午前の授業は、永遠にも思えるほど長かった。
誠は前の黒板を見つめていたが、そこに書かれている数式や漢字は、頭の中をすり抜けていくだけだった。
隣の席では理央が静かにノートを取り続けている。ページをめくるたびに、紙の擦れる微かな音が耳に届く。
その音だけが、現実と自分をつなぎ止めているような気がした。
クラスの誰も、誠に声をかけようとはしなかった。
だが、気配でわかる。全員が、見ている。
正面を向いているふりをしながら、誰もがちらりと視線を投げてくる。
誠は、できるだけ呼吸を整えた。
まるで胸の奥に砂を詰められたように、息が重い。
自分が死んだことを知るのは理央と、藍沢沙月だけ。
他の誰も知らない。
──チャイムが鳴る。
一時限目が終わり、休み時間になる。
だが、周囲のざわめきは誠の席を避けるように流れた。
誰も話しかけない。
ただ、少し離れた席で小声が交わされる。
「授業を抜け出して、黒野さんと何を話してたんだ?」
「しかも、あの長身の女の人。あれ、誰? 先生でもなかったし……」
誠はノートに視線を落とした。
ペン先が震える。
あの“長身の女”──バーサーカーのことだ。
不用意にも何の対策もせず、学校のみんなの前に晒してしまった。
バーサーカーの容貌は余りに目立ち過ぎた。
二時限目、三時限目。
どれだけ時間が経っても、誰も声をかけてはこない。
まるで、教室の中で誠だけが別の世界にいるようだった。
理央も一言も発しない。
けれど、彼女が隣にいるだけで、誰も近づこうとしなかった。
その沈黙が、かえって保護膜のようにも感じられる。
そして──昼休み。
チャイムが鳴るやいなや、椅子の軋む音と同時に空気がざわついた。
ついに我慢できなくなったように、数人の男子が誠の机に集まってくる。
「なあ灰原、お前さ、黒野さんとどういう関係なんだ?」
「ていうかさ、今朝のあの女の人、誰? モデルみたいにでかくて綺麗だったけど」
矢継ぎ早に飛んでくる言葉。
誠は一瞬、答えを失う。
彼らは好奇心と興奮で満ちていて、どこか無邪気ですらあった。
けれど、誠にとっては──笑い話では済まない。
「……えーと、あの人は親戚? の人で、何というか」
声が少し掠れる。
なるべく自然に言おうとしたが、喉が乾いてうまく出なかった。
だが、さらに誰かが口を開こうとした瞬間。
「あなたたち」
教室の空気が一瞬で止まった。
黒野理央が、机に手を置いたままゆっくりと顔を上げた。
その黒い瞳が、氷のように静かにクラス全体を見渡す。
「灰原君は今、体調を崩しているの。……詮索はやめてくれる?」
声は低く、しかし一言で支配する力があった。
誰も反論できなかった。
男子たちは口をつぐみ、女子たちはそっと視線を逸らす。
空気が一気に冷え、まるで“異物”を取り除いた後のような静寂が訪れる。
さっきまで誠を取り囲んでいたクラスメイトたちは、理央の一言で見事に散り散りになった。
彼らの背中が去っていくのを見届けて、誠は小さく息を吐いた。
ようやく静けさが戻る。
だが、その静けさがむしろ居心地悪く思えるほど、腹の奥が空っぽだった。
隣を見ると、理央が自分の鞄から布に包まれた弁当箱を取り出していた。
黒い漆塗りのような箱。手入れの行き届いた箸。
彼女の動作は丁寧で、まるで儀式のように静かだった。
「……食べないの?」
蓋を開けた理央が、誠の机をちらりと見た。
誠の机には、当然何もない。
「あ、いや……持ってきてなくて」
「忘れたの?」
「……家が、燃えたから。昨日あんなこともあったし」
口にしてから、しまったと思った。
あまりにも生々しい言葉だった。
けれど理央は驚く様子もなく、ただ一瞬、目を伏せた。
「そう……じゃあ、少し待ってて」
そう言うと彼女は鞄のポケットから携帯端末を取り出し、無言で何かを操作した。
しばらくして──教室の扉が静かに開く。
入ってきたのは黒服の男だった。
年の頃は三十代半ばほど、無駄のない体つき。
昨日の夜、理央の車を運転していたあの男だ。
教室中が再びざわつく。
黒服というだけで目立つのに、彼の動きは一分の隙もない。
まっすぐ理央の机の前に歩み寄ると、静かに一礼した。
「お嬢様」
「ありがとう、渡して」
理央が軽く顎を動かすと、男は即座に頷き、誠の前へと向き直る。
そして、黒い風呂敷に包まれた弁当箱を恭しく差し出した。
「灰原様。お食事の用意を」
「えっ……?」
誠は思わず立ち上がりかけた。
受け取るにはあまりにも立派すぎる。
包みの上からでも分かる。中身は豪華なものだ。
周囲のクラスメイトたちが息を呑む音が聞こえる。
理央は何事もないように箸を持ち、言った。
「その様子だと、朝食もまだでしょう。顔色が悪いわ」
「い、いや、でも……」
「遠慮は不要。あなたは今、体を休めるべき状態よ。食べなさい」
その声音は、命令に近かった。
誠は一瞬、反論しかけたが──腹が鳴った。
はっきりと、教室中に響くくらいに。
静寂。
数人の笑いを堪える気配。
誠はうつむきながら、弁当箱を受け取った。
包みを解くと、彩り豊かな料理がぎっしりと詰まっている。
白米の上には金糸卵と焼き鮭、脇には牛しぐれ、だし巻き卵、煮物、そして小さなデザート。
学校の机にはあまりに不釣り合いな品の数々。
「……これ、全部……」
「ええ、普段の昼食よりは控えめにさせたわ」
理央の言葉に、誠は思わず苦笑した。
彼女にとって“控えめ”がこれなら、普段はどれほどなのか。
周囲はまだ静まり返っている。
誰もが黒服の男と豪華な弁当、それを当然のように受け取る誠を目で追っていた。
「では、私は外で待機しております」
黒服の男は再び深く頭を下げ、無音のまま教室を後にした。
扉が閉まり、再び昼の喧噪が戻る。
だが、その中で誠は──
この非日常が、ますます現実味を失っていくのを感じていた。
午後の授業は、午前以上に長く感じられた。
昼に理央から渡された豪華な弁当で空腹は満たされたものの、頭の中はずっと重く霞んでいた。
数学、英語、古典。どの教師の声も、まるで遠くのラジオのように聞こえない。
ただ、隣の席でノートを取る理央の筆音だけが妙に鮮明だった。
その一定のリズムに合わせるように、誠は何とか意識を保っていた。
だが、心の底ではずっと考えていた。
──勢いで学校に来たはいい。
だが、これからどうすればいい?
家はもうない。
あの焼け跡には、何一つ残っていなかった。
財布も、着替えも、携帯すら灰の中だ。
それでも朝、気がついたら体が勝手に学校へ向かっていた。
何も考えず、ただ「日常」に縋るように。
しかし今、こうして机に座っている自分の姿が、どうしようもなく滑稽に思えた。
──放課後になったら、どこへ行く?
公園で夜を明かす? それとも、また焼け跡に戻る?
だが、あの場所にはもう、帰る“家”はない。
チャイムが鳴る。
ホームルームが始まり、担任が形式的にその日の連絡を読み上げる。
文化祭の準備だの、次週のテスト範囲だの──どれも今の誠には遠い世界の話だった。
放課後の鐘が鳴り、教師が退室する。
クラスの空気が一気に緩む。
椅子の音、鞄を閉じる音、雑談の声。
いつも通りの放課後のはずなのに、誠の耳には遠いざわめきとしてしか届かない。
立ち上がる気にもなれず、机に腕を置いたままぼんやりと空を見た。
窓の外では、灰がまだ舞っている。
昼間よりも濃く、ゆっくりと。
「……帰らないの?」
声がして顔を上げると、理央が立っていた。
鞄を肩に掛けたまま、真っ直ぐに誠を見ている。
「帰るって……帰る場所、もうないし」
誠は苦笑しようとしたが、声が掠れて続かなかった。
その言葉に、理央はわずかに目を細めた。
「なら、うちに来なさい」
その一言は、あまりに自然で、あまりに強かった。
「……は?」
教室のざわめきが、一瞬で凍りついた。
数人の生徒が振り返る音。
口を開けたまま固まる男子。
小声で囁き合う女子たち。
「黒野さん、それって……」
「え、家に? やっぱり付き合って……」
小さな波紋が、教室の隅々まで広がっていく。
だが、理央は微動だにしなかった。
誠の返事を待つように、ただ静かに彼を見つめている。
その瞳には曖昧さも冗談もなく、ただ確固たる意志だけがあった。
「ちょ、ちょっと待てよ、そんなの──」
誠が慌てて言いかけた瞬間、理央が軽く一瞥した。
