時刻は午後8時。
シャーレの執務室にはまだ明かりがついている。中には椅子に座って書類に囲まれている人がいた。
「うーん。終わんないなこれ。」
そう言って頭を抱えるその人の目には深い隈がくっきりと見える。いったい何日寝てないのだろう。
「先生。あまり無理をしないでくださいね。ちゃんと寝ないとダメですよ。」
私は後ろからその人、シャーレの先生に声をかける。先生は少し驚いて言う。
「セリナ…いつからそこに?」
「ふふ。私はいつでも先生を見守っていますよ。」
先生は不思議な、それでいてどこか諦めたような表情をうかべる。
「仕事が忙しいならもっと私たちを頼ってください。先生のように全てを1人で、というわけにはいきませんがお役には立てるはずです。」
「そう言ってくれるのは嬉しいんだけど…。みんなの大切な時間を奪っちゃうのが申し訳なくてね。つい遠慮しちゃうんだ。」
首に手を当てながら笑う先生に私はわざとらしく大きなため息をつく。
「先生は何もわかっていませんね。」
本当に何もわかっていない。
大切な時間を大切な人と過ごしたい。この気持ちのどこに遠慮する必要があるのか。
なんのこと?と首を傾げる先生に思わず笑ってしまう。
そうですね。あなたはそういう人です。
私が笑ったことでますます深く首を曲げる先生に近づいて持っていた箱を渡す。
「差し入れです。甘いものでも食べて今日は休んでください。」
「わあ、ありがとう。おいしそうなチョコだね。」
「喜んでいただけたのなら何よりです。では私は失礼しますね。おやすみなさい、先生。」
「うん。セリナもおやすみ。外は暗いから気をつけて帰ってね。」
私はシャーレの建物から出るとトリニティへ向かって歩き始める。何度も通った道。今なら目をつむってでも帰れそう。
なんて冗談に1人でクスッと笑いながら先ほどまで話していた人のことを考える。
先生。
優しい人。とても優しくて暖かい人。
頼りになるのに、どこか守ってあげたくなるような、不思議な人。
そして、私に初めての感情を教えてくれた人。
私の、大切な人。
そんな先生は他の生徒からも慕われている。それはそうだろう。あんなに素敵な人なんだから。
だから…私は思う。先生の隣には立てなくてもいいと。きっと私よりふさわしい人がいるから。
ただずっと元気でいて、笑っていてほしい。
それだけが私の願いだった。
私はいつも先生を見守っている。怪我をしないように、事故に巻き込まれないように。笑顔でいてくれるように。
いつも少し遠くから、気づかれないように。
少し寂しいけれど、私にはそれで、それだけで十分だった。
今日は私が当番の日。
先生のそばにいられる日。そばにいてもいい日。
先生はたぶんろくに食事をとっていないだろうと朝早く起きてお弁当を作った。昨日、献立作りから買い出しまでを準備していたのだ。そのため、昨日は先生の姿を見ていない。
料理は特別上手というわけではないが、それでも先生のために心を込めてバランスの良いおかずを作った。
おいしく食べてもらえるといいな。
そんなことを考えながら私はシャーレの執務室までの階段を一気に駆け上がり、ドアの前で軽く息を整える。
そして笑顔で、ドアを開ける。
「先生、おはようございます。当番のセリナです。」
私の声が執務室に響く。
……あれ?いつもなら椅子に座った先生が出迎えてくれるのに。
「先生?いらっしゃいますか?」
お手洗いにでも行っているのだろうか。そう思いながら先生の椅子に近づくと、机の下に倒れている人を見つけた。
先生だった。
手に持っていたお弁当が床に落ちる。
私は体中の血の気が引いていくのを感じる。
どうしよう、体に力が入らない。
倒れそうになる体をなんとか支え、今するべきことに意識を向ける。
「先生っ!大丈夫ですか?!」
そう叫びながら先生に駆け寄り、状態を確認する。いつもならテキパキ行える脈や呼吸の確認も、今は指の震えが止まらない。
「呼吸はある。脈も…安定してる。……気を失ってるだけ…?」
命に別状はないことがわかると少し落ち着きを取り戻し、辺り見回す。
人が入った形跡はないし、先生に外傷もない。
となるとやっぱり…。私は机の周りに散らばった大量のエナジードリンクの缶を見て思う。
先生の倒れた原因はおそらく過労だ。
先生をベッドに運んで毛布をかける。ぐっすり眠る先生の顔には深い隈があった。
先生はキヴォトスの外の人だ。私たちと違って銃弾一発が致命傷になりうる。何日も寝ないで働けるほど体が丈夫ではないのだ。
今までも先生は働きすぎていた。
それでも倒れる前には私が休むように強く言っていたため、倒れるまで働くということはなかった。
でも…今日は、私が当番だったから。
昨日、会えなかったから。倒れそうな先生に気がつかなかった。
私が、見ていなかったから…。
私の、せい…で?
