はじめに
「今日も、何もできなかった」。夜の部屋で、私はその言葉を呟く。また。今日も。
仕事をしなかったわけではない。むしろ一日中、何かをしていた。画面を見つめ、キーボードを叩き、メッセージを返し、タブを切り替え続けた。体は疲れている。目も疲れている。頭も疲れている。確かに疲労感はある。なのに、達成感がない。忙しかったのに、何も完了していない。この矛盾が、私を苦しめる。
朝、デスクに座った瞬間から、地獄が始まる。Slackを開くと未読の赤いバッジが十件以上浮かんでいる。「全部返信しなければ」。次にメールを開くと新着が三件ある。「これも返信しなければ」。GitHubのタブをクリックするとレビュー依頼が二件待っている。「これも見なければ」。そしてTwitterを開くとタイムラインに流れてくる技術記事のタイトルが目に入る。「これも読まなければ」。全部が重要に見え、全部をやらなければいけない気がする。最新の情報に遅れたら、自分は価値のない人間になってしまう。その恐怖が、私を駆り立てる。
だから、全部に手をつける。三十分後、ブラウザに二十以上のタブが開いている。「今日、最初にやろうと思っていたことは、何だっただろう」。思い出せない。これを、一日中繰り返す。
夜になって振り返る。Slackのメッセージは半分だけ返信し、メールは一件だけ返信し、GitHubのレビューは途中で止まっている。Twitterの記事は読み切れず、本当に重要なタスクには手をつけることすらできなかった。全部が中途半端で、何ひとつ完了していない。
「今日も、何もできなかった」
私は、停滞したくなかった。だから、全部をやろうとした。気づけば一日が終わっていた。いろんなことに手をつけたのに、何ひとつ完了していない。停滞を恐れるあまりに、私は停滞していた。前に進もうとして、全部をやろうとして、結局何も完了させず、その場に留まっていた。誰にも指摘されることのない、自分だけが知っている停滞。
2025年の今、情報は溢れている。SNSを開けば、誰かが何かを成し遂げている。やるべきことは、無限にある。私は全部をやろうとした。しかし、選択ができなかった。何かを捨てることが、怖かった。「これを捨てたら、停滞してしまうんじゃないか」。その恐怖こそが、選択を妨げていた。全部をやろうとして全部が中途半端になり、何も完了しない日々が、じわじわと私の自己肯定感を蝕んでいった。毎晩、同じ言葉を繰り返す。「今日も、何もできなかった」。
こうやって、停滞は完成する。私の停滞は、そうやって完成した。停滞を恐れることで、停滞が生まれる。悲しいことに。
振り返ってみれば、全部をやろうとしていたのは自分を信じていなかったからだった。「1つだけでは不十分だ」「1つだけでは成長できない」「1つだけでは遅れてしまう」。そんな不安が、全部に手を出させていた。1つのことを完了させる自分の力を、信じられなかった。
でも今は分かる。シングルタスクとは、自分を信じることだ。「この1つを、自分は完了させられる」と信じて、他を手放す勇気。その信頼が、停滞を終わらせる。
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なぜ、頭がパンクするのか
朝デスクに座ってSlackとメールとGitHubを開くと、気づけば頭の中が真っ白になっている。これは単なる「忙しさ」じゃない。人間の脳には「ワーキングメモリ」という処理領域があり、一度に扱える情報量には限界があるからだ。十個のタスクを同時に考えようとすると、脳は必死にそれらを保持しようとする。しかし保持するだけで力を使い果たしてしまい、本来やるべき思考——どうやってこのコードを書くか、どう問題を解決するか——のための余力が残っていない。これを「認知負荷」と呼ぶらしい。
認知負荷には三種類ある。1つ目は内在的負荷で、タスク自体の難しさだ。複雑なコードは、それ自体が頭を使う。2つ目は外在的負荷で、やり方の問題で生まれる無駄な負荷だ。「どのタスクから手をつけるべきか」と迷っている時間。これは本質的な作業じゃない。ただの迷いだ。3つ目は生成的負荷で、学んだり理解したりするための建設的な負荷。これは必要な負荷だ。
私が全部のタブを開いて、全部のメッセージを見て、全部に気を取られていた時、外在的負荷が認知資源を食い尽くしていた。本来なら、生成的負荷——実際に学び、成長するための思考——に使うべきリソースが、「何からやるか」という無意味な選択に消費されていた。
一つを選ぶということは、他の二つの負荷を減らし、本当に必要な負荷に集中するということだった。
不確実性という怪物
大きなタスクが重く感じるのは、そのサイズだけじゃなく、その中に含まれる「わからなさ」の総量が原因だった。新しい機能を実装するタスクを前にすると立ち止まってしまうのは、いくつもの「わからない」が同時に襲ってくるからだ。
不確実性の五つの層
不確実性には、実は5つの異なる層があると思っている。それぞれが、異なる種類の心理的抵抗を生み出す。
1つ目は「何をすべきかわからない」(認識的な不確実性)だ。問題の構造自体が不明確で、ゴールの輪郭がぼやけている。「システムの可用性を向上させる」と言われても、何をどこまで作ればいいのか分からない。モニタリング基盤なのか、自動復旧なのか、冗長化設計なのか。全体像が見えない。この不確実性は、タスクの範囲や目的を明確に定義することで解消される。でも一人でやろうとすると、何が「明確」なのかすら分からない。
2つ目は「どうやってやるかわからない」(方法論的な不確実性)だ。目標は見えていても、そこに至る道筋が描けない。技術的なアプローチが見えない。どの監視ツールを使うべきか、どう設計すべきか、どの順番で進めるべきか。この不確実性は、タスクを具体的な行動ステップに分解することで縮小する。でも経験が足りないと、どう分解すればいいかも分からない。
3つ目は「実際にできるのかわからない」(実行的な不確実性)だ。自分のスキルや利用可能なリソースで本当に達成可能なのかという不安。「これ、自分には難しすぎるんじゃないか」「時間内に終わらないんじゃないか」。この不確実性は、タスクを小さな単位に分割し、1つずつ達成することで払拭される。「少なくともこの部分はできる」という確信を積み重ねる。
4つ目は「いつまでかかるのかわからない」(時間的な不確実性)だ。終わりが見えないトンネルに入るような感覚。一週間で終わるのか、一ヶ月かかるのか、半年かかるのか。予測できない。この予測できなさが、着手を躊躇させる。期限を段階的に設定することで、各フェーズの時間的見通しが立つ。でも全体が見えないと、期限の設定すらできない。
5つ目は「何をもって完了とするかわからない」(評価的な不確実性)だ。完璧を求めすぎて、「どこまでやれば十分か」の基準がない。あれも追加すべきか、これも改善すべきか。終わりがない。完成度の段階を定義することで、各段階での達成基準が明確になる。でも最初は、その段階分けすらできない。
これら5つの「わからない」が1つの大きなタスクの中に渾然一体となっているため、手をつける前から圧倒される。
わからないを、段階的にわかるに変えていく
でも分割すると何が起きるか。不確実性の解消は、一度に全てを解決するのではなく、階層的な変換プロセスとして機能し、それは4つの段階を経る。
第一段階:全体の可視化
漠然とした大きなタスクを構成要素に分解する。「何が分かっていて、何が分かっていないか」を明確にする。この段階では、不確実性を解消するのではなく、不確実性を構造化する。
システムの可用性を向上させる。まず、次のように紙に書き出してみる。
- モニタリング基盤の整備
- 自動復旧の仕組み
- 冗長化の設計
- アラート体制の構築
- インシデント対応の自動化
書き出すだけで変わり、「何が分からないか」が分かる。未知の領域が明確になることで「未知の未知」が「既知の未知」へと変化し、これ自体が心理的な安定をもたらす。なぜなら正体不明の恐怖よりも、範囲が限定された課題の方が対処可能に感じられるからだ。「全部わからない」から「この5つの中で、モニタリングとアラートは何となくイメージできるが、自動復旧の仕組みは全く分からない」へ。この認識の変化が第一歩だった。
第二段階:確実性の島を作る
全体像が見えたら、最も確実性の高い部分から着手し、「これならできる」という小さな成功体験が確実性の島を作る。5つの中でモニタリング基盤が一番イメージできるため、ここから始めるが、モニタリング基盤もまだ大きいため、さらに次のように分割する。
- メトリクスの収集設定
- ダッシュボードの作成
- アラートルールの定義
- ログ集約の設定
