夜は、まだ終わっていなかった。
腹の奥が焼けるように痛い。
呼吸をするたび、体の中で何かが軋む。
血の味が喉を焦がし、吐息が白く散った。
灰が降る。空から、絶え間なく。
まるで世界がゆっくりと崩れているかのようだった。
庭の地面に片膝をつきながら、誠は懸命に立ち上がろうとした。
しかし、腹から流れる温かい感触が、力を奪っていく。
目の前の灰が、視界の中で赤く滲んでいた。
──逃げろ。
──いや、無理だ。
意識の奥で、ふたつの声がぶつかる。
けれど足は動かない。体が重い。
血の匂いと、灰の匂いが混ざって、喉が痛む。
「……すぐ、終わらせるからね」
その声が、背後から落ちてきた。
柔らかく、どこまでも穏やかに。
まるで、眠る前の子守唄のような響きで。
藍沢紗月が、そこにいた。
玄関の灯りを背に、灰の帳をまとったように立っている。
制服の袖口にこびりついた血が、風に濡れて鈍く光った。
藍沢紗月の声は、震えていなかった。
そこにあるのは、恐れでも憎しみでもなく──ただの“決意”。
灰の降りしきる庭で、その静けさだけが異様に際立っていた。
誠は、背後に感じる気配から目を逸らせなかった。
血が流れ続けている。
風が頬を撫で、灰が唇に張り付く。
冷たく、味もない。
それでも、確かに“生きている”という感覚だけが、まだ彼を繋ぎ止めていた。
「……なんで、俺なんだよ……」
掠れた声が、夜に溶ける。
紗月は答えない。
ただ、そっと片膝をつき、誠の前に腰を下ろした。
瞳が、まっすぐに彼を見ている。
泣いていない。怒ってもいない。
ただ、“見届ける者”のような目だった。
「灰原の血が流れ続ける限り……この街は、また同じことを繰り返す」
ナイフの刃が月光を受け、鈍く光る。
「だから、終わらせるの。灰が降り始めた以上、もうこれしか止める手段はないから」
彼女は刃をそっと持ち替え、誠の肩に触れた。
冷たい指先が、温かい血をなぞる。
「……怖い?」
問いかけに、誠は答えられなかった。
喉が渇いて、言葉が出ない。
代わりに、微かに首を振った。
紗月は静かに微笑んだ。
その笑顔は、どこか懐かしい──部室で本を読んでいた時のまま。
「……強いね。灰原君」
そして──ナイフの切っ先が、喉に添えられた。
ひやりとした感触。
その冷たさが、血の温度と鮮烈に対比していた。
息を吸うたび、刃が微かに動く。
死が、指先ひとつ分の距離にある。
「苦しまないようにするから」
囁きは、祈りにも似ていた。
それでも──確かに“殺意”だった。
月光が刃をなぞる。
灰が二人の間に降り注ぐ。
その一粒一粒が、まるで時間を刻むようだった。
そして、世界が止まる。
──スッ。
音は、なかった。
ただ、喉の奥で何かが切れる感覚。
温かいものが零れ、胸の中を滑り落ちていく。
誠の視界が白く染まる。
遠くで風の音がした。
灰が舞う。
空が、静かに沈んでいく。
紗月の顔がぼやけていく。
彼女は何かを言っていた。
けれどもう、言葉としては届かない。
ただ、唇の動きだけが見える。
──「ごめんね」
その形だけが、最後に焼き付いた。
体が崩れ落ちる。
灰の上に横たわり、血が静かに広がる。
耳鳴りが遠ざかる。
けれど、ほんの一瞬──音が戻った。
──カツ、カツッ。
遠ざかる靴音。
紗月が歩き去っていく音だ。
それが、夜の底へと沈んでいく。
だが、そのすぐ後──
──ドンッ!
扉が弾ける音。
荒い足音が駆け込んでくる。
「藍沢……紗月!!」
それは、黒野理央の声だった。
凍りつくような怒気を孕んだ声。
空気が一瞬で変わる。
灰が風に逆らって舞い上がる。
「遅かったね、黒野理央」
紗月の声が応える。
その直後、衝突音。
金属と金属がぶつかり合うような鋭い音が響いた。
視界の端で、閃光が走る。
灰の中に、影と影が交錯する。
風が爆ぜ、地が揺れる。
刃が交わり、呪文が響く。
灰が炎に焦げる。
だが──誠の目は、もう閉じられようとしていた。
光が遠ざかる。
音が波の向こうに消えていく。
灰の粒が、視界の中でゆっくりと止まった。
時間が凍りつく。
息が途切れる。
最後に聞こえたのは、理央の声だった。
怒りでも、悲鳴でもない。
──叫び。
その意味を聞き取る前に、闇が全てを呑み込んだ。
────
音が、ない。
灰原誠は、死んでいた。
血も流れず、呼吸も止まり、心臓は静かに沈黙していた。
ただ、灰の降る音だけが、どこか遠くで響いている。
それは鼓動のようでもあり、呼吸のようでもあった。
思考が、ゆっくりと形を取り始める。
暗闇の中で、自分という輪郭が曖昧に浮かび上がる。
体があるのかも分からない。
けれど──確かに「何か」が動いていた。
脈動。
胸の奥ではない。
もっと深く、魂の底で。
誰かの手が、内側から心臓を叩いているような感覚。
──ドクン。
音が、灰の中に響いた。
それに呼応するように、死した肉体の内側で、
「灰」と「血」と「何か」が、静かに混じり合う。
痛みではなかった。
熱でもない。
“起動”──そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
灰が光を帯びる。
血が逆流し、意識が呼び戻される。
暗闇の底で、何かが囁いた。
──ようやく、聞こえた。
その声は、低く、穏やかで、どこか懐かしい響きを帯びていた。
女性の声だった。
深い闇の中、霧のように滲むその声が、
誠の意識を掴んで離さなかった。
──迷い人よ。獣を狩る訳でもなく、終わらぬ夜に捕らわれたか。
声が、静かに笑った。
鈴の音のような笑い。
それは、血と獣と灰の匂いを纏った、どこか懐かしい調べだった。
──余りに愚か。不憫で、か弱い子。
光が差す。
暗闇の中に、影が立つ。
細い体。長い外套。黒い帽子の下で、瞳が赤く光った。
その女は、血の月の下から来た。
狩人の服をまとい、銀の獣狩りの刃を腰に吊るしている。
灰ではなく、血の世界の住人。
──私は、狩人。終わらぬ夢より来たりしもの。
──この灰に溶けた魂よ。……まだ、歩みたいのか?
誠は、声を出そうとした。
だが口が動かない。
それでも、心の奥で確かに答えた。
灰が揺れる。
女狩人は微笑む。
その笑みは、どこか慈悲を湛えていた。
──ならば、立ちなさい。血を抱き、灰に還らぬ者として。
──君が望むならば、私は君に従いましょう。
闇が裂ける。
灰が吹き荒れる。
血が逆流し、死した体が脈動を取り戻す。
──灰原誠。
──君が、私のマスターか?
誠は、震える意識の中で、わずかに唇を動かした。
その瞬間、女狩人の瞳が深紅に輝く。
人とは到底思えない、恐ろしく、美しい、ケダモノの瞳。
──素晴らしい。ならば、契ろう。灰と血の果てに。
刹那、光が弾けた。
灰が流星のように舞い、血が風に乗って花弁のように散った。
誠の胸が強く脈動する。
その鼓動が、肉体に、魂に、世界に刻み込まれる。
灰原誠という人間の“死”が、ゆっくりと塗り替えられていった。
否。
全てが、悪夢となってゆく。
狩人が微笑む。
──ようこそ、狩人の夢へ
────
眩しい。
まぶたの裏が、白い光に焼かれるようだった。
喉が乾ききって、呼吸のたびに胸が痛む。
次の瞬間、誠は──飛び起きた。
「……っ、はあっ……!」
肺が、空気を吸うことを思い出したように震える。
鼓動が暴れる。
まるで何年も眠っていた心臓が、再び動き出したように。
全身が汗と血に濡れていた。
服は昨夜のまま、腹部の布地が裂け、乾いた血が黒く固まっている。
手を当てる──傷は、なかった。
皮膚は滑らかで、痛みすらない。
けれど確かに、そこに“刃”が通った感覚は残っている。
冷たい鉄の触感、喉を裂く音、温かい血の流れ──すべてが記憶の奥で生々しく疼いた。
「……生きてる、のか……俺……?」
声が、乾いた風に溶ける。
見渡すと、屋敷は──焼け落ちていた。
天井は崩れ、柱は黒く焦げ、畳は灰に埋もれている。
壁のあった場所は瓦礫と化し、かつての廊下は炎の痕跡を残したまま冷え切っていた。
屋敷の中心──誠が倒れていたはずの場所には、円形に灰が残り、まるで“何かが爆ぜた跡”のようだった。
外を見ると、朝日が昇っていた。
空は淡く霞み、灰の粒が光を反射してゆっくりと落ちてくる。
夜の闇はもうなく、静寂だけが世界を満たしている。
──あれは夢じゃなかった。
胸の奥に冷たい実感が刺さる。
藍沢紗月の刃、黒野理央の叫び、灰に覆われた夜──
すべてが確かに、現実だった。
そして自分は、一度“死んだ”。
それでもこうして、再び立っている。
なぜ──何が、自分を引き戻したのか。
──ドクン。
まただ。
あの“何か”が、胸の奥で脈動している。
鼓動ではない。魂の奥で、灰と血が呼応するようにうごめく。
まるで、何かが“応じて”いる──。
その瞬間だった。
焼け跡の向こうで、灰が逆巻いた。
風が吹いたわけではない。
それはまるで、空気そのものが震えたかのようだった。
崩れた梁の影、焦げた柱の合間。
そこに、人の形が立っていた。
煤けた外套。
長く裂けたマントの裾が、灰の風にたなびく。
帽子の影から覗く瞳が、獣のように爛々と光っていた。
その女は、黙って誠を見ていた。
背は高い。
少なくとも一八〇はある。
細身でしなやかな肢体。だが、その動きは獣のように静かで、恐ろしく研ぎ澄まされていた。
「……お前は」
誠の声は掠れていた。
女はすぐには答えなかった。
ただ、ゆっくりと一歩、二歩と近づいてくる。
焦げた木を踏む音が、異様に響く。
やがて彼女は、誠の目の前で立ち止まった。
金属の擦れる音──。
女は片膝をつき、誠の足元に跪いた。
その仕草は、王に傅く騎士のようでもあり、
狩りの主に従う獣のようでもあった。
「お目覚めのようですね、マスター」
その声は、昨夜──闇の底で聞いたものと同じだった。
女狩人の低く、よく通る声。
燃え残った灰の粒が、彼女の肩で淡く光る。
「……マスター? 俺が……?」
「ええ」
女狩人は、静かに顔を上げた。
紅玉のような双眸が誠を射抜く。
その瞳には、理性の光と獣の衝動が同居していた。
「私は、あなたのサーヴァント。クラス──バーサーカー」
その言葉を口にした瞬間、灰の空気が震えた。
誠の足元の灰が淡く光り、同心円状に広がっていく。
まるで、聖杯戦争の召喚陣が後から世界に書き加えられていくように。
「私は血と獣の果てを狩り続けた者。かつて、幾千の夜を越え、名もなき夢を歩いた者……そして今、あなたの呼び声に応じて、この灰の地に降り立ちました」
誠の喉が鳴った。
何を言えばいいのか分からなかった。
彼女の存在そのものが、現実の理を逸している。
だが──同時に、確信していた。
この女は、あの夜、自分を呼び戻した。
誠の胸の奥──死と共に沈んだはずの魂が、女狩人の声に共鳴している。
女狩人はゆっくりと立ち上がる。
長身の影が、朝日に伸びた。
外套の裾が灰を払うたび、火の粉のような粒が舞う。
その光の下で──誠の背後に、もうひとつの影が立っていた。
それは女狩人の影ではない。
誠の影の形が、獣のように歪んでいた。