その瞬間、教室の空気がまた変わった。
まるで何かに押し潰されたように、全員の声が止まる。
誰もが息を飲み、彼女の視線から逃れるように目を伏せた。
まるで「黙れ」と言われたわけでもないのに、その一瞥だけで支配されていた。
「心配しないで。客間ならいくつも空いているし、生活に必要なものも揃っているわ」
理央は淡々と続けた。
声の調子はまるで業務連絡のように落ち着いている。
「でも……」
誠は口を開いた。けれど、続く言葉が見つからなかった。
教室の空気がひりついている。全員が息を潜め、黒野理央と灰原誠のやりとりを注視していた。
「……同級生の女の子の家に押しかけるなんて、普通に考えたらまずいだろ。誤解されるっていうか……」
ようやく絞り出した言葉は、情けないほど弱かった。
理央は一瞬だけまばたきをしたが、すぐに視線を誠へ戻す。
「誤解されても構わないわ。必要だから言っているの」
その声は静かだが、逆らえない力があった。
「……でも、俺が行ったら、君の家の人にも迷惑が──」
「大丈夫。私の家に“家の人”はいないわ」
その言葉に、誠は思わず顔を上げた。
理央の表情は変わらない。
だが、その黒い瞳の奥には、どこか深い闇のような静けさがあった。
「……黒野家の屋敷には、今は私と使用人たちしかいない。心配はいらない」
“使用人たち”という単語があまりにも現実離れしていて、誠は言葉を失った。
理央はそんな彼の戸惑いを意にも介さず、淡々と鞄を持ち上げる。
「決まりね。行くわよ、灰原君」
有無を言わせぬ声音だった。
理央が一歩、教室の扉へ向かう。
その背中に、何か反論しようとした誠の声は、結局出なかった。
──確かに、帰る場所なんてない。
理央の言う通りだ。
昨日の夜の炎、黒く崩れた瓦礫の山、あの光景を思い出すたび、現実感が遠のく。
頼れる相手も、行く宛てもない。
だから、ここで彼女の言葉を拒む理由は、もうなかった。
「……わかった。お世話になります」
誠が小さくそう言うと、理央は満足げに頷いた。
「いい判断ね」
それだけ言って、彼女は扉を開けた。
ざわり、と教室の空気が動く。
廊下に出た瞬間、教室のざわめきが一気に背後に遠のいた。
誠は肩をすくめるように歩きながら、ちらりと理央の横顔を盗み見る。
理央はまるで全てが当然というように、静かな足取りで前を進む。
周囲の視線をまったく意に介していない。
すれ違う生徒たちの誰もが、二人を見ては小声で囁き合う。
「ねぇ見た? あの女の子誰かな、あんな子いた?」
「黒野さんだよ! 入学式以降一回も登校したことなかったのに、どうしたんだろう」
「横のボロボロの奴って彼氏? ……でも、なんか雰囲気ちがくない?」
そんな噂が、背後から尾のようについてくる。
誠は耳まで熱くなり、何度もため息をこぼした。
だが、理央はまるで別世界の住人のように、それらの声を完全に無視していた。
ただ真っ直ぐ前を見て歩く。
背筋は伸び、制服の裾がほとんど揺れないほど均整の取れた歩幅。
廊下の光が彼女の黒髪に反射して、灰色の校舎の中でやけに際立って見えた。
誠はその後ろを、まるで守られるように歩いていた。
気まずさと、妙な緊張と、ほんの少しの安心感。
それらが胸の中で混ざり合って、呼吸が上手く整わなかった。
──だが、ふと気が付いた。
おかしい。
下校時間になったばかりだ。
いつもなら廊下には人が溢れている。
部活へ向かう生徒、談笑する女子たち、昇降口の靴箱の前で立ち話をするグループ。
なのに──
いない。
先ほどまでいたはずの生徒たちの気配が、跡形もなく消えていた。
廊下の先にも、窓際にも、誰もいない。
まるで、二人が歩く道だけが切り取られたように、静まり返っていた。
「……おかしくないか?」
誠が思わず呟く。
理央は立ち止まらず、ただ短く応じた。
「気づいた?」
「いや、だって……さっきまで生徒いたよな? どうして誰も──」
「結界ではないわね。誘導、催眠……原理までは分からないけれど、目的ははっきりしているわね」
理央が前方に目を凝らす。
廊下の奥、蛍光灯の光が届くその境界線──
そこに“揺らぎ”があった。