メトリクスの収集設定なら絶対にできるため、これを最初の島にする。CPU使用率、メモリ使用率、ディスクI/Oの監視を設定すると動いた。ここまでは確実にできた。この確実性の島は周囲の不確実な領域を探索するための足場となり、1つの成功は「他の部分も同様にアプローチできる」という仮説を生んで心理的な推進力となる。「メトリクス収集ができた。じゃあ次はダッシュボード。これも同じように1つずつグラフを追加していけばいける」と進めると、やってみるとできた。また1つ、島ができた。
第三段階:フィードバックで精度を上げる
小さな単位で実行し、結果を観察する。このフィードバックループが、予測精度の向上をもたらす。
アラートルールを設定して運用してみると、夜中に誤検知アラートが鳴りまくった。閾値が厳しすぎたとすぐに分かり、小さな単位だから問題の切り分けも簡単で、すぐに修正できた。重要なのは失敗と成功が等しく情報であるということだ。「この閾値ではうまくいかなかった」という知見も不確実性を縮小させ、探索空間が狭まって残りの選択肢がより明確になる。「固定閾値だけじゃ不十分だ。移動平均を使った動的閾値の方がいい」という学びが次のアラート設定の精度を上げた。大きなタスクのまま進めていたら何週間も経ってから「全部やり直し」になっていただろう。しかし小さく分割していたから数時間で軌道修正できた。
第四段階:学びを反映して柔軟に変える
実行を通じて得られた情報に基づき、当初の計画を修正する。これは計画の失敗ではなく、不確実性に対する適応的な対応。
最初は「インシデント対応の自動化」を後回しにしていた。しかし運用を始めるうちに「アラートが鳴っても手動対応では間に合わず、自動復旧の仕組みがないと夜中に起こされ続ける」ことに気づいた。順番を変えて冗長化設計より先に自動復旧スクリプトを作ることにした。硬直した計画は予期しない障害に直面すると崩壊するが、小さな単位で計画と実行を繰り返すアプローチは本質的に柔軟性を持つ。各サイクルで得られた知見が次のサイクルの設計を改善する。「最初の計画通りに進めなかった」ことを失敗だとは思わなくなり、むしろ学びながら最適化している証拠だと思えるようになった。
不確実性が行動を止める、本当の理由
不確実性が行動を阻害するのは、単に情報が足りないからではない。それは認知的・感情的な複合的反応だった。
まず認知的過負荷が起きる。不確実な要素が多すぎると、それらすべてを同時に考慮しようとして思考が麻痺する。分割は、一度に考慮すべき不確実性の数を制限する。「全部を一度に考えなくていい。今はフォームだけ」。この許可が、思考を解放した。
次に曖昧性回避がある。人間は不確実性そのものを嫌う傾向があり、明確な損失よりも曖昧な結果の方に心理的苦痛を感じる。「失敗するだろうか」という曖昧な恐怖より、「フォームを作る」という明確なタスクの方が、遥かに取り組みやすかった。
そしてコントロール感の喪失だ。大きく不確実なタスクは、「自分の手に負えない」という無力感を生む。小さな単位に分割することで、「少なくともこの部分はコントロールできる」という感覚が回復する。「全体は分からなくても、この一歩はコントロールできる」。この感覚が、行動を可能にした。
モニタリング基盤が完成して動いており、アラートが鳴り、自動復旧が動く。気づけば「システムの可用性向上」という大きなタスクができていた。
マルチタスクの代償
企画書を書いていて集中しており、いい感じで進んでいるときSlackの通知が鳴る。「ちょっとだけ」と思って見るとスレッドを読んで返信し、他のメッセージも気になっていくつか読んでしまう。資料に戻ると何を書いていたんだっけという状態になる。さっきまで頭の中にあった構成が消えて、次の章のアイデアも論理の流れもぼやけている。もう一度書きかけの文章を読み直して思い出そうとするが集中力を取り戻すのに時間がかかる。これを一日に何回も繰り返している。
資料を作ってはSlackを見て戻って集中し直し、メールが来たら見てまた戻って集中し直し、チャットの通知が来たら見て戻って集中し直す。切り替えるたびに頭がリセットされ、切り替えるたびに最初から組み立て直す必要がある。
私たちは「マルチタスク」と呼ぶが、実際にはマルチタスクなんてできていない。ただ高速に切り替えているだけで、脳は1つのことしかできないため、切り替えるたびに前の文脈を捨てて新しい文脈を読み込み直す。そしてその読み込みには膨大なコストがかかる。一度Slackを見ただけで集中するまでに何分もかかり、メールを見ただけで集中するまでに何分もかかる。私は一日に何回切り替えているだろうか。10回か、20回か、50回か。一日の大半を「集中し直す」ことに使っており、実際の作業ではなく集中状態へ戻ることに時間を費やしている。
