セイバーが一歩、床を踏みしめた。
黒革の靴底が鳴るたび、廊下の空気がじり、と軋む。
銀の剣先が僅かに傾き、反射した光が灰を散らす。
距離は十歩。
彼の動きには焦りも迷いもなく、ただ確実に標的を測る兵士の歩みだった。
紗月はその様子を見つめながら、口元にかすかな笑みを浮かべる。
恐怖ではない。冷たく研ぎ澄まされた、戦場の女のそれだった。
「……おっかないね。騎士様、丸腰の女の子相手にさ」
セイバーは応えない。
その瞳には命令しか映っていなかった。
ジリ……ジリ……。
盾がわずかに前に出され、間合いが詰まっていく。
空気が圧縮され、廊下の灯がきしむ。
紗月の指先がわずかに動いた。
その仕草は、花弁を摘むように優雅で、しかしぞっとするほど確信に満ちていた。
「……アサシン」
──空間が、裂けた。
誠の目には、廊下の影が一瞬生き物のように蠢いたのが見えた。
光の届かない隅から、影が滲み出し、そこから“男”が姿を現す。
「──ここに」
古びた忍び装束。
精密に動作する義手、白く変色した一房の髪。
身体はセイバーと比べて頭一つ小さく、しかし異様なほど体重移動が滑らかで、気配がほとんどない。
手には、黒い鞘に収められた一本の刀。
それが抜かれる音は、まるで骨が軋むように鈍かった。
シャリ……。
冷たい光が走る。
「騎士様の相手は頼んだよ」
「御意に」
紗月の声が囁きのように届いた瞬間──
その忍は、ただ一歩でセイバーの前に出ていた。
「……“アサシン”に、正面戦闘をさせるつもり?」
その声音は嘲笑にも近い冷たさを帯びていた。
黒い瞳が紗月を見据え、わずかに光を宿す。
「暗殺者を盾に立たせるなんて──愚策ね。あなたの判断ミスよ、藍沢紗月」
紗月の笑みがぴたりと止まる。
その代わり、アサシンが低く腰を落とした。
まるで“主”の感情を受けて動く獣のように。
「セイバー」
理央の指先がわずかに動いた。
令呪はまだ使わない。ただの命令、それでも絶対だった。
「──斬れ」
言葉が空気を震わせる。
次の瞬間、セイバーの体が爆ぜた。
風圧。
誠の頬を、熱を帯びた衝撃がかすめた。
銀の閃光が、目にも止まらぬ速度で駆け抜ける。
剣というより、稲妻。
その一撃は、質量も重力も無視するかのように真っ直ぐ。
閃光が奔った。
セイバーの剣が稲妻のように空を裂き、斜め下から振り抜かれる。
その軌跡はまっすぐ、寸分の狂いもなくアサシンの胴を断ち割るはずだった。
──が。
金属が軋む、甲高い衝突音。
銀の剣が止まった。
セイバーの剣先のわずか数センチ手前に、アサシンの刀があった。
アサシンの刃が、奇跡のような角度で受け流している。
その姿勢に力みはなく、まるで呼吸の一部のように自然だった。
セイバーの眉が、わずかに動いた。
驚愕ではない。──“評価”だ。
相手が一撃で倒れなかった事実を、即座に戦闘演算に組み込んだ。
「……防ぐか」
低く、機械のような声。
すぐに動作は次段へ切り替わる。
セイバーが一歩踏み込む。
盾を押し出し、右腕をしならせるように振り抜く。
銀の閃光が二閃、三閃──。
連撃。
速度が跳ね上がる。
剣筋が風の残像を幾重にも描き、壁の灰が斬り裂かれて舞い上がる。
一撃ごとに衝撃波が走り、廊下の窓がびりびりと震えた。
だが、アサシンは──動じなかった。
刀をわずかに傾け、手首だけで弾く。
音は小気味よく、まるで拍子木のようだ。
カン、カン、カン──リズムのように金属音が重なり、すべての斬撃を弾き返していく。
誠の目には、二人の動きがほとんど見えなかった。
光と影が衝突し、弾け、すれ違う。
火花が途切れず廊下を照らし続ける。
「なんで……セイバーの剣を、アサシンが防げるの……」
理央の声がかすかに漏れた。
セイバーはなおも攻撃を続ける。
十、二十、三十。
銀の残光が連なり、まるで刃の雨が降るかのようだった。
だが、そのすべてが、アサシンの刀に触れた瞬間、
“軽く”弾かれる。
強さではなく、角度と呼吸。
研ぎ澄まされた技巧だけが、圧倒的な暴力を無効化していた。
セイバーがついに一歩退き、息を整える。
その目には、戦場の獣を見定める静かな光。
アサシンは、刃をわずかに下げ、呼吸を一つ。
その様子を見つめながら、藍沢紗月はわずかに顎を上げ、唇の端を持ち上げる。
「──どう? 黒野理央」
誇らしげな声音だった。
