灰が、ゆっくりと降っていた。
校舎裏のコンクリートに落ちた粒が、淡く溶けて消える。
その白灰の光の中で、黒野理央は誠を見つめていた。
怒りでもなく、悲しみでもなく──そのどちらも入り混じったような、痛ましい表情で。
「灰原君。どうしてあなた、生きてるの?」
その問いは静かだったが、刃よりも鋭かった。
誠は息を飲み、喉が乾くのを感じた。
けれど、口を開いても、すぐには言葉が出なかった。
「……俺にも、わからないんだ」
ようやく絞り出した声は、掠れていた。
灰の舞う空にかすれて消えていくほどに。
「気がついたら、あの焼け跡で倒れてて……身体は血まみれで、痛みもあった。けど、生きてた。それだけなんだ。本当に、それだけ」
理央の眉がわずかに動いた。
しかしその瞳は、誠の答えを受け止めきれずに揺れている。
「……あのとき、確かにあなたは死んだのよ」
理央の声は低く、震えていた。
「魔力の反応も、完全に途絶えていた。私は……見届けたの。あなたの命が、確かにそこで途切れたのを」
彼女は一歩、誠に近づいた。
その表情には、怒りよりも強いもの──“悔恨”が滲んでいた。
「私が、守れなかった。あのとき……助けられたはずだったのに。なんとかするって、約束したのに」
誠は息を詰まらせた。
理央が顔を伏せる。
黒髪がその頬を隠し、わずかに肩が震えていた。
「令呪を切ったのに……間に合わなかった。藍沢沙月とそのサーヴァントは逃げ仰せ、今も生きている」
その声には怒りではなく、深い自責があった。
彼女の両手は小刻みに震えている。
バーサーカーが少し離れた場所でその様子を静かに見つめていた。
その獣のような瞳の奥に、ほんの一瞬だけ哀れみの光が宿る。
理央は深く息を吸い、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳が、誠のすぐ後ろに立つ影──バーサーカーを正確に捉える。
灰色の空の下、長身の狩人は微動だにせず、冷たい光を瞳に宿してこちらを見返していた。
「──あれが、あなたのサーヴァントね?」
理央の声は低く、しかし鋭い。
まるで獲物を狙う魔術師のそれだった。
誠は反射的に振り返った。
バーサーカーは、淡々と立っていた。灰の降る中、外套の裾がわずかに揺れている。
「そうだと思う。えっと、バーサーカーだ」
誠の声はかすれていた。自分でも信じきれていない響きだった。
「……よりにもよってバーサーカーか」
理央は一歩踏み出す。
足元で灰が小さく散った。
「生き返った理由は、彼女の能力或いは宝具によるものかしら?」
その問いは、もはや推測ではなく確信の響きを帯びていた。
「彼女の力で、あなたは死の淵から戻された。違う? 灰原君は魔術師として未熟、英霊たるサーヴァントならそんな奇跡も起こせるんじゃないかしら」
理央の声には、焦りと苛立ちが入り混じっていた。
自分が守れなかった命を、他の何かが“奪い返した”──それが彼女には許せなかったのかもしれない。
バーサーカーは、ゆっくりと片眉を上げた。
そして、静かに口を開く。
「……推測の域を出ませんね、黒野理央。ですが、あなたのような者がそこまで察しているなら、余計な説明は不要でしょう」
その声は低く、落ち着いていて、しかしどこか冷笑を含んでいた。
風に乗って、狩人の香り──革と鉄と血の匂いが漂う。
「……つまり、否定はしないということね」
理央はバーサーカーを鋭く睨みつけたまま、沈黙を貫いていた。
灰の降る校舎裏には、風の音と遠くのチャイムだけが響いている。
誠は唇を噛みしめ、しばらく逡巡したあと、意を決して口を開いた。
「……理央。君も……魔術師なのか?」
その問いに、理央の肩がわずかに震えた。
すぐには答えなかった。けれど、逃げるような視線は一度も見せない。
彼女は静かに息を吐き、長い睫毛の影が頬をかすめた。
「そう。私は、魔術師よ」
短く、それでいてはっきりとした言葉だった。
その瞬間、誠は胸の奥がざらつくような感覚に包まれる。
やはり──彼女も、“あの世界”の住人だった。
「……じゃあ、君も“聖杯戦争”ってやつに参加してる? 俺と同じ、マスターなのか?」