そして切り替えている最中はどちらにも集中できていない。資料のことを考えながらSlackを見て、Slackのことを考えながら資料を作る。どちらも中途半端だ。全部やろうとしている時、私は何も完了させていなかった。それでも生産的だと感じていたのは忙しさと生産性を混同していたからだ。画面は動いていて指も動いていて頭も回っているが、何も完了していない。そしてこの「何も完了していない」という事実が、じわじわと自己肯定感を蝕んでいった。
「今日もできなかった」「自分は無能だ」「きっと才能がないんだ」という声が繰り返され、朝起きるのが辛くなり、デスクに座るのも億劫になった。なぜならまた何も完了しない一日が始まると分かっていたからだ。
停滞の構造
停滞の構造は、こうだった。
停滞を恐れる → 全部やろうとする → 選択できない → 集中できない → 全てが中途半端 → 何も完了しない → 自己肯定感が下がる → さらに停滞する。
この悪循環に、私は何ヶ月も、何年も、捕まっていた。
戦略のない戦い
戦略の本質は、何をやらないかを選択することだ。
戦略とは、ある状況に作用する要因を診断・分析し、どう取り組むかに関する論理的な主張でなければならない。戦略の本質は、何をやらないかを選択することだ。
マルチタスクというのは、戦略のない戦いだ。良い戦略は、重要な1つの結果を出すための的を絞った方針を示し、リソースを投入し、行動を組織するものだ。
一日一日にも戦略が必要だ。
でも私は、戦略を持っていなかった。「今日はこれをやる」という方針がなかった。「これはやらない」という選択もなかった。だから、全部やろうとした。そして、全てが中途半端になった。
ここに逆説がある。私は、停滞したくなかった。だから、全部やろうとした。「これを放っておいたら、停滞する」「あれをやらなかったら、遅れる」。停滞への恐怖が、全部やろうとさせていた。停滞への恐怖が、選択を妨げていた。
でも、全部やろうとした結果、何も完了しなかった。何も完了しないということは、停滞しているということだ。停滞を恐れるあまりに、停滞していた。
でも、変わった。選択することにしたのだ。1つだけ選び、他は後回しにして、今はこれだけに集中する。
何かを選ぶということは他を選ばないということであり、何かを選ばないということはそれを放っておくということだ。「放っておいたら停滞するんじゃないか」という恐怖と戦いながら、それでも選んだ。朝デスクに座って今日やるべきことを紙に書き出すと十個以上あるが、一つだけ選ぶ。新しい機能のコードを書くことを選び、他を全て後回しにする。Slackやメールやチャットは後で。今はこれだけ。
1つを選ぶということは、自分を信じるということだった。「この1つを、自分は完了させられる」と信じること。「1つでは足りない」という不安を手放し、「1つを確実にやり遂げる自分の力」を信じること。その信頼が、選択を可能にする。
Slackを閉じ、メールを閉じ、チャットの通知を切り、SNSのタブを閉じてスマートフォンを別の部屋に置く。必要なものだけを開く。エディタとドキュメント、それだけ。この瞬間、軽くなる。「全部やらなきゃ」というプレッシャーが消え、「今はこれだけでいい」という許可が自分を解放する。
集中するとコードが書けるようになり、思考がクリアになり、時間を忘れる。集中した時間は一日中あちこち飛び回るより遥かに多くの成果を生み、そして何より疲れていない。1つ完了させるときの感覚。「今日はこれができた」。この言葉が翌朝を支え、自分を好きになる。
逆に何も完了しないと自分を嫌いになる。「今日もできなかった」と自分が情けなくなり、価値のない人間に思える。でも1つ完了させると違う。「自分にはできる」「明日もやれる」と思えて自分を認められる。
選択することが前に進むことだった。全部やろうとすることが停滞することだった。
小さく始める
「今日から1つずつやる」と決意した。
しかし初日、挫折した。午前中は良く1つのタスクに集中できたが、午後にSlackの通知が気になって開いてしまい、そのまま1時間あちこちのスレッドを読んでいた。「やっぱり自分には無理だ」と思った。
完璧を求めすぎていた。一日中全てのタスクで完璧に1つずつやるというのは理想だが現実的ではない。だから小さく始めることにした。「朝の最初の2ポモドーロだけ、一つのタスクに集中する。それだけ」。これならできた。2ポモドーロ(50分)だけなら通知を切ることも怖くなく、1つのことに向き合える。
そして不思議なことに、この2ポモドーロの習慣ができると他の時間も変わり始めた。「どうせ朝2ポモドーロ集中するなら、もう2ポモドーロもやってみよう」という気持ちになる。小さな変化が次の変化を呼ぶ。一週間後には朝の4ポモドーロは集中できるようになり、二週間後には午後も2ポモドーロ集中できるようになり、一ヶ月後には一日のうち8ポモドーロはしっかり集中できるようになっていた。
完璧ではない。今でも午後は時々脱線するし、疲れている日は集中できない日もある。それでいい。完璧を目指して何もしないより、不完全でも小さく始める方がずっと前に進める。
これは掃除の時と同じだった。掃除を始めた時も「毎日完璧に掃除をする」と決めて三日で挫折したが、「朝起きたらベッドを整える。それだけ」と小さく始めたら続いた。変化は小さく、ゆっくりと。
計測する
ポモドーロ・テクニックを使っている。25分のタイマーをセットして1つのタスクだけに集中する。最初の衝撃は大きかった。「これは30分で終わる」と思っていたタスクが実際には3ポモドーロ(75分)かかり、「ちょっとだけ」と思って見たSlackが30分経っていた。自分の時間感覚はずれていた。
人間は系統的に自分がどれだけ時間を使うかを過小評価する。心理学者はこれを「計画錯誤」と呼ぶ。でも計測を続けると変わり始めた。タイマーをセットすると制約があるから集中し、1日の終わりに振り返ると何に時間を使ったかが明確になる。数字は嘘をつかない。現実を直視しないと改善できない。計測は自分に嘘をつけなくする装置だった。
完了させたタスクを記録し、ポモドーロを積み重ねて完了させる。夜、振り返る。「今日はこれができた」。この充実感が翌朝を支える。
できなかったことが、できるようになる話
プログラミング言語を初めて学んだ時のことを覚えているだろうか。
最初は文法や構文が全く分からなかった。ifとforの違いすら理解できず、エラーメッセージの意味も分からず、ただ赤い文字が表示されるだけだった。しかしある瞬間書けるようになった。
変数の宣言、条件分岐、ループ、関数。最初は1行も書けなかったが今は様々な表現を組み合わせて自分の意図をコードで表現できる。その瞬間まで「プログラムを書く」という行為は不可能だったが、その瞬間から可能になった。できないとできるの間に明確な境界線があった。
成長は滑らかな曲線じゃない。階段だ。できない状態が続いて、続いて、続いて、そして突然できるようになる。プログラミングもそうだった。最初、再帰が全く理解できず、何度も同じ説明を読んで何度も同じコードを書いたがわからなかった。でもある日わかった。その瞬間まで「再帰」は呪文だったが、その瞬間から道具になった。
この経験が教えてくれること。それは「今できない」は「今後もできない」じゃないということだ。
小さな成功が、信じる力をくれる
心理学者バンデューラは「自己効力感」という概念を提唱した。「自分にはできる」という信念。この信念はどこから来るのか。彼が挙げた4つの源泉の中で最も強力なのは実際に成功した経験だった。他人の成功を見たり励まされたりしてもそれだけでは弱い。自分の手で実際に達成すること。これが「できる」という確信を作る。
だから小さなタスクの完了が重要だった。大きなタスクは完了するまで何週間もかかり、その間「できた」という経験がないため「自分にはできるんだ」という確信が育たない。でも小さなタスクなら毎日完了でき、毎日「できた」という経験を積める。「できた」が「できる」を育てる。
1つ完了させると「次もできる」と思えるようになり、また1つ完了させると「やっぱりできる」と確信に変わり、さらにもう1つ完了させると「自分には力がある」と信じ始める。この積み重ねが大きなタスクに向かう勇気をくれる。
シングルタスクは、自分を信じる力を取り戻す行為だった。全部やろうとしていた時、私は自分を信じていなかった。「1つだけでは不十分だ」と思っていた。でも1つずつ完了させることで、「自分には完了させる力がある」と信じられるようになった。その信頼が、次の1つを選ぶ勇気をくれる。自分を信じられるから、1つを選べる。1つを完了させるから、さらに自分を信じられる。この循環が、停滞を終わらせる。
