Fate/You Died.   作:助兵衛

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第8話 最優の騎士

 セイバーが一歩、床を踏みしめた。

 黒革の靴底が鳴るたび、廊下の空気がじり、と軋む。

 銀の剣先が僅かに傾き、反射した光が灰を散らす。

 

 距離は十歩。

 彼の動きには焦りも迷いもなく、ただ確実に標的を測る兵士の歩みだった。

 

 紗月はその様子を見つめながら、口元にかすかな笑みを浮かべる。

 恐怖ではない。冷たく研ぎ澄まされた、戦場の女のそれだった。

 

「……おっかないね。騎士様、丸腰の女の子相手にさ」

 

 セイバーは応えない。

 その瞳には命令しか映っていなかった。

 

 ジリ……ジリ……。

 盾がわずかに前に出され、間合いが詰まっていく。

 空気が圧縮され、廊下の灯がきしむ。

 

 紗月の指先がわずかに動いた。

 その仕草は、花弁を摘むように優雅で、しかしぞっとするほど確信に満ちていた。

 

「……アサシン」

 

 ──空間が、裂けた。

 

 誠の目には、廊下の影が一瞬生き物のように蠢いたのが見えた。

 光の届かない隅から、影が滲み出し、そこから“男”が姿を現す。

 

「──ここに」

 

 古びた忍び装束。

 精密に動作する義手、白く変色した一房の髪。

 身体はセイバーと比べて頭一つ小さく、しかし異様なほど体重移動が滑らかで、気配がほとんどない。

 

 手には、黒い鞘に収められた一本の刀。

 それが抜かれる音は、まるで骨が軋むように鈍かった。

 

 シャリ……。

 

 冷たい光が走る。

 

「騎士様の相手は頼んだよ」

 

「御意に」

 

 紗月の声が囁きのように届いた瞬間──

 その忍は、ただ一歩でセイバーの前に出ていた。

 

「……“アサシン”に、正面戦闘をさせるつもり?」

 

 その声音は嘲笑にも近い冷たさを帯びていた。

 黒い瞳が紗月を見据え、わずかに光を宿す。

 

「暗殺者を盾に立たせるなんて──愚策ね。あなたの判断ミスよ、藍沢紗月」

 

 紗月の笑みがぴたりと止まる。

 その代わり、アサシンが低く腰を落とした。

 まるで“主”の感情を受けて動く獣のように。

 

「セイバー」

 

 理央の指先がわずかに動いた。

 令呪はまだ使わない。ただの命令、それでも絶対だった。

 

「──斬れ」

 

 言葉が空気を震わせる。

 次の瞬間、セイバーの体が爆ぜた。

 

 風圧。

 誠の頬を、熱を帯びた衝撃がかすめた。

 

 銀の閃光が、目にも止まらぬ速度で駆け抜ける。

 剣というより、稲妻。

 その一撃は、質量も重力も無視するかのように真っ直ぐ。

 

 閃光が奔った。

 

 セイバーの剣が稲妻のように空を裂き、斜め下から振り抜かれる。

 その軌跡はまっすぐ、寸分の狂いもなくアサシンの胴を断ち割るはずだった。

 

 ──が。

 

 金属が軋む、甲高い衝突音。

 銀の剣が止まった。

 

 セイバーの剣先のわずか数センチ手前に、アサシンの刀があった。

 アサシンの刃が、奇跡のような角度で受け流している。

 その姿勢に力みはなく、まるで呼吸の一部のように自然だった。

 

 セイバーの眉が、わずかに動いた。

 驚愕ではない。──“評価”だ。

 相手が一撃で倒れなかった事実を、即座に戦闘演算に組み込んだ。

 

「……防ぐか」

 

 低く、機械のような声。

 すぐに動作は次段へ切り替わる。

 

 セイバーが一歩踏み込む。

 盾を押し出し、右腕をしならせるように振り抜く。

 銀の閃光が二閃、三閃──。

 

 連撃。

 

 速度が跳ね上がる。

 剣筋が風の残像を幾重にも描き、壁の灰が斬り裂かれて舞い上がる。

 一撃ごとに衝撃波が走り、廊下の窓がびりびりと震えた。

 

 だが、アサシンは──動じなかった。

 

 刀をわずかに傾け、手首だけで弾く。

 音は小気味よく、まるで拍子木のようだ。

 カン、カン、カン──リズムのように金属音が重なり、すべての斬撃を弾き返していく。

 

 誠の目には、二人の動きがほとんど見えなかった。

 光と影が衝突し、弾け、すれ違う。

 火花が途切れず廊下を照らし続ける。

 

「なんで……セイバーの剣を、アサシンが防げるの……」

 

 理央の声がかすかに漏れた。

 

 セイバーはなおも攻撃を続ける。

 十、二十、三十。

 銀の残光が連なり、まるで刃の雨が降るかのようだった。

 

 だが、そのすべてが、アサシンの刀に触れた瞬間、

 “軽く”弾かれる。

 

 強さではなく、角度と呼吸。

 研ぎ澄まされた技巧だけが、圧倒的な暴力を無効化していた。

 

 セイバーがついに一歩退き、息を整える。

 その目には、戦場の獣を見定める静かな光。

 

 アサシンは、刃をわずかに下げ、呼吸を一つ。

 

 その様子を見つめながら、藍沢紗月はわずかに顎を上げ、唇の端を持ち上げる。

 

「──どう? 黒野理央」

 

 誇らしげな声音だった。

 まるで我が子の晴れ舞台を見守るような眼差しで、彼女は続ける。

 

「アサシンの剣の腕、ただの暗殺者のそれじゃないでしょ。セイバーと、互角に渡り合ってるのが見えない?」

 

 その言葉に、理央のまつ毛が微かに震えた。

 信じられない、という感情が明確に浮かぶ。

 

「……冗談でしょう。アサシンは影に潜り、毒と罠で仕留めるもの。正面戦闘でセイバーに並ぶなど──ありえないわ」

 

 だが、現実はその“ありえない”を否定していた。

 セイバーの斬撃は寸分の無駄もなく、王の剣と呼ぶにふさわしい速さと重さを兼ね備えている。

 それを、アサシンは受け流す。

 刀の軌跡が舞のように滑らかで、動作の一つひとつが水面に映る月のように正確だった。

 

「信じられないかもしれないけど──」

 

 紗月がゆっくりと、胸に手を当てた。

 そこにあるのは、彼女が召喚者として刻まれた令呪の痕跡。

 その紅い光が、微かに脈打つ。

 

「“アサシン”は、ただの暗殺者じゃない。剣の道を極めた者──本物の達人よ。もちろん、暗殺者としての技量も一級品」

 

 紗月の誇らしげな声が廊下に響いた。

 その眼差しはまるで勝利を確信した将のようで、頬にはわずかに紅が差している。

 

「見たでしょう? これが私の“アサシン”よ。暗殺者でありながら、正面の戦いでもセイバーと渡り合える。──まるで剣聖みたいじゃない?」

 

 誇らしげな口調。

 だが、その背後から静かな声が落ちた。

 

「……おやめください」

 

 その声音は低く、落ち着いていたが、どこか痛みを含んでいた。

 アサシンが刀を軽く下げ、背をわずかに傾ける。

 戦場の緊張が一瞬だけ緩む。

 

「俺のような影の者に“剣聖”などという誉れ、恐れ多い」

 

 その言葉に、紗月が小さく眉をひそめた。

 

「……謙遜なんかじゃないわ。あなたは──」

 

 だが、アサシンは首を横に振る。

 その動作は風のように静かで、しかし明確な拒絶を含んでいた。

 

「セイバー殿は、まだ“試して”いる段階。手の内も、真の剣筋も、いまだ一片たりとも見せてはおらぬ。今の剣戟は、ただの挨拶に過ぎませぬ」

 

 言葉が廊下の冷気を震わせた。

 紗月の表情が、わずかに強張る。

 

「……様子見、ですって?」

 

 アサシンは淡々と続ける。

 

「俺の剣は、殺しのための剣。だがあの男の剣は、“勝利”のための剣──その差を、まだ見せてもらってはおりませぬ」

 

 セイバーが静かに息を吐いた。

 銀の剣を下げ、わずかに頭を傾ける。

 

「見事な見識だ、アサシン」

 

 その声は冷たくも、どこか尊敬を帯びていた。

 

「お前の剣筋、ただ速いだけではない。 流れ、間合い、殺気の抑制──あれは並の剣士では到達できぬ領域……ゆえに、試したくなる」

 

 セイバーはマスターである理央の方へ顔を向けた。

 その瞳の奥には、戦士としての炎が宿っている。

 

「マスター、構いませんね」

 

 理央は一瞬だけ目を閉じ、状況を冷静に分析した。

 廊下の空気は既に限界まで張り詰めている。

 このままセイバーが本気を出せば、周囲の空間そのものが焼き尽くされる危険があった。

 

「……いいわ。ただし──」

 

 ゆっくりと目を開き、理央の声が静かに響いた。

 その声音にはわずかな緊張が滲む。

 

「周囲への影響が少ない範囲でね。廊下を吹き飛ばしたり、校舎を燃やしたりは──絶対に禁止よ」

 

 セイバーの瞳が淡く揺らめく。

 短い沈黙ののち、低く、重い声が返った。

 

「了解した、マスター。制限下における展開を行う」

 

 その瞬間、セイバーの全身を覆う空気が変わった。

 熱でも魔力でもない、圧縮された“理”の歪みが生まれる。

 銀の剣を握る腕がゆっくりと下ろされ──構えが変わる。

 

 鋼のきしむ音が鳴った。

 セイバーの手にあった剣と盾が、微かな火花を散らして変形を始める。

 金属が溶け、流れ、再構成されるかのように形を変え──

 

 やがてその両手には、一対の双剣が握られていた。

 

 刃は無骨な錆色、研ぎ澄まされた美しさとは無縁。

 だがその鈍い光の奥には、かつて無数の命を焼いた残り火が脈動している。

 

「……武器が変わった……」

 

 誠が息を呑む。

 セイバーの姿は、まるで異界の亡者のようだった。

 

 両腕が交差し、灰色の火花が弾ける。

 

「……《傭兵の双刀》。押し切らせてもらう」

 

 その言葉が終わるより早く、セイバーの姿が掻き消えた。

 灰が舞い、熱が閃き、空間が悲鳴を上げる。

 

 ──双剣。

 それは、ただ速いという次元の武器ではない。

 “流れる”のだ。

 

 踏み込み。

 空気を裂く音。

 連撃──。

 

 左の刃が弧を描き、右の刃がそれを追う。

 まるで一対の獣が、互いの死角を補いながら獲物を裂くようだった。

 アサシンの眼前で、光と灰が交錯する。

 

 カンッ、カカンッ──。

 反射のように刀が動く。

 アサシンは紙一重で刃を弾き返すが、動作が追いつかない。

 先ほどまでの拍子木のようなリズムが乱れ、金属音が重なって濁った。

 

「ッ……!」

 

 アサシンの足元に灰が爆ぜた。

 セイバーの双剣が縦横無尽に閃き、わずか数秒の間に十を超える斬撃が叩き込まれる。

 それはもはや連撃ではなく、“嵐”だった。

 

 廊下の壁が火花を散らし、床を削る。

 削られた床材が燃えもせず灰化して消える──魔力の熱量があまりに圧縮されすぎている。

 

「くっ……!」

 

 アサシンが一瞬退く。

 しかしセイバーの追撃は止まらない。

 

 その速さ。

 人の目ではもはや認識できない。

 斬撃と衝撃波が一体化し、空気が軋む音すら遅れて響いた。

 

 嵐のような連撃の果て──アサシンの刀がついに遅れた。

 セイバーの一閃が刃を弾き、その反動でアサシンの姿勢が崩れる。

 

 足元の灰が弾け、膝がわずかに沈んだ。

 呼吸一つ、だがそれが命取り。

 

 セイバーはその刹那を逃さなかった。

 灰色の火花が再び彼の全身を包み、双剣が唸りを上げる。

 

「綻びを見せたな」

 

 低く、鈍い声。

 次の瞬間、双剣が光を放ち、形を変え始めた。

 灰の粒が刃に吸い込まれ、鉄を歪めるような異音が響く。

 

 錆色の双剣が溶け合い、融合し──一本の巨大な鉄塊へと変わる。

 まるで火を失った大剣。

 重さだけで空間を押し潰すような、無骨で分厚い塊の剣。

 

「……《煙の特大剣》」

 

 名を呟くと同時に、廊下が低く唸った。

 それは剣の名が呼び起こした、火の残響のようなもの。

 

 セイバーが一歩踏み出す。

 その足音は重く、雷鳴のように響いた。

 

 アサシンは息を整え、体勢を立て直そうとする。

 だが、もう遅い。

 

 セイバーが剣を頭上に構えた瞬間、廊下全体が軋む。

 床板が悲鳴を上げ、壁の灰が逆巻く。

 

「──終わりだ」

 

 振り下ろし。

 

 音が、遅れて落ちてきた。

 まるで空間そのものが一瞬止まったかのように。

 次いで、轟音──。

 

 鉄塊の剣が空を裂き、重力すら引きずり落とすように叩きつけられる。

 衝撃波が廊下を駆け抜け、壁が波打った。

 

 しかし──その瞬間。

 

 アサシンの左腕が、奇妙な金属音を立てて開いた。

 義手の内部から、花のように何枚もの金属板が展開する。

 

 爆音の余韻がまだ廊下に震えている中、セイバーの大剣が押し込まれていく。

 鉄塊と金属傘が軋みを上げ、火花を散らしながら拮抗していた。

 

 その瞬間──。

 

 アサシンの左腕から、低い羽音のような振動が漏れた。

 展開した傘の隙間から、黒い煙のようなものが滲み出す。

 

「……ッ!?」

 

 理央が息を呑むよりも早く、それは煙ではなく“羽”だと気づいた。

 無数の漆黒の羽根。

 一枚一枚が光を吸い込み、まるで夜そのものが解けていくようだった。

 

 羽根が溢れ出し、渦を巻く。

 それはただの防御ではない──“隠行”の術式。

 影と闇を同調させ、存在そのものを掻き消す。

 

 セイバーが剣を押し込もうとした瞬間、

 鉄塊の刃は“空気”を叩いた。

 

 アサシンの姿が、消えていた。

 

 代わりに、宙を舞う黒い羽根が数枚、ひらひらと落ちる。

 まるで死者の置き土産のように。

 

「……消えた?」

 

 誠が呟く。

 しかしセイバーの瞳は、油断なく空間を走査していた。

 その双眸が鈍く光を帯びる。

 

「……いや、いる」

 

 言葉と同時に、天井が軋んだ。

 

 セイバーが反射的に顔を上げる──。

 

 そこに、いた。

 

 天井の梁に逆さに立つようにして、アサシンが張り付いていた。

 全身の輪郭が影に溶け、ただ冷たい瞳と刀の反射だけが浮かんでいる。

 

「……そこか!」

 

 セイバーの呟きが落ちると同時に、アサシンが動いた。

 

 跳躍。

 その動きは羽のように軽く、そして落下は雷のように速い。

 

 黒い残光が一直線に落ちてくる。

 その手には、既に刀が構えられていた。

 

 刃は下向き。

 標的は、セイバーの頭上ただ一点。

 

「──はっ!」

 

 掛け声と共に、アサシンが急降下する。

 影が線となり、黒い閃光が廊下を貫く。

 

 セイバーが反応する。

 巨大な鉄塊の剣を片手で持ち上げ、真上へと構えを取った。

 

 轟音。

 刀と大剣が正面から激突した。

 

 金属の火花が炸裂し、廊下全体が震える。

 その衝撃波の中で、黒い羽が再び舞った。

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