理央はほんのわずかに目を伏せた。
灰が黒髪の上に積もる。
そのまま、低く、しかし確信を帯びた声で答えた。
「ええ。私はセイバーのマスター。黒野家の代表として、この“灰原聖杯戦争”に参加している」
誠は息を呑んだ。
灰原──。
自分の家の名が、その戦争の名に冠されている。
「……灰原聖杯戦争? どういうことだよ……。まるで、この町の名前みたいじゃないか」
理央は小さく首を振る。
その瞳の奥に宿るのは、怒りでも誇りでもなく、深い哀しみの色だった。
「この聖杯戦争は、私たち黒野家が“企画”し、“実行に移した”の。──灰原の霊脈を核としてね」
彼女の言葉は淡々としていた。だが、そこにこもる重さは尋常ではなかった。
「灰原家の地脈は、かつてこの国でも稀なほど強大な魔力を孕んでいた。けれど、とある事件で……時代の変化で次第に腐食し、霊脈の均衡が崩れ始めた。そこで本家──黒野家がその霊脈を利用して、独自の“聖杯システム”を構築したの」
「……つまり、黒野家が……この戦争を作った?」
「ええ。本来の冬木の聖杯戦争とは異なる、実験的な儀式──“灰原聖杯戦争”。霊脈の暴走を制御し、同時に聖杯の再現性を試すための、危険な模倣実験」
理央は、胸の前で指を組み、わずかに視線を落とした。
「私はその監視役であり、実験参加者のひとり。黒野本家の指示で、セイバーを召喚した。それが、私の“役目”」
誠はしばらく言葉を失っていた。
風が吹き抜け、灰の粒が二人の間を流れていく。
「冬木って?」
誠の問いに、理央のまつげがわずかに揺れた。
それは一瞬の間だったが、確かに彼女の表情からは「落胆」が読み取れた。
「……やっぱり、知らないのね」
理央は静かに呟き、視線を逸らす。
灰が肩に積もるのも構わず、彼女はわずかに首を傾けて言葉を探すように息を整えた。
「“冬木”は、聖杯戦争の原型が行われた都市。そこでは、約二百年前に“聖杯”という万能の願望機を実現するための儀式が、最初に行われたの」
「……聖杯戦争の、原型?」
誠は思わず聞き返した。
理央は腕を組み、冷めたような声で答える。
「そうよ。まぁ、歴史の勉強はまた時間のある時にでもしましょう」
理央は誠の質問に小さくため息を漏らした。
もうこれ以上の説明は時間の無駄だと言わんばかりに、視線を灰の舞う空から誠へと戻す。
「……とにかく、今はこの話はここまでにしましょう」
その声には、明確な命令の響きがあった。
誠が言葉を挟むより早く、理央は続ける。
「あなたが“生きている”という事実──それは、もうすでに全ての陣営に知れ渡っているはずよ」
誠は喉の奥がひりつくのを感じた。
誰かに見られている──そんな感覚が、背中を這い上がる。
理央は冷たく言い切った。
「だから、今あなたが真っ先にやるべきことは、“目立たないこと”」
「……目立たない?」
「ええ。今のあなたは、狙われる側なのよ。魔術もろくに使えないマスターなんて格好の的だわ」
理央はそう言って、バーサーカーを一瞥する。
バーサーカーは何も言わず、ただその瞳の奥で警戒の光を宿していた。
「サーヴァントは霊体化させておきなさい」
「霊体化……?」
「物質的な身体を霊的に変換して、視認できなくすること。本来、サーヴァントは戦闘時以外はそうしておくものなの。そうすれば、一般人にも他のマスターにも、あなたの位置を容易には察知されない」
理央の口調は淡々としていたが、その一言一言に緊張が走る。
バーサーカーは短く頷いた。
「貴方も、座を通じて基本的な知識は得ているはずよね? どんな英霊か知らないけれど、もう少しマスターに協力するべきじゃないかしら」
「ええ、しかし指示がなかったものですから」
誠は二人のやりとりを見ながら、どうしていいかわからず拳を握る。
自分だけがこの世界の常識を知らない。
そんな焦燥が胸を締めつけた。
「……じゃあ、俺はどうすればいいんだ? 今日、この後……」
「教室に戻りなさい」
理央の即答に、誠は思わず声を詰まらせる。
「は?」
「普段通りに過ごすの。授業を受けて、昼食をとって、放課後まで普通に過ごす。──それが一番安全よ」
理央の声音は冷静だった。
「灰原聖杯戦争には幾つかルールが存在するの。そのうちの一つに、いたずらに一般人を巻き込まない、戦闘や暗殺は基本的に夜間或いは人目のつかない場所で、と定められているわ」
誠は唾を飲み込む。
理央の言うことは、どこか現実離れしているのに、妙に説得力があった。
「……殺し合いにルールなんか決めて、本当に守られるのか?」
理央は頷いた。だが、その瞳の奥にはわずかな陰りが残っている。
灰が二人の間に静かに降り積もる。彼女の声は次第に低く、しかし緊張を孕んでいた。
「その“ルール”を守らなければ、監督官からの“制裁”が下るわ」
「監督官?」
「ええ。聖堂教会の派遣者よ、今回は黒野本家がそれに当たるわ。聖杯戦争が『儀式』である以上、監視と秩序の維持が必要になる。ルールを破ったマスターには、処分が下される。酷ければ、即座に“排除”されることもあるわ」
誠は思わず息を飲んだ。
その言葉の中には、冷たく現実的な死の匂いがあった。
「……そんなに厳しいのか」
「当然よ。けれど──」
理央の声色がわずかに落ちた。
灰が一枚、頬をかすめて落ちる。
「全てのマスターが“律義に従う”とは限らない。むしろ、戦いが進むにつれて、誰もが手段を選ばなくなる監督官の存在すら、抑止力にならない時もあるわ」
誠は息を呑む。
その言葉が、冗談ではないと悟るには、理央の表情だけで十分だった。
「……つまり、ルールがあるけど、信用はできないってことか」
「そういうこと」
理央は冷たく言い切った。
「だからこそ、今は“普通でいる”ことが最も重要なの。あなたが灰原誠として行動すれば、少なくとも日中は安全圏にいられる」
誠は小さく頷いた。
その表情には不安と、覚悟が入り混じっている。
「……わかった。放課後までは、普通にしてるよ」
「いいわ」
理央は短くそう言い、踵を返す。
灰の中、誠が歩き出そうとした瞬間──。
隣で、理央も同じ歩幅で並んだ。
ほんの数十センチの距離。
ほとんど肩が触れ合うほどの近さだった。
「……おい、近くないか?」
誠が戸惑いの声を上げると、理央は平然としたまま言葉を返す。
「当然よ。あなたを放っておけるわけがない」
その声には、どこか硬い決意が滲んでいた。
「私はあなたを守る。──何があっても」
「……え?」
「もう二度と、灰原君を死なせたりしない」
理央はまっすぐ前を向いたまま、そう告げた。
その横顔は冷たく整っているのに、不思議なほど真剣で、誠には言葉を返せなかった。
ただ、彼女の隣を歩くたびに感じるのは──
空気の温度ではなく、張り詰めた“覚悟”そのものだった。
灰の降る廊下を二人は並んで歩く。
バーサーカーの姿はもう霊体化して見えない。
だが、その存在の気配だけが、確かに彼らのすぐ背後にあった。
理央と誠が教室の扉を開けた瞬間、教室の空気がざわりと揺れた。
既に一時限目の授業は始まっており、黒板にはチョークの音が響いていたが、二人の登場でその音がぴたりと止まる。
全員の視線が一斉に誠へと注がれた。
「灰原……? お前何時だと──」
激昂した教師が何かを言うよりも早く、理央が一歩前に出た。
「先生」
その声は、まるで教室の空気そのものを支配するように静かで、鋭かった。
全員の視線が彼女に吸い寄せられる。
「灰原君は、体調を崩していたので私が保健室へ連れていきました。今朝は顔色も悪く、ふらついていたので」
教師は一瞬、口を開きかけたが──理央の黒い瞳に射抜かれるように視線を止められた。
そして、彼女はさらに一歩踏み込み、穏やかに微笑んだ。
「私が責任をもって介抱しました……席に戻って構いませんね?」
その瞬間、教室の空気が凍った。
教師は一拍の沈黙の後、何かに飲み込まれるように頷く。
「……あ、ああ……そうか。なら、席に戻れ」
彼はそれ以上何も言わなかった。
他の生徒たちも息を潜め、誰も言葉を発しない。
誠は戸惑いながらも、理央の隣を通って席へ向かう。
その背中を、理央が当然のように並んで歩いた。
彼女の靴音は、誠とほとんど同じタイミングで響く。
まるで二人の間に、見えない糸が結ばれているかのようだった。