停滞期の意味
でも、いつも右肩上がりじゃない。時々停滞し、何週間も同じレベルに留まっている感じがして成長している気がしない。成長が止まったように見える「踊り場」のような期間。
最初、これが辛かった。「もう成長が止まった」「自分の限界に達した」と思った。でも違った。停滞期は次の飛躍の準備期間だった。表面上は変化がないが内部では微細な変化が積み重なっており、それらが臨界点に達した時、突然質的な変化が起きる。
水が氷になる時と同じだ。温度が下がっていき、99度、98度、97度と何も変わらずずっと水のままだが、0度の瞬間氷になる。小さく分割することの意味はここでも現れた。停滞期でも小さなタスクは完了し続け、「前に進んでいる」という実感を保てる。「今日もこれができた」という事実が停滞期を乗り越えさせてくれる。
千里の道も
老子は言った。「千里の道も一歩から」。この言葉を昔は単なる励ましだと思っていて「遠くても一歩ずつ進めば着く」という意味だと考えていた。でも違った。もっと深い意味があった。
千里の道は一歩の集積以外の何物でもない。「千里先」という抽象的な目標はそれ自体では実在しない。存在するのは今この瞬間の一歩だけで、そして次の瞬間の一歩があり、その連なりが結果として千里になる。未来は抽象で計画も抽象だ。でも行動は常に具体的で常に今だ。
だから分割の本質は抽象的な目標を具体的な行動に翻訳することだった。「良いエンジニアになる」という目標は抽象的すぎて実行できないが、「今日この記事を読む」は具体的で実行できる。抽象から具体へ、未来から現在へ。この翻訳が行動を可能にする。
プロセスとしての成長
ずっと「成長」を到達すべき地点だと思っていて「ここまで行けば成長した」という明確なゴールがあると考えていた。でも違った。成長は地点じゃなくプロセスだ。
西洋哲学に「プロセス哲学」というものがある。世界を静的な「存在」ではなく動的な「生成」のプロセスとして捉える考え方だ。この視点から見るとすべてが変わる。目標は達成すべき状態じゃない。向かっていくプロセスだ。「良いエンジニア」という状態は実は存在せず、存在するのは「良いエンジニアであり続けようとする営み」だけ。一度到達したら終わりではなく、常に変化し、常に学び、常に適応し続けることが「良いエンジニアである」ということだ。
成長は到達すべき地点じゃない。継続する運動そのものだ。「成長した」という完了形は実は幻想だった。存在するのは「成長している」という現在進行形だけ。山の頂上に着いたら成長は終わるのか。違う。頂上に着いたらまた次の山が見えてその山に向かって歩き始める。それが成長だ。
能力は所有するものじゃない。発揮し続ける動的平衡だ。「プログラミングができる」という能力。それは一度獲得したら永遠に持ち続けられる静的な所有物じゃない。使い続けないと鈍り、学び続けないと時代に取り残される。常に発揮し、常に磨き、常に更新し続ける必要がある。能力は動詞であり名詞ではない。
分割という行為はまさに静的な目標を動的なプロセスに変換する操作だった。「優れたプログラマーになる」という静的な目標は動けず手をつけられない。でも「今日このコードを書く」に変換すると動き始め実行できる。そしてその1つの行動が次の行動を生み、次の行動がまた次の行動を生む。気づけば「優れたプログラマーであり続ける」というプロセスの中にいる。
ゴールは到達する場所じゃない。歩き続けること自体がゴールだった。結果じゃなくプロセスを信じる。「今日これができた」という小さな前進、それ自体が価値だった。それが積み重なった先に何があるかはわからないが、歩き続ければ確実に前に進んでいる。「なる」んじゃない。「であり続ける」んだ。
自由のパラドックス
分割することは制約を増やすことで、「今日はこれだけやる」と決めることは他のことをやらないと決めることだ。選択肢を減らすこと、それは不自由に思える。でも逆だった。制約が自由を生む。
「何をやってもいい」という無制限の自由はかえって身動きを取れなくする。選択肢が多すぎて選べず、どれを選んでも「他の方が良かったんじゃないか」という後悔が付きまとう。でも「今日はこれをやる」と決めるとその瞬間、自由になる。もう迷わなくてよく、他のことは気にしなくてよく、今この1つだけに集中していい。境界があるからこそその中で自由に動ける。
これは詩の形式と似ている。俳句は五七五という厳格な制約があるがその制約の中で無限の表現が生まれ、制約がないとかえって何も書けない。分割で得られる自由は3つある。認知的自由では情報量が減るから深く考えられ、全部を同時に考える必要がないから1つのことを徹底的に考えられる。時間的自由では全体が見えるから本当に重要なことに時間を使え、「これは後回しでいい」と判断できる。心理的自由では不確実性が減るから不安から解放され、「これだけやればいい」という明確さが心を軽くする。
そして、もう1つの自由がある。自分を信じる自由だ。全部をやろうとしている時、私は自分を信じていなかった。「1つだけでは足りない」という不安に支配されていた。でも1つを選び、その1つに集中すると決めた時、「この1つを、自分は完了させられる」と信じる自由を手に入れた。制約が、自分を信じる余裕を生んだ。
誠実さとしての計測
最後にもう1つ重要なことへ気づいた。分割すること、計測することは自分へ正直になることだった。「今日も頑張った」と思いたいが実際には大半の時間をSlackやSNSで無駄にしていた。計測はこの自己欺瞞を許さず、数字は嘘をつかない。
最初これは辛く、現実を突きつけられて「自分は思っていたほど生産的じゃない」という事実を認めなきゃいけなかった。でもこの誠実さこそが改善の出発点だった。現実から目を背けていては何も変わらない。
理想を語るのは簡単で「もっと頑張る」「もっと集中する」と言えるが、それは具体性を欠いた空虚な言葉だ。大きなビジョンを持つことは重要だが、そのビジョンを実行可能なステップに翻訳すること、この地道で困難な作業が理想と現実を架橋する。分割は誠実さの実践だった。
続けられることが、才能を超える
才能のある人をたくさん見てきた。理解が速く、センスがあり、飲み込みが早い人たちを。でもその多くは消えていった。なぜか。続けられなかったから。
どんなに才能があっても続けられなければ意味がなく、どんなに理解が速くても完了させられなければ意味がない。結局長く続けた人が最も遠くまで行く。そして長く続けるために必要なのは派手なスキルでも高度な知識でもない。選択する勇気と一つに集中する習慣だ。
毎日1つを選び、毎日1つを完了させる。それを一週間続け、一ヶ月続け、三ヶ月続け、一年続ける。気づけば驚くほど多くのことを成し遂げており、そして何より続いている。才能は一瞬の煌めきだが、習慣は永続する炎だ。
おわりに
何ヶ月も、何年も、私は停滞していた。その原因が皮肉なことに停滞への恐怖そのものだった。停滞したくなかったから全部やろうとしたが、全部やろうとした結果、何も完了しなかった。停滞を恐れるあまりに停滞していた。
そして今、分かる。全部やろうとしていたのは、自分を信じていなかったからだった。「1つだけでは不十分だ」「1つだけでは成長できない」。そう思っていた。1つのことを完了させる自分の力を、信じられなかった。
選択することは何かを捨てることだと思っていた。でも違った。選択することが前に進むことだった。全部やろうとすることが停滞することだった。そして、選択することは自分を信じることだった。
1つだけ選ぶ。他は後で。今はこれだけ。その瞬間「全部やらなきゃ」というプレッシャーから解放される。そして不思議なことに1つずつやると結果的により多くのことが完了する。
シングルタスクは、自分を信じる行為だ。「この1つを、自分は完了させられる」と信じて、他を手放す勇気。その信頼が、停滞を終わらせる。1つを完了させるたびに、「自分にはできる」という確信が育つ。その確信が、次の1つを選ぶ勇気をくれる。
結局長く続けた人が最も遠くまで行く。そして長く続けるために必要なのは派手なスキルでも高度な知識でもない。選択する勇気と一つに集中する習慣だ。そして何より、自分を信じる力だ。
「どうせ自分なんか」という声が聞こえたとき、「全部やらなきゃ」と焦ったとき、「今日もできなかった」と思ったとき。
まず、1つだけ選べ。
他は後で。今はこれだけ。その1つだけに向き合い、完了させる。それだけでいい。
完璧を目指す必要はない。ただ1つを選んで、1つずつやり続けること。その小さな選択と小さな完了の積み重ねが、停滞を終わらせる。そして、自分を信じる力を取り戻す。
おい、一つずつやれ。
それは命令ではなく、自分自身への、静かな呼びかけだ。そして、自分を信じるための、最初の一歩だ。