西武鉄道の2000系車両の黄色が好きだ。落葉寸前のイチョウみたいな少し薄い黄色の電車が東京近郊に生える草木やさびれた街並みの営みに無言の爽やかさが駆け抜けていく方を向くと、何かいいことが待っていることを思い出して仕事をする手が活気付く人が一人や二人いてもおかしくはない色。
西武拝島線で運行している電車は新種に入れ替わったが、玉川上水駅の車両基地には2000系の車両がいつごろまでか多く停まっていた。廃車になる寸前の車両がそこに一旦置かれていたのだろうか。
ジジは、おそらく小平駅から2000系の車両に乗って武蔵砂川駅で下車し、幼少の頃の私に会いに来たのだろう。ベビーカーを押し残堀川の桜並木の遊歩道へ散歩に連れて行ってくれたのだという。遊歩道沿いにある小学校へ通う子らから幼少の私はモテたと聞いたが、記憶にはない(ものの)、覚えているのは赤ら顔のお兄さん、お姉さんが私のいるベビーカーを覗き込んで大きな口を開けて、何か言っている。それは多分とても嬉しく、喜ばせるもので、言葉ではなく、その表情、目鼻のいちいちの動きが嬉しいのだ。今も川沿いの散歩と武蔵野・多摩地区の街並みが好きな気持ちは、それらのおぼろな、あるいは、パッチワークのようにその後見たものを聞いた話に切り貼りし、こしらえた記憶の地続きにあるはずだ。
今の住居から一番近い川は玉川上水で、きつねっぱら公園と都立小平西高校に挟まれた道を川沿いに東に歩けば、やがて行き当たる玉川上水駅。東隣の東大和駅へ走るまでに、ちょうどゴミ焼却炉の地熱を利用した足湯施設「こもれびの湯」があり、そこで線路は曲がり並走していた玉川上水とは逸れる。川沿いを歩くと、やがて西武国分寺線の鷹の台駅に行き当たるのだが、その道中、車道とは丸太を組んだ柵に区切られて川を沿う歩道(土の道)から川の流れを見下ろすと、別の時空間に遭遇した時のような不思議な気持ちがおこる。
玉川緑道をFavorite 散歩道として季節の変わり目などに歩くと、前に来た時とは植物らのすがた形は変わり、草の背丈と限りなく近くなるようにしゃがみながら観察する人々も見え、「外」への興味が一新される。特に今の季節(十一月)は落葉樹が葉を落とし、木々の梢には間ができる。そこから差し込んでくる秋の陽の光はまだ夏が残り、白く、黄色く、肌寒い体を温もらせる。毎回、驚くのは玉川上水緑道の土の道から見下ろすと底の方でチョロチョロと流れている川までの(3メートルほどの)断崖の様子である。
雨つゆによって浸食されていったという崖の面は、ところどころ楢の木の根がむき出していて、地上では二本と見えていた木々の根がコブ状に膨らんで繋がっていたりする。面白いのが、葉の茂みから始祖鳥がギャア!と飛んできそうな荒々しさと対照的な小平・国分寺の街並みから漂う生活の気だるさだ。全く違った二層の世界が同居している景色は面白い。
玉川上水は江戸時代初期に都会の水不足問題を解消するために掘られた人工の川だ。羽村市で多摩川中域の水が玉川上水へと分岐し、四谷大木戸まで約43キロの水道を流れる。その間約九十二メートルの高低差で、この勾配はかなり急な部類に入るらしい。
今は東京の用水源という役目は終わり、水量は減ったが、ピークの時代には一日30万トンもの多摩川の水が通っていたため、流れが早く、川底は深くえぐられ、場所によっては大人の身長を越える深さだった。明治から空堀、暗渠化が進む1965年ごろまで溺死事故や投身自殺が多く起こった。太宰治と山崎富栄が三鷹駅の東南に流れる玉川上水に入水した事件は中でも有名だろう。太宰の『乞食学生』という短編の中では、「この辺で、むかし松本訓導(訓導とは学校の「先生」の意)という優しい先生が、教え子を救おうとして、かえって自分が溺死なされた。川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。この土地の人は、この川を、人食い川と呼んで、恐怖している」と玉川上水が語られる場面がある。
