鬼師である。
だが、なぜそのような瓦が使われてきたのか。これには能登の自然が深く関係している。
海際の集落では「瓦が溶ける」
日本海に突き出した能登半島の冬は厳しい。雪が降り、潮風が容赦なく吹きつける。
風が強く当たる海際の集落では「瓦が溶ける」と話す人がいる。
たとえ裏面であっても素焼きがむき出しになった瓦は、塩と反応してボロボロになってしまうのだ。水が浸み込むと、凍る時に割れるなどしてしまう。
こうした事態を避けるため、全面コーティングの固い能登瓦が使われてきた。
しかし、何十mものトンネル窯で時間を掛けて焼かなければならず、製造コストが高い。「作れば作っただけ売れた時代はよかったのですが、能登瓦を製造する工場は30年ほど前になくなりました。人々の考え方が変わり、100年も持たせるような家が少なくなったのが原因の一つです」と森山さんは語る。人口や和風建築の減少も影響しているのだろう。
石川県内では南部の小松市でもかつては瓦製造が盛んで、能登瓦工場がなくなった後、需要に応えるために能登瓦を作っていた時期がある。ただし20年ほど前までだった。以後は標準サイズしかなくなったが、それでも両面に釉薬を塗っていたので、寒さや潮風には強かった。だが、小松で最後に残った瓦工場も2023年3月に廃業し、石川県内から瓦工場が消えた。