まるで我が子の晴れ舞台を見守るような眼差しで、彼女は続ける。
「アサシンの剣の腕、ただの暗殺者のそれじゃないでしょ。セイバーと、互角に渡り合ってるのが見えない?」
その言葉に、理央のまつ毛が微かに震えた。
信じられない、という感情が明確に浮かぶ。
「……冗談でしょう。アサシンは影に潜り、毒と罠で仕留めるもの。正面戦闘でセイバーに並ぶなど──ありえないわ」
だが、現実はその“ありえない”を否定していた。
セイバーの斬撃は寸分の無駄もなく、王の剣と呼ぶにふさわしい速さと重さを兼ね備えている。
それを、アサシンは受け流す。
刀の軌跡が舞のように滑らかで、動作の一つひとつが水面に映る月のように正確だった。
「信じられないかもしれないけど──」
紗月がゆっくりと、胸に手を当てた。
そこにあるのは、彼女が召喚者として刻まれた令呪の痕跡。
その紅い光が、微かに脈打つ。
「“アサシン”は、ただの暗殺者じゃない。剣の道を極めた者──本物の達人よ。もちろん、暗殺者としての技量も一級品」
紗月の誇らしげな声が廊下に響いた。
その眼差しはまるで勝利を確信した将のようで、頬にはわずかに紅が差している。
「見たでしょう? これが私の“アサシン”よ。暗殺者でありながら、正面の戦いでもセイバーと渡り合える。──まるで剣聖みたいじゃない?」
誇らしげな口調。
だが、その背後から静かな声が落ちた。
「……おやめください」
その声音は低く、落ち着いていたが、どこか痛みを含んでいた。
アサシンが刀を軽く下げ、背をわずかに傾ける。
戦場の緊張が一瞬だけ緩む。
「俺のような影の者に“剣聖”などという誉れ、恐れ多い」
その言葉に、紗月が小さく眉をひそめた。
「……謙遜なんかじゃないわ。あなたは──」
だが、アサシンは首を横に振る。
その動作は風のように静かで、しかし明確な拒絶を含んでいた。
「セイバー殿は、まだ“試して”いる段階。手の内も、真の剣筋も、いまだ一片たりとも見せてはおらぬ。今の剣戟は、ただの挨拶に過ぎませぬ」
言葉が廊下の冷気を震わせた。
紗月の表情が、わずかに強張る。
「……様子見、ですって?」
アサシンは淡々と続ける。
「俺の剣は、殺しのための剣。だがあの男の剣は、“勝利”のための剣──その差を、まだ見せてもらってはおりませぬ」
セイバーが静かに息を吐いた。
銀の剣を下げ、わずかに頭を傾ける。
「見事な見識だ、アサシン」
その声は冷たくも、どこか尊敬を帯びていた。
「お前の剣筋、ただ速いだけではない。 流れ、間合い、殺気の抑制──あれは並の剣士では到達できぬ領域……ゆえに、試したくなる」
セイバーはマスターである理央の方へ顔を向けた。
その瞳の奥には、戦士としての炎が宿っている。
「マスター、構いませんね」
理央は一瞬だけ目を閉じ、状況を冷静に分析した。
廊下の空気は既に限界まで張り詰めている。
このままセイバーが本気を出せば、周囲の空間そのものが焼き尽くされる危険があった。
「……いいわ。ただし──」
ゆっくりと目を開き、理央の声が静かに響いた。
その声音にはわずかな緊張が滲む。
「周囲への影響が少ない範囲でね。廊下を吹き飛ばしたり、校舎を燃やしたりは──絶対に禁止よ」
セイバーの瞳が淡く揺らめく。
短い沈黙ののち、低く、重い声が返った。
「了解した、マスター。制限下における展開を行う」
その瞬間、セイバーの全身を覆う空気が変わった。
熱でも魔力でもない、圧縮された“理”の歪みが生まれる。
銀の剣を握る腕がゆっくりと下ろされ──構えが変わる。
鋼のきしむ音が鳴った。
セイバーの手にあった剣と盾が、微かな火花を散らして変形を始める。
金属が溶け、流れ、再構成されるかのように形を変え──
やがてその両手には、一対の双剣が握られていた。
刃は無骨な錆色、研ぎ澄まされた美しさとは無縁。
だがその鈍い光の奥には、かつて無数の命を焼いた残り火が脈動している。
「……武器が変わった……」
誠が息を呑む。
セイバーの姿は、まるで異界の亡者のようだった。
両腕が交差し、灰色の火花が弾ける。
「……《傭兵の双刀》。押し切らせてもらう」
その言葉が終わるより早く、セイバーの姿が掻き消えた。
灰が舞い、熱が閃き、空間が悲鳴を上げる。
──双剣。
それは、ただ速いという次元の武器ではない。
“流れる”のだ。
踏み込み。