付近に建つ美術大学に通っている友達から学校に伝わる七不思議として、太宰治の霊が川を伝い、校内のアトリエで絵を描いているという話を聞いた。別の友人の話では、霊感の強い姉が、玉川緑道付近で和服やもんぺを着た男女の集団が夜道を歩いているのを見た。一緒にいた人には見えていなかったそうだ。私は実際、そこで霊的なものを見たことはないものの鬱蒼と茂る草木の下でチョロチョロと流れる川の音は暗くなると、袖を握るように寂しく響き、そうした話を信じる気持ちが醸成される。
松本訓導は実在の人物で、本名 松本虎雄は1919年11月20日東京都麹町区(現千代田区)永田町小学校の児童を引率して井の頭公園に遠足にいき、誤って玉川上水に落ちた学生を助けようと流れに飛び込んで命を落とした。私は井之頭公園の裏に住んでいたことがあり、井の頭公園をぐるぐる歩いていた夜もあったが、今でも井之頭公園に立っているという松本訓導殉難碑はジブリ美術館の方面にあり、気づかなかった。1922年には、仙台市の小学校で野外写生に出かけた児童が川に誤って落ちたのを救助しようとした小野さつきという教師が殉職している。教師が生徒を助けようとした行動は真っ当なものであるものの、松本訓導の葬儀には、当時の区長、東京市長、東京帝大総長などが列席し、「区葬」として行われた。松本訓導の父が松本眞弦という宮内省で働いている人物だったり、先祖を遡れば関東源氏・源経基に行き当たる出自による影響もあろうか。松本訓導は生前論文の執筆も行っており、『存在論』の中には「存在は依存なり。依存とは犠牲の累積なり、而して犠牲とは没我の行動なり」という一説がある。彼の死の面だけと照らし合わせれば、言動が一致している。
教諭という前に一人の人間でもある松本虎雄という人物のその悲劇的側面をテーマに取り上げられた映画が日活、国活の2社が競うように活動写真を制作した経緯に至っては時代背景、つまり大正デモクラシーでリベラルな、また社会主義的な思潮が社会に前面化し始め、流入された外国文化で「乱れた」大衆道徳を今一度建て直そうと、その死が利用されたようなきな臭さを感じる。
教師は、残業、残業、教育以外での雑多な仕事も引き受けさせられ、ボロボロに搾取、疲れ果てた一労働者ではなく、生徒や親たちに尊崇されるような文字通り、子らを「訓し、導く」職業だったのかもしれない。
時代の断裂はあるかもしれないが、生徒を自らの性欲の慰みものにして逮捕されるなど現代のニュースで後を絶たない下劣な教師らを引率して松本訓導の講話を聞かせるでもなく、私は井の頭池の周りをぐるぐる歩いていた。
黙居できる部屋でもなく、金もなく、働きたくもなく、働かざるをえない状況にいるでもなく、一日中眠っていられるわけでもない。体を疲れさす何でもいい、何かをやる気はなく、意志薄弱で怠惰な私はそれぐらいしかやることはなかった。自殺するには、まだ人や人生に期待をしていた。なぜなら、同じように公園を周回していると、何度もすれ違う「同じように井の頭公園をぐるぐる回っている人」と出会うと、手を振り会釈して親近感を示したくなった。特に、ある一日に何度もすれ違った、顔が小沢健二似で、少し色の褪せた紺のネルシャツを着ていたかれには。私を、とは言わないまでもこの一日を救ってくれるのではないか、と。
私はぐるぐる回っていたのではなくて、もう何も与えてはくれないかれが履いているズボンのベルトを通す穴に自らを引っ掛けて、自動巻きに一日が枯れ尽くすようかれにたくしていたのではないか。
一方で、時間が流れない一日を早くやりきり、そうして何日もが過ぎていき、やがて死ねば何かが変わるかもしれない、と気づけば池の周りをぐるぐる回っていた、と書くのは誇張がある。そのような状況でも楽しみはあったはずだ。
井の頭池からは神田川が伸びていて、神田川沿いを京王井の頭線と挟まれるようにしてよく歩いていた、あの道が当時のFavorite散歩道であった。