誠も思わず視線を追う。
その瞬間、胸の奥がぞわりと粟立った。
──いた。
柱の影に、誰かが寄りかかるようにして立っていた。
白い肌、淡い色の唇、光の加減によって美しい藍色に輝く髪。
夕刻の逆光の中でも、その輪郭は鮮明だった。
藍沢紗月。
まるで舞台照明の中に立っているように、彼女の姿は異様に美しかった。
制服の裾が微かに揺れる。
その目は、昨夜と同じ、深く静かな色をしていた。
「……灰原くん、帰っちゃうのかい?」
彼女はいつも通りの、柔らかな笑みを浮かべた。
まるで何事もなかったかのように。
「部活には、もう来てくれないのかな」
その声は、涼やかで、懐かしい響きを帯びていた。
だが誠の背筋は、凍りついたように動かない。
──昨夜、あの手に貫かれた。
何の説明もなく、何のためらいもなく。
思い出しただけで、腹の奥が疼く。
まだ熱が残っているような錯覚。
紗月の笑みは変わらない。
その表情のまま、一歩、足を進めた。
コツン、と革靴の音が廊下に響く。
「返事もしてくれないね……当たり前か」
その声音が、まるで昨日までの“日常”をなぞるように優しい。
だが、その優しさが、今は恐ろしい。
──なんでそんな顔で話しかけてくるんだ。
なんで、昨日のことがなかったみたいに。
口を開こうとしても、声が出なかった。
息が喉で引っかかる。
鼓動が痛いほど速い。
理央が一歩前に出た。
彼女の足取りには迷いがない。
その黒い瞳が、静かに紗月を射抜く。
「──藍沢紗月。規定を堂々と破るつもり? こんな人払いをしただけで、接触してくるなんて」
わずかな風が吹いた。
灰の粒が、ゆっくりと舞い落ちる。
紗月はその灰を指で受け止めるように、軽く手を上げた。
そして、穏やかな笑みを浮かべたまま、ほんの少し首を傾げる。
「君はお呼びじゃないよ、黒野理央」
その言葉の裏にある“何か”を、理央は感じ取っていた。
廊下の空気が静かに変わる。
薄い膜のような、圧迫感。
誠は息をするのも忘れる。
──この空気、知っている。
昨夜、血と炎の中で感じた“死の前触れ”。
目の前の少女が、笑みを保ったまま、一歩ずつ近づいてくる。
まるで、何も知らない後輩に再会しただけのように。
だが、誠の体はもう、彼女を“人間”として認識できなかった。
理央の黒い瞳が、すっと細くなる。
その瞬間、空気が──裂けた。
廊下を包む静寂の中、理央の声が鋭く響く。
「──セイバー!」
廊下の影が揺らぎ、空気が収縮する。
そこに、重い革靴の音。
“それ”は、昼に弁当を届けてきた黒服の男──だが、今はまるで別人のようだった。
黒服のまま、手には銀に輝く西洋剣。
左腕には金属光沢のあるラウンドシールド。
表情は変わらない。だが、その瞳には、鋼の光が宿っていた。
「──了解しました、“マスター”」
低く、落ち着いた声。
次の瞬間、セイバーは音もなく地を蹴った。
その動きは速すぎて、風すら追いつけない。
ガァンッ──!!
轟音が廊下に響き渡る。
剣と盾が空気を裂き、藍沢紗月のいた柱を叩き割った。
破片が弾け、灰と光が入り混じる。
しかし、紗月の姿はそこにはなかった。
たった数センチ──右へずれている。
まるで、初めから攻撃を予見していたように。
「……ははっ、小細工なしの正面戦闘タイプかな? 騎士……かの有名な円卓の騎士を引き当ててたりして」
柔らかな声。
彼女の制服の裾が、微風に揺れている。
「人払いの上ここに現れる時点で、宣戦布告であると判断したわ」
理央は一歩前に出た。
足元のタイルが、まるで彼女の魔力を感じ取るように低く震える。
「灰原君に危害を加えるなら、容赦しないわ」
紗月はその言葉に、ゆっくりと目を細めた。
唇が、愉しげに歪む。
「……やっぱり、そういう立場なのね。黒野家」
「余計な口を叩かないことね。ここは学内、人払いが有効なうちに終わらせる」
理央の指先が微かに光を帯びる。
令呪──彼女の手の甲に刻まれた、二つの紅の刻印が、淡く脈動していた。
セイバーが一歩進む。
廊下に響く足音は一つ。
盾を正面に構え、剣を中段に取る構え。
その姿勢は無駄がなく、完璧な戦闘の所作。
「殺せ、セイバー」