Fate/You Died.   作:助兵衛

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第9話 一旦休戦

 轟音の余韻がようやく廊下から消えた。

 鉄と灰と羽の匂いが混じり合い、息を吸うたびに肺がざらつく。

 

 互いの武器を押し合ったまま、セイバーとアサシンは一瞬だけ静止していた。

 その沈黙は、もはや戦闘の「間」ではない──均衡そのものだった。

 

 やがて、二人の間に走る見えぬ圧がふっと緩む。

 同時に、二つの影が後方へ跳んだ。

 セイバーの革靴が灰を踏み砕き、アサシンの足音はまるで風の中に吸い込まれるように消える。

 

 距離──再び十歩。

 

 鉄塊の剣を肩に担ぎ、セイバーは呼吸一つで熱を抑えた。

 その瞳には、未だ火の残り香が宿っている。

 一方、アサシンは刀を下げたまま微動だにせず、影の中に立っていた。

 その義手の表面には、先ほどの衝撃で走った亀裂が細く光っている。

 

 どちらも、次を仕掛けない。

 

 廊下の時計が「コツ、コツ」と時を刻む。

 だが誠には、その音すら遠く感じられた。

 

 彼の世界はもう、現実の延長線上にはなかった。

 ほんの数秒前まで、彼の目の前では“人間”が剣を交えていたはずなのに──

 今見ているものは、人ではない何かの戦いだった。

 

 銀と影がぶつかり、火花が空間を裂き、床が灰になる。

 どちらかがわずかに動くだけで、空気が悲鳴を上げる。

 目で追うことができない。

 耳で聞いても理解できない。

 なのに確かに“そこにある”。

 

 ──これは夢だろうか。

 

 誠はそんな錯覚にとらわれた。

 現実感が遠のく。

 足元がふわりと浮くような、血の気の引く感覚。

 

 彼の隣で理央が短く息を吐く。

 その横顔は、恐怖ではなく──観測者としての冷徹な緊張に支配されていた。

 

 空気が、再び張りつめた。

 灰が静かに舞い落ちるたび、世界が裂ける音がした。

 セイバーの握る剣が低く唸り、アサシンの刀がきらりと揺れる。

 

 今にも──再び、ぶつかる。

 

 わずかに指が動くだけで、廊下全体が爆ぜるだろう。

 理央は喉を鳴らすこともできず、ただ呼吸を浅くした。

 空気が重い。まるで世界そのものが、この狭い廊下に押し込められているかのようだった。

 

 そのときだった。

 

 ──ざわめき。

 

 遠く、階段の向こうから微かな声がした。

 笑い声、靴音、開け放たれる教室の扉の音。

 現実の“生活”が、少しずつこちらに近づいてくる。

 

「……これ、みんなが」

 

 誠が、現実に引き戻されるように呟いた。

 だがその声に答えたのは、意外にも紗月だった。

 

「……暴れすぎだよ、人払いが薄れてきたね」

 

 低く、鋭い声。

 その表情にはわずかな焦りが浮かんでいた。

 

「そもそも、こんな場所でここまで保った方が奇跡よ。下校時間……普通ならこの廊下は人で溢れてる」

 

 理央の視線が鋭く揺れる。

 たしかに、放課後の校舎──部活帰りの生徒たち、教師の談笑、扉の音。

 それらが“戻ってきている”。

 異常な沈黙を保っていたこの空間が、現実に呑み込まれつつあった。

 

「……長くは持たないわね」

 

 紗月が小さく呟く。

 その横でアサシンが静かに刀を納めかけた。

 だが、完全に引く気配はない。

 影のような殺気は消えていない──むしろ、より深く、より濃く沈み込んでいる。

 

 セイバーもまた、剣を下ろさない。

 火のような瞳がアサシンを捉え続けていた。

 お互い、引くことも進むこともできずに、

 ただ緊張の糸だけが限界まで張り詰めていく。

 