川中のコンクリートが浮き出ているところに亀たちが集まって日向に当たっていたり、鳥がいた。三鷹台を過ぎたあたりで駄菓子屋と軽く食料品の売っている店があり、ベンチがあって灰皿があった。川沿いを散歩していて気にかかるのが、引き返すタイミングである。こちらとしては川の流れに身を任せて、川の流れと一体化するようにどこまでも歩いて、家に到着したい気持ちなのだけれど、いつもその方面に家はなかった。むしろ渋谷に行ってしまうので、どこかで引き返し、川の流れに逆らって来た道のぶん歩かなけりゃならない。「けりゃならない」という散歩の楽しみを削ぐ気持ちから離れるために川沿いの道を離れ、住宅街、駅周辺の人が多いところなどへあちこちと折れたり、コンビニに寄ったりしながら、疲れ果ててグーグルマップで現在地を調べ、帰路へとあゆみ始める。(または、電車に乗ってしまう)
家に着いた頃には川沿い散歩で晴れ渡るつもりだった気持ちにはまた別のにごりがくっついているようであった。
ジジは幼少の私を連れ、残堀川沿いを散歩していた時、どの橋で川を渡り、道を引き返していたのだろう?
商人の子に生まれたが、あえて勉学を志し、大手証券会社に定年まで勤めた後、毎日、午前は散歩に出かけ、ドトールで喫煙し、ミラノサンドAを買い、毎日、新聞の囲碁欄を真っ直ぐな四方の線で切り取っていたジジの律儀な側面から推し計れば、(調子によって、折り返す橋は時々違ったかもしれないが)、川沿いの道からは逸れなかったにちがいない。
戻る道もまた、景色は違って見えるはずだし、何よりベビーカーに乗った私の存在が幾分、引き返す時の少し体が重くなるような感じを励ましたのなら幸いだけれど、私が散歩すれば必ず引き返す橋に行き当たった時に毎回ジジの中に駆け抜けた情趣があったのと同じく、私は何かしらの道を行けば毎回どこかの地点でジジのことが思い出される。
いつの間にか、玉川緑道から逸れてガードレール内のコンクリートの道を歩いていると、柊の生垣がしばらく続いた後、日本家屋がすっと現れた。屋根は藁を吹いている立派な平屋である。市有形文化財として登録されたその小林家は一般に開放されているらしく、門をくぐってみると波紋が入っている玉砂利の模様を乱さないように石畳をケンケンして玄関へと向かう。玉砂利の海の向こうには芝生が敷かれていて奥には小さな竹林があり、その前で手を後ろに結んだおばあさんが眺めいっていた。玄関は広く、木を組んで作られた脱穀機や鋤などの用具が壁に立てかけてある。玄関のすぐには囲炉裏があって、「ほう」と息をつきながらしばらく、囲われた四角の中で宙吊りになったヤカンを見るどもなく見ていると、子供の声がした。四つある室の仕切りは取り払われたのか、障子も半分開け放されていて、斜の縁側に竹林を眺めているおばあさんを眺めている男性が腰を下ろしている。どうやら親子連れが見学に来ているようだ。隣の和室で寝転ぶと天井が広く、束の間帰省した書生の気分に浸っている横をかけっこする子供が通り過ぎる。北面の廊下に沿って、外側の壁にはいくつもの扉が横並んでいて、一番はじのほうを開けてみると、木製の棺桶のような箱に丸太を組み合わせたT字型の何かが付いていた。
隣もそうだった。扉には、お客用とか子供用とかが書かれていて、下男下女用のものは幾分、粗雑な石造りの箱が置いてあるだけだ。片っ端からドアを開けていくと、「見つかッた!」と声とともに飛び出してきた子供が傍を駆け抜けていった。遠くから「違う人に見つけられた」「その場合はどうする、もう一回?」などと隠れんぼの協議をする声が聞こえる。
しばらくうろついていると、肩を突かれ、「おじさんもやる?」と天パの男の子に聞かれた。「ははは」と無精髭をいじくりながら、「やろう」とじゃんけんをすると、妹と思しき子供が鬼になった。私は外に出、気になっていた竹林の茂みに姿をくらませた。
しゃがみながら、スマホをいじっていると、聞き覚えのある声が響いてきて、顔を上げると兄弟を含む一家族が石畳の道を通って帰っていくのが竹の隙間から見えた。私は竹林から飛び出て、兄妹に向かって「おーい」と手を振った。
「そこにいたのか!」「おーい」と兄妹は手を振りかえしてくれた。見送った後で、竹林に戻ると、さっきの姿勢でスマホにこの文章を打っていく。引用に必要な本はリュックサックの中に入っていて、ほどほどの負荷が肩にかかり続けている。図書館で借りた本は汚せないので地べたに置くことはできない。片手打ちをしながら膝に乗っけて当該ページを開き続ける必要があるだろう。
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玉川上水の親、多摩川は山梨県の笠取山から流れ、羽田空港付近で海になるまでは全長138キロメートルの道のりがある。
多摩川は武蔵野台地に接し、この地に人々が移り住んで行ったのは多摩川の水の開拓とともにある。そのあらましについて、『新編武蔵野風土記』では、
当郡(多摩郡)は古へ入間郡へかけ人家もまれにして、ただ茫漠たる広原なりしゆへ、公私旅行の者ややもすれば飢寒疾病の患あるによりて、多摩・入間の両郡の界に非田所(1)を置かれしこと、【続日本後紀】天長十年(833)の条にのす、是郡名の初めて古記にあらはれしものなるべし、また【続日本後紀】承和十一年(844)の条に、武蔵国多摩郡狛江郷と見ゆれば、郷名のことはここに初めてあらはれしなるべし、其辺をばすべて武蔵野と唱へしは、【萬葉集】に歌あるをもて思へば、猶ふるくよりあらはれたり、其野をすべていはば十郡にわたりしなどいへば広大のことなり、其内にも当郡にある原野は、他郡よりことに広きことは論なし、中古の至り【東鑑】に、建仁二年(1202)上多摩川の水を通して、小机郷辺の水田を開かれしことをのすれど、是は稲毛領小机領の水田を開墾せられしことと見ゆ、夫れよりあまたの年暦を経て、御打入の後より享保年間に至るまで、武蔵野の広原を開かれ、今に至りて八十余村の武蔵野新田と唄るもの出来たり、(…)
「あまたの年暦を経て、」と省略されている年月について、多摩川の水を開墾し、八十余の村ができていく様子については『武蔵名勝図会』が詳しく、
天正(1573〜92)の頃までは武相の地は小田原北条氏の領するとはいえども、関東は闘争の巷にて、古河御所成氏朝臣より義氏、晴氏の三代に至りて管領山の内、扇ヶ谷両上杉に長尾、太田、里見、北条、結城なども久しく合戦ありて、殊には康正(1455〜57)、長禄(1457〜60)の頃より日夜少しも穏かならず。東国の農民居を安堵することなければ、水陸の田畑おのずから荒野となりし時なれば、武蔵野の曠原は猪鹿狐狢のみ多かりし(……)新墾の地寛永(1624〜44)の頃より始まり、年年開墾していまや原野蒼茫たるところなく、(……)
作・絵 村松昭『玉川散策絵図』を開いてみると、今は府中市郷土の森 プラネタリウム・郷土館がある辺りで多摩川を挟み、新田義貞と北条泰時の軍が衝突した元弘の戦い(分倍河原の戦)が1333年に起こった、とイラストで描かれている。
どうやら、多摩川流域に人が多く住んでいったのは江戸からのようだ。留意しておきたいのが、武蔵野台地に点在する雑木林は、新田開発とともに関東平野の山裾から平地へと降りてきた百姓たちが、里山の代替物として造りあげたもので、近世の開発が産み落とした人為的な生態環境である点だ。私が玉川上水の道沿いを歩いた時に感じる温もりも、人の生活とともに開発されてきたものであって、単に「自然が良い」という一言では終わらない。複雑な人と自然の入り組みあった歴史の「ちょうど良い折り合い」を慈しんでいるのだと思う。
明治期、国木田独歩は『武蔵野』で、帝都と郊外のあわいの地としての「武蔵野」という土地から詩趣というものの描出を試みた。曰く、「郊外の林地田圃に突入する処の、市街ともつかず宿駅ともつかず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈しいる場処」と武蔵野を言い表している。
独歩は渋谷村から「武蔵野」を発見し、書いた『武蔵野』が成立して、130年近くの時が経って、今はNHKセンターのある独歩住居跡の周辺には、田山花袋が初めて独歩宅を訪れた時の記述(2)に見られる「田圃」や「楢林」は目につかない。都市生活の名残と田舎の生活の余波とが溶け合ううずは、時とともに移動したのか。
独歩が武蔵野のアピールポイントを、「美」ではなく、あえて「詩趣」と呼んだのは、山の活動もそこで生きる多様な生物のそれぞれの事情と人々の生活や社会状況も移り変わるゆえに、その折衷点で奇跡的に目撃される「美」が瞬間的なものであったからだろう。では、『武蔵野』が成立してから百数年の時を経て、武蔵野の「詩趣」はどこへ移動したのだろうか。(3)
都会/近郊という二項対立では掬い取ることのできない場。書物には人の眼差しや五感で感じ取ったものを記述するしかないゆえ、不可避的に人が介在する。全く純粋な自然というものはありえないとも思う。多摩丘陵の開発について狸の視点から描出を試みようとしたジブリ作品に、『平成狸合戦ぽんぽこ』がある。そのパンフレットに掲載された監督・高畑勲のエッセイはこう書く。
原生林は荘厳だけれど、不気味で容易に人を寄せつけない。植林された針葉樹林は整然として、どこか人工的な美しさを感じさせる。しかし里山の雑木林は親しみやすくなつかしい。それは人に利用され、人とともにあって、何百年ものあいだ同じ姿であり続けるものだったからではないのか。断じて昔の風景だからなつかしく美しいのではない。こういうものこそが、本当に親しみのある美しさとして人に感じられるのではないか。
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齋藤潤一郎『武蔵野』は(独歩の見出した武蔵野、例えば落葉樹の美といった自然のものではないが、)百数年後の現れ方の違った「武蔵野」を描出している。
このシリーズは単行本として2026年現在のところ2冊出ている。
1巻目の『武蔵野』では齋藤潤一郎本人と思われる漫画家の男が、2巻目の『武蔵野 ロストハイウェイ』では売れない絵を描く女が、各話ごとに西東京周辺近郊を散策する。舞台となる場所がそのまま各話のサブタイトルになっているので羅列していく。「高麗」、「秋津駅⇄新秋津駅」、「北朝霞」、「小野路(多摩丘陵)」、「横浜」、「羽村市動物園」、「江東区」、「沼南」、「夏」、「府中本町」(ここまでが『武蔵野』)、「桶川」、「稲城」、「自由が丘」、「競艇場前」、「八潮」、「和泉多摩川」、「聖蹟桜ケ丘」、「新宿」、「八千代」、「三鷹」
高麗は池袋駅から西武電車の飯能行きに乗りかえ、飯能で乗りかえて二つ目の駅が埼玉県日高市の高麗である。「のっけから、埼玉県やないかい!」とお思いの方もいるだろうか。先に述べた「武蔵野」という詩趣の浮動性を念頭に、読んでいくと面白いことがわかった。
「高麗」の話の表紙絵はチマチョゴリのような着物を着た女性が描かれていて、駅を降りると獅子かシーサーみたいな顔が先端に彫ってある二本の塔が立っている。
高麗という地名の由来は古い。坂口安吾『高麗神社の祭の笛』では、その古代史について詳しく紐解かれる。
高麗とは天智天皇の時代に新羅によって滅ぼされた高句麗のことだ。民族は扶余族とされていて、百済と高句麗をおこし、大陸を移動してきた。日本で高麗郡が成立する以前から高麗人は日本への移住を繰り返し、大陸文化を運んできたことが史書から確認される。
さて、日本という国号が誕生したのは中央集権化が進み、律令国家が成立した7世紀後半。対外的な国号が「倭国」から「日本」へ改められた。
日本という国家が成立する以前、朝鮮大陸から渡ってきた民族は日本人でも扶余人でもなく、たんに族長に統率された渡来の民として列島各地にバラバラに生活していた。日本国が生まれて間もなくも、国境があるわけでもなく、警備や監視があるわけでもない大昔には、「アマの小舟で易々と、また無限に入国して、諸国に定住し得た」、「自分の一族だけで自分勝手に海を渡り、どこかの浜や川の中流、上流などで舟をすて、自分の気にいった地形のところへ居を定めた」、そんな分散型の家族的移民は、続日本紀に記録された1799人よりもっと多くの人々が海を渡り、住んだ地域が各地にあったはずだと安吾は想像する。
かれらは山間の高燥地帯に居を占め、猛獣、毒虫がいるかもしれない低地を避けるような生活様式を好んだ。そうした土着に際し、原住民にはない高い文化を持っていたので、近隣の支配的な地位につくことが多かった。
話は脱線したが、独歩の『武蔵野』から約130年の時を経て、斎藤潤一郎の身体で捉えられた、新しい「武蔵野」は簡単に言えば、コンクリートに覆われたのちも残る「武蔵野」の呪縛のような迷路じみた地形だろう。開発で雑木林の多くは伐採されたとはいえ、勾配や大地の性質までもまっさらにされるわけではなく、丸裸にされようと「武蔵野」の地形は残る。斎藤(と思われる人物)は、あてどもなくさまよい、いったい自分はどこにいるのかわからなくなる。独歩は、武蔵野の路を「相逢わんとて往くとても逢いそこね、相避けんとて歩むも林の回り角で突然出逢う事があるだろう。されば路という路、右にめぐり左に転じ、林を貫き、野を横ぎり、真直なること鉄道線路の如きかと思えば、東よりすすみてまた東にかえるような迂回の路もあり、林にかくれ、谷にかくれ、野に現れ、また林にかくれ(……)」と、描写し、その煩雑な道に見るべきものがあるのだ、と散歩哲学を説くが、道の特性について、明確に意識せず土地に絡みとられて歩行してしまう、のが斎藤の独特な歩行だろう。斎藤の身体を通して、逆に「武蔵野」というものが人の身体に作用すること。独歩の生きていた時代のような自然こそなくなれど、色濃い土地性が大地に刻印されていることの証左でもある。
斎藤はコンクリートで覆われた雑木林の残り香漂う、迷路の上を無目的にさまよう。独歩がいうような「迷った処が今の武蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困る事もあるまい。帰りもやはりおよその方角をきめて、別な道をあってもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある。日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染て、見るがうちに様々の形に変ずる。」といった絵になるような景色は見出されない。時代から取り残されたさびれた建物や商店のただずまい、ちょっとした人の良心、それさえも巡り合わない時には唐突に、荒唐無稽な想像で補われる物語に哀愁や気の抜けた笑いを催させる。
第5話の「横浜」では、主人公の男がSNSでまた始まった戦争についてのポストを電車内で眺めている場面から始まる。「日本もそう遠くない未来戦争に巻き込まれるだろう」、「東京に住んでいる自分など真っ先にミサイルを打ち込まれて街ごと吹っ飛ばされてお終いだな」と、どこかあっけらかんと憂慮し、ドクロマークのついたキノコ雲のコマの後で、話題は『孤独のグルメ』に出てきた店に移り、行くつもりだったその店へ乗った電車は通過する。
降りた元町・中華街駅の叉焼メロンパンなる広告に見入り、その店に入る。追加で頼んだエビクレープはつるつるで美味しく、店内では中島みゆき「ひとり上手」の中国語カバーが流れている。店員さんが鼻歌を唄い始めると、「中島みゆきを唄う人々と殺し合いたくない」と思う。
腹を満たすと中華街から外れ、輸入物を取り扱う食料品店でココナッツ飴とチリソースを買い、地味な内装がいいなあと感じる。
区役所でトイレを借りる。