そのとき1つの考えが頭をよぎる。
……そうだ。私が見ていなかったから先生は倒れたんだ。
私が、ずっとそばにいれば、こんなことにはならなかった。
先生には私がいないとダメなんだ。
ひとたびそう思ってしまうと先生への気持ちが溢れて止まらなかった。
私がいないと先生はまた倒れるまで無理をしてしまう。
私が先生を守るんだ。もっと近くで、隣で。
簡単なことだった。最初から私が隣にいればよかった。
溢れた気持ちが膨らみ、形を変えて、欲となる。
「ふふ。先生、私はとてもわがままな子だったようです。」
自分でも知らなかった気持ち。隣に立てなくてもいいと、そう思っていた。だけど、それは違ったらしい。
あなたの隣には私がいる。
あなたが喜びを分かち合いたい時、1番最初に思い浮かべるのが私であってほしい。辛くてどうにもならなくなった時、私に助けを求めてほしい。
そう思ってしまうほどにはどうやら私はわがままだったらしい。
時刻は午前2時。
深夜、真っ暗なシャーレで先生は目を覚ました。
「先生、やっと目が覚めたんですね。お身体の具合はいかがですか?」
先生はキョロキョロと辺りを見回す。いまいち状況が掴めていないようだ。
「あぁセリナ。今何時?私はどれくらい寝てた?」
「先生、今はそんなこと関係ないですよ。まったく、あれほど休むように言ったのに倒れるまで働く先生が悪いんですからね。」
「はは、ごめんね。でも遅れたぶん、取り戻さないと。」
先生は体を起こすとベッドから出ようとしていた。
「先生。何をするつもりですか?」
自然と声が低くなる。
さっきまで過労で倒れていたんですよ?
体が限界だったんです。あれ以上働いたら死んじゃうってことなんです。
なのにどうしてベッドから出ようとしているんですか?
「何って、仕事だよ。また書類が溜まっているだろうからね。」
そう言って笑う先生に私はもう我慢できなかった。
「もう!まだわからないんですか!これ以上はダメなんです!!」
「死んじゃうかもしれなかったんですよ!!もっと自分の身体を大切にしてください!」
私の怒鳴り声に先生は驚き、声を失う。
肩を震わせて拳を握りしめる私を見てハッとしたようだった。
私は深呼吸をして息を整えてから先生の横に座る。
「ご、ごめん。セリナはずっと心配してくれてたのに。これからはもっと…」
「いいえ、先生。もういいんです。私、気づいたんです。」
先生の言葉を遮り、私は先生の頬に手をそえる。
「セリナ?何して……」
「私がいないと先生はきっとまた無理をしちゃうんです。だから、先生には私がいないとダメなんです。」
そう言って私は先生の耳元で囁く。
「これからは私がずーっと隣にいますからね。」
私は先生に抱きついて優しく頭をなでる。
「ちょっと、セリナ?いきなりどうしたの。」
私から離れようとする先生に
「だーめ、ですよ、先生。」
子供をあやすような声で言う。
「先生はもう私から離れちゃダメなんです。」
私は笑顔で先生の顔を見る。
あははっ。先生、なんて顔してるんですか。
そんな顔しないでください。これはあなたのためなんです。あなたを守るため。
だからずっと、私のそばにいてくださいね?