 遠くで、誰かが言う。

「なに? 今、音しなかった?」

「え、廊下の奥じゃない?」

 

 靴音がこちらに近づく。

 それが、日常という名の“爆弾”の音に聞こえた。

 

 理央が、わずかに息を呑む。

 セイバーが動けば終わる。アサシンが応えれば校舎は崩れる。

 ほんの一瞬の誤差で、世界が二つに割れかねない。

 

 理央が、深く息を吸い込んだ。

 そして、静かに──しかし確実に、空気の流れを支配した。

 

「藍沢紗月」

 

 その声音には、冷気にも似た威圧があった。

 セイバーの肩越しに放たれた理央の視線は、まるで刃のように紗月を貫く。

 

「これ以上は、ただの戦闘じゃ済まないわ。人払いが消えた今──監督官の目から逃れることは不可能よ」

 

 紗月の眉が、ぴくりと動く。

 彼女は黙ったまま、理央を睨み返した。

 その瞳の奥には、わずかな苛立ちと、同時に冷静な計算が宿っている。

 

 理央は一歩前に出た。

 足音が灰を踏み、廊下の静寂を切り裂く。

 

「──言い訳が効かない。もしここで続けるなら、監督官だけじゃない。黒野本家そのものが動くわ。あなたも、アサシンも、“抹消”の対象になる」

 

 その言葉は脅しではなかった。

 事実の通告だった。

 

 紗月の唇がわずかに歪む。

 それは笑みとも、噛み殺した悔しさともつかない表情だった。

 

「……ふうん、つまらないの」

 

 小さく肩をすくめ、視線をアサシンに送る。

 

「──撤退」

 

 その一言で、アサシンはすぐに応じた。

 無駄な言葉は一つもない。

 刀をゆっくりと納め、気配を薄めると、影の中に溶けるように姿を消した。

 

 黒い羽根が二、三枚、ふわりと舞い落ちる。

 まるでこの場にいた証を残すように。

 

 紗月は小さくため息をついた。

 そして、いつもの冷淡な微笑を取り戻しながら、踵を返す。

 

「ま、今日はここまでってことだね。──せっかく面白くなってきたところだったのに」

 

 肩越しに言い捨てるその声には、未練とも挑発ともつかない響きがあった。

 理央は何も返さなかった。ただ静かにセイバーの剣を下げさせる。

 

 廊下の向こうから、生徒たちの声が近づく。

 日常の喧騒が戻りつつある。

 

 紗月はそれを聞きながら、ゆっくりと歩き出した。

 その背中からは、余裕と苛立ちが入り混じった気配が漂っていた。

 

 しかし──階段に差しかかる直前、彼女はふと振り返る。

 視線の先には、まだ呆然と立ち尽くす誠。

 

 一瞬。ほんの刹那。

 紗月の瞳が、彼を射抜いた。

 

 何かを言いかけたように唇がわずかに動いたが、言葉は音にならない。

 次の瞬間、彼女はそのまま踵を返し、靴音だけを残して廊下の奥へと消えた。

 

 紗月の姿が、階段の向こうに完全に消えた。

 その気配すら霧散し、残るのは灰の匂いと焦げた空気だけだった。

 

 理央は、しばらくその方向を見つめていたが、やがて小さく息を吐く。

 

「……セイバー、下がりなさい」

 

 その声音には、先ほどまでの鋭さはなかった。

 命令というより、安堵と警戒の入り混じった調子。

 セイバーは無言で頷くと、鉄塊の剣を霧のように解かせて背中へと収めた。

 周囲の魔力の圧がすっと引き、重苦しい空気がようやく緩む。

 

 廊下には、灰と羽根と焦げ跡だけが残された。

 まるで嵐の後のように、ただ静まり返っている。

 

 だがその静寂を破ったのは──

 

「……え? なにこれ……」

 

 角を曲がってきた生徒たちの声だった。

 

 部活帰りの制服姿。数人の男女が、手にカバンを持ったまま足を止めた。

 彼らの目に映ったのは、焼け焦げた壁、崩れた床材、灰色に染まった廊下。

 

「なにがあったんだ……これ」

「爆発? でも、匂いが……」

 

 ざわめきが広がる。

 まるで、現実が戦場の残滓をようやく“認識した”かのように。

 

 理央はわずかに顔をしかめた。

 このままでは説明がつかない。監督官どころか、学校全体が騒ぎになる。

 

「……まずいわね」

 

 冷静な声。

 次の瞬間、理央は誠の手を取った。

 

「行くわよ」

 

「え、ちょ──」

 

 抗議する間もなく、理央は誠を引きずるようにして廊下を駆け出した。

 焦げた床を蹴り、階段を下り、夕暮れの昇降口へ向かう。

 背後では、生徒たちの声がどんどん大きくなっていく。

 

「誰か、先生呼んで!」

「火事じゃないの!?」

 

 理央はその喧騒を振り切るように、下駄箱を抜けて校門の外へ出た。

 赤く沈みかけた夕陽が、街の端を染めている。

 

 ようやく足を止め、彼女は小さく息を吐いた。

 

「……ふぅ。危なかったわ」

 

 誠はまだ混乱の中にいた。

 あの戦いの残滓が、まだ脳裏に焼きついている。

 理央の手を握ったまま、ようやく声を絞り出す。

 

「……あれ、本当に……」

 

「現実よ」

 

 理央は短く答えた。

 

 その言葉を吐いた直後、理央はふと──自分の手に意識を向けた。

 指先に、柔らかな体温があった。

 

 ──誠の手。

 その温もりが、まだ確かに彼女の掌に残っている。

 

 瞬間、理央の肩がびくりと震えた。

 

「……っ!?」

 

 慌てて手を離す。

 まるで火でも触れたかのように、ぱっと距離を取った。

 

「──ごめんなさい、気安すぎたわね」

 

 早口に取り繕おうとするが、言葉が上滑りしていく。

 声の温度と違い、顔は真っ赤に染まっていた。

 

 誠はぽかんとしたまま、ようやく自分の手を見下ろした。

 理央の指の跡が、ほんのりと残っているように感じられる。

 

「い、いや……別に……助かった、から」

 

 誠がそう言うと、理央は目を逸らした。

 

「そう、よかったわ」

 

 その声は怒っているようで、どこか焦っている。

 視線はどこにも定まらず、唇がわずかに震えていた。

 

 その様子を少し離れた場所から見ていたセイバーが、無言で首を傾げる。

 

「……なにを見ているの」

 

 静かな声だったが、明確な命令だった。

 

 セイバーは一瞬沈黙したのち、わずかに頷く。

 だが、表情には微かに“苦笑”にも似たものが浮かんでいた。

 

「……車を手配して。すぐに」

 

 声の震えを隠すように、理央は素っ気なく命じる。

 

「了解しました、マスター」

 

 セイバーの声は淡々としていた。

 踵を返し、校門から離れていく。

 

 沈黙が落ちる。

 夕暮れの風が、理央の髪をわずかに揺らした。

 彼女は胸の前で小さく息を整えながら、冷静さを取り戻そうとする。

 

 やがて、黒い車のエンジン音が遠くから響いてきた。

 見ると、夕陽を反射しながら一台の黒塗りの車がゆっくりと校門前に滑り込む。

 運転席の窓が下がり、無表情のセイバーがそこにいた。

 

「お待たせしました、マスター」

 

 理央はわずかに頷き、誠の方を振り返る。

 まだ頬に残る赤みを隠すように、髪を耳にかけながら言った。

 

「さ、帰りましょうか灰原君」

 

 誠は戸惑いながらも頷き、後部座席に腰を下ろす。

 柔らかな黒革のシートが沈み込み、香水とわずかな金属の匂いが漂っていた。

 理央も隣に座り、ドアを閉める。

 

 その瞬間──

 

「ふあぁぁ~~……」

 

 前方から、くぐもった声が響いた。

 誠が驚いて前を見ると、助手席の空間に揺らぎが走り、霊体のような影が実体化していく。

 

 灰色の髪を乱し、筋肉質な腕を大きく伸ばしながら姿を現したのは──バーサーカーだった。

 霊体化を解除したその瞬間、まるで長時間閉じ込められていた者が外気を吸うように深呼吸する。

 

「失礼、霊体化とは随分と窮屈なもので」

 

 黒塗りの車が静かに滑り出した。

 セイバーの運転は正確で、路面のわずかな傾斜すら読み取るようにハンドルが動く。

 窓の外では、街灯が途切れ途切れに流れ、夜風が車体を撫でた。

 

 後部座席では、理央と誠が並んで座っていた。

 理央は膝の上で指を組み、ようやく一息つく。誠はまだ落ち着かず、窓の外と助手席を交互に見ていた。

 

 助手席では、バーサーカーが静かに外を見ている。

 その姿は一見すれば淑やかで、背筋も伸び、礼儀正しく見えた。

 だが、誠は気づいていた。──彼女の血の様に紅い瞳が、まるで獣のように光を反射していることに。

 どんな穏やかな表情をしていても、その奥底には確かに“狂気”が宿っていた。

 

「……ねえ、黒野さん」

 

 沈黙を破ったのは誠だった。

 

「その……バーサーカーって、こんなに普通に話せるものなの?」

 

 理央は少しだけ目を開き、前方を見た。

 

「──“普通”じゃないわね」

 

 窓に映る街の光が彼女の頬を照らす。

 

「バーサーカーというクラスは、“狂化”という特性を持っている。本来は理性を代償に、身体能力と魔力を極限まで引き上げる。だから、ほとんどのバーサーカーは言葉すら通じない。ただ暴れるだけの“兵器”よ」

 

 誠は思わず息を呑む。

 

「じゃあ……俺のバーサーカーは、例外ってことか」

 

「ええ。異例ね。彼女は理性を保ったまま、狂気と共存している」

 

 理央の視線が前へと向かう。

 助手席のバーサーカーは、背筋を伸ばしたまま、静かに頬杖をついていた。

 横顔は美しく、しかし微かに狂気の熱を帯びている。

 瞳の奥では、抑えきれぬ何かが静かに蠢いていた。

 

「恐縮です、マスター」

 

 突然、彼女が口を開いた。

 その声は澄んでいながら、底に低い唸りが混じっている。

 

「獣性との付き合いには慣れています。ただ狂うだけでは、獣は狩れませんから」

 

 誠は息を呑んだ。

 彼女の言葉はまるで詩のようで、だがそこには確かな恐怖が混じっていた。

 

 理央が静かに瞼を閉じる。

 

「……灰原君。彼女のようなタイプは珍しいけれど、同時に危険でもあると思うわ。決して油断しないで、理性があるように見えても、所詮はバーサーカー──狂戦士よ」

 

 理央の言葉に、誠は黙り込んだ。

 助手席の女性──自分のサーヴァントが、静かにこちらを振り返る。

 その瞳には、微笑とも渇望ともつかぬ光が宿っていた。

 

「ご安心を。──貴方が命じる限り、私は“理性の檻”に留まりましょう」

 

 微笑みながらそう告げたバーサーカーの声音に、ほんの一瞬、喉の奥で低い唸りが混ざった。

 獣が眠っている。

 けれど、それは完全には鎖で繋がれていない。

 

 車は夜の住宅街を抜け、やがて黒野理央の屋敷の門前へとたどり着いた。

 セイバーがエンジンを切る。

 静寂が戻る。

 

 理央はドアの取っ手に手をかけながら、小さく言った。

 

「──ようこそ、灰原君。黒野家へ、自分の家だと思って寛いでね」

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