福富町に入り、古い建築を眺めながら歩き、行く予定だった「孤独のグルメのお店」が定休日になっているのを残念がる。
桜木町にでて、海を見る。
横浜に来た理由を思い出し、赤レンガ倉庫の前を通り、馬車道のカフェに入る。カフェの中は高い天井にステンドグラスがきらめいていて、ダリオ・アルジェントの『サスペリア』に出てくる怪物を思いだし、プリンとコーヒーを楽しみながら読書をするが、ついついスマートフォンを見てしまい、次から次へと最悪な未来が脳裏に浮かぶ。
店を出ると、停留しているボートのスケッチを描き、2022/3/2と日付を刻んだ。
というように、散策そのもののように各コマにはその都度見たもの、感じたことが散りばめられていて、読者も一コマ一コマ移る目の運動が歩行になっていく。直接的な戦闘をしているわけではない日本のある土地での景色に、戦争のイメージがサブリミナル効果のように点滅しながら入り込み、戦争の気分が何か生活の低音のように鳴り響き続け、生活がゆるやかに乱されていく。
具体的な物質のレベルでも、経済の流れを見ていけば、我々の日常の行為も遠い国で起こっている戦争の兵器につながっていることもあるわけで、無関係ではいられないけれども、SNSを見て「しまう」時に、こちらは情報を受け取る構えをしていない。そこへ、爆撃で人が殺されている短い動画が目に飛び込んだらどうなるか。ワードや情報のジャンルにフィルターをかける機能もあるが、「戦争」という大きなものならなおさら、「戦争」を連想させる語彙は多岐にわたる。匂いはどうしても漉せるものではない。そうして、衝撃的な情報を未消化なまま体に溜まって、距離感の定かではないおぼろな、言語化できない何ものかを放り込まれ、生活が屈折する感覚は同時代的なものだろう。
注
(1) 悲田所…人家の少ない場所で旅行中の人が道中で病気にかかった時のため、多摩郡と入間郡の境に置かれた一時的な救護所、宿泊所。国府が運営をしていたらしいが、どのようなケアが為されていたかについては史料がなく今の所定かではない。
(2) 田山花袋が初めて独歩宅に訪れた時の記述…「渋谷の通を野に出ると、
駒場に通ずる大きな路が楢林について曲がっていて、向うに野川のうねうねと田圃の中を流れているのが見え、その此方の下流には、水車がかかって頻りに動いているのが見えた。地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私たちは水車の傍の土橋を渡って、茶畑や大根畑に添って歩いた。」田山花袋『丘の上の家』より
(3) 武蔵野辺りの土地に行くと感じられる独特の情趣は私にも覚えがあり、赤坂憲雄『いくつもの武蔵野へ 郊外の記憶と物語』は小説や映画だけでなく、地誌資料などにあたって、武蔵野という土地について考えてみようと気概を起こさせた一冊だった。この文章が書かれたのも同書を読んだ影響だ。しかし、気になった点があり、「いま・ここで生きられている武蔵野へ」と著者が姿勢を示す割には、同書で取り扱われる作品は近代とその流れに隣接したものが多いと感じた。言及されている作品で一番新しいものが長野まゆみ『野川』(2010)で、河岸段丘の上に立つ中学校を舞台にした、また水分量の多い武蔵野の土がかおる作品であったが、あくまで地形資料から読み取られる武蔵野の姿に根ざし、今の私(われわれ)が、吸っている空気感を含んでの描出という印象はなかった。齋藤潤一郎の他に、清原惟『すべての夜を思い出す』(2022)をあげたい。多摩ニュータウン設立の初期に街化された諏訪地区などを舞台に3人の人物の一日を近辺に住む人々の暮らしや整備された自然が作品の其処此処で彩る。知珠という人物は、友達の家を探すという「訪れた人」として土地を歩み、団地近辺の区画整備された芝生を横切った先の公園であわや、ダンスを楽しんでしまうなど、「その人限りの体験」という視座で武蔵野のあらましを浮き彫りにされた作品だ。