空気を裂く音。
連撃──。
左の刃が弧を描き、右の刃がそれを追う。
まるで一対の獣が、互いの死角を補いながら獲物を裂くようだった。
アサシンの眼前で、光と灰が交錯する。
カンッ、カカンッ──。
反射のように刀が動く。
アサシンは紙一重で刃を弾き返すが、動作が追いつかない。
先ほどまでの拍子木のようなリズムが乱れ、金属音が重なって濁った。
「ッ……!」
アサシンの足元に灰が爆ぜた。
セイバーの双剣が縦横無尽に閃き、わずか数秒の間に十を超える斬撃が叩き込まれる。
それはもはや連撃ではなく、“嵐”だった。
廊下の壁が火花を散らし、床を削る。
削られた床材が燃えもせず灰化して消える──魔力の熱量があまりに圧縮されすぎている。
「くっ……!」
アサシンが一瞬退く。
しかしセイバーの追撃は止まらない。
その速さ。
人の目ではもはや認識できない。
斬撃と衝撃波が一体化し、空気が軋む音すら遅れて響いた。
嵐のような連撃の果て──アサシンの刀がついに遅れた。
セイバーの一閃が刃を弾き、その反動でアサシンの姿勢が崩れる。
足元の灰が弾け、膝がわずかに沈んだ。
呼吸一つ、だがそれが命取り。
セイバーはその刹那を逃さなかった。
灰色の火花が再び彼の全身を包み、双剣が唸りを上げる。
「綻びを見せたな」
低く、鈍い声。
次の瞬間、双剣が光を放ち、形を変え始めた。
灰の粒が刃に吸い込まれ、鉄を歪めるような異音が響く。
錆色の双剣が溶け合い、融合し──一本の巨大な鉄塊へと変わる。
まるで火を失った大剣。
重さだけで空間を押し潰すような、無骨で分厚い塊の剣。
「……《煙の特大剣》」
名を呟くと同時に、廊下が低く唸った。
それは剣の名が呼び起こした、火の残響のようなもの。
セイバーが一歩踏み出す。
その足音は重く、雷鳴のように響いた。
アサシンは息を整え、体勢を立て直そうとする。
だが、もう遅い。
セイバーが剣を頭上に構えた瞬間、廊下全体が軋む。
床板が悲鳴を上げ、壁の灰が逆巻く。
「──終わりだ」
振り下ろし。
音が、遅れて落ちてきた。
まるで空間そのものが一瞬止まったかのように。
次いで、轟音──。
鉄塊の剣が空を裂き、重力すら引きずり落とすように叩きつけられる。
衝撃波が廊下を駆け抜け、壁が波打った。
しかし──その瞬間。
アサシンの左腕が、奇妙な金属音を立てて開いた。
義手の内部から、花のように何枚もの金属板が展開する。
爆音の余韻がまだ廊下に震えている中、セイバーの大剣が押し込まれていく。
鉄塊と金属傘が軋みを上げ、火花を散らしながら拮抗していた。
その瞬間──。
アサシンの左腕から、低い羽音のような振動が漏れた。
展開した傘の隙間から、黒い煙のようなものが滲み出す。
「……ッ!?」
理央が息を呑むよりも早く、それは煙ではなく“羽”だと気づいた。
無数の漆黒の羽根。
一枚一枚が光を吸い込み、まるで夜そのものが解けていくようだった。
羽根が溢れ出し、渦を巻く。
それはただの防御ではない──“隠行”の術式。
影と闇を同調させ、存在そのものを掻き消す。
セイバーが剣を押し込もうとした瞬間、
鉄塊の刃は“空気”を叩いた。
アサシンの姿が、消えていた。
代わりに、宙を舞う黒い羽根が数枚、ひらひらと落ちる。
まるで死者の置き土産のように。
「……消えた?」
誠が呟く。
しかしセイバーの瞳は、油断なく空間を走査していた。
その双眸が鈍く光を帯びる。
「……いや、いる」
言葉と同時に、天井が軋んだ。
セイバーが反射的に顔を上げる──。
そこに、いた。
天井の梁に逆さに立つようにして、アサシンが張り付いていた。
全身の輪郭が影に溶け、ただ冷たい瞳と刀の反射だけが浮かんでいる。
「……そこか!」
セイバーの呟きが落ちると同時に、アサシンが動いた。
跳躍。
その動きは羽のように軽く、そして落下は雷のように速い。
黒い残光が一直線に落ちてくる。
その手には、既に刀が構えられていた。
刃は下向き。
標的は、セイバーの頭上ただ一点。
「──はっ!」
掛け声と共に、アサシンが急降下する。
影が線となり、黒い閃光が廊下を貫く。
セイバーが反応する。
巨大な鉄塊の剣を片手で持ち上げ、真上へと構えを取った。
轟音。
刀と大剣が正面から激突した。
金属の火花が炸裂し、廊下全体が震える。
その衝撃波の中で、黒い羽が再び舞った。