Fate/You Died.   作:助兵衛

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第4話 狩人の夢

 夜は、まだ終わっていなかった。

 

 腹の奥が焼けるように痛い。

 呼吸をするたび、体の中で何かが軋む。

 血の味が喉を焦がし、吐息が白く散った。

 灰が降る。空から、絶え間なく。

 まるで世界がゆっくりと崩れているかのようだった。

 

 庭の地面に片膝をつきながら、誠は懸命に立ち上がろうとした。

 しかし、腹から流れる温かい感触が、力を奪っていく。

 目の前の灰が、視界の中で赤く滲んでいた。

 

 ──逃げろ。

 ──いや、無理だ。

 

 意識の奥で、ふたつの声がぶつかる。

 けれど足は動かない。体が重い。

 血の匂いと、灰の匂いが混ざって、喉が痛む。

 

「……すぐ、終わらせるからね」

 

 その声が、背後から落ちてきた。

 柔らかく、どこまでも穏やかに。

 まるで、眠る前の子守唄のような響きで。

 

 藍沢紗月が、そこにいた。

 玄関の灯りを背に、灰の帳をまとったように立っている。

 制服の袖口にこびりついた血が、風に濡れて鈍く光った。

 

 藍沢紗月の声は、震えていなかった。

 そこにあるのは、恐れでも憎しみでもなく──ただの“決意”。

 灰の降りしきる庭で、その静けさだけが異様に際立っていた。

 

 誠は、背後に感じる気配から目を逸らせなかった。

 血が流れ続けている。

 風が頬を撫で、灰が唇に張り付く。

 冷たく、味もない。

 それでも、確かに“生きている”という感覚だけが、まだ彼を繋ぎ止めていた。

 

「……なんで、俺なんだよ……」

 

 掠れた声が、夜に溶ける。

 紗月は答えない。

 ただ、そっと片膝をつき、誠の前に腰を下ろした。

 

 瞳が、まっすぐに彼を見ている。

 泣いていない。怒ってもいない。

 ただ、“見届ける者”のような目だった。

 

「灰原の血が流れ続ける限り……この街は、また同じことを繰り返す」

 

 ナイフの刃が月光を受け、鈍く光る。

 

「だから、終わらせるの。灰が降り始めた以上、もうこれしか止める手段はないから」

 

 彼女は刃をそっと持ち替え、誠の肩に触れた。

 冷たい指先が、温かい血をなぞる。

 

「……怖い?」

 

 問いかけに、誠は答えられなかった。

 喉が渇いて、言葉が出ない。

 代わりに、微かに首を振った。

 

 紗月は静かに微笑んだ。

 その笑顔は、どこか懐かしい──部室で本を読んでいた時のまま。

 

「……強いね。灰原君」

 

 そして──ナイフの切っ先が、喉に添えられた。

 

 ひやりとした感触。

 その冷たさが、血の温度と鮮烈に対比していた。

 息を吸うたび、刃が微かに動く。

 死が、指先ひとつ分の距離にある。

 

「苦しまないようにするから」

 

 囁きは、祈りにも似ていた。

 それでも──確かに“殺意”だった。

 

 月光が刃をなぞる。

 灰が二人の間に降り注ぐ。

 その一粒一粒が、まるで時間を刻むようだった。

 

 そして、世界が止まる。

 

 ──スッ。

 

 音は、なかった。

 ただ、喉の奥で何かが切れる感覚。

 温かいものが零れ、胸の中を滑り落ちていく。

 

 誠の視界が白く染まる。

 遠くで風の音がした。

 灰が舞う。

 空が、静かに沈んでいく。

 

 紗月の顔がぼやけていく。

 彼女は何かを言っていた。

 けれどもう、言葉としては届かない。

 ただ、唇の動きだけが見える。

 

 ──「ごめんね」

 

 その形だけが、最後に焼き付いた。

 

 体が崩れ落ちる。

 灰の上に横たわり、血が静かに広がる。

 耳鳴りが遠ざかる。

 

 けれど、ほんの一瞬──音が戻った。

 

 ──カツ、カツッ。

 

 遠ざかる靴音。

 紗月が歩き去っていく音だ。

 それが、夜の底へと沈んでいく。

 

 だが、そのすぐ後──

 

 ──ドンッ! 

 

 扉が弾ける音。

 荒い足音が駆け込んでくる。

 

「藍沢……紗月!!」

 

 それは、黒野理央の声だった。

 凍りつくような怒気を孕んだ声。

 空気が一瞬で変わる。

 灰が風に逆らって舞い上がる。

 

「遅かったね、黒野理央」

 

 紗月の声が応える。

 その直後、衝突音。

 金属と金属がぶつかり合うような鋭い音が響いた。

 

 視界の端で、閃光が走る。

 灰の中に、影と影が交錯する。

 風が爆ぜ、地が揺れる。

 刃が交わり、呪文が響く。

 灰が炎に焦げる。

 

 だが──誠の目は、もう閉じられようとしていた。

 光が遠ざかる。

 音が波の向こうに消えていく。

 

 灰の粒が、視界の中でゆっくりと止まった。

 時間が凍りつく。

 息が途切れる。

 

 最後に聞こえたのは、理央の声だった。

 怒りでも、悲鳴でもない。

 ──叫び。

 その意味を聞き取る前に、闇が全てを呑み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────

 

 音が、ない。

 

 灰原誠は、死んでいた。

 

 血も流れず、呼吸も止まり、心臓は静かに沈黙していた。

 ただ、灰の降る音だけが、どこか遠くで響いている。

 それは鼓動のようでもあり、呼吸のようでもあった。

 

 思考が、ゆっくりと形を取り始める。

 暗闇の中で、自分という輪郭が曖昧に浮かび上がる。

 体があるのかも分からない。

 けれど──確かに「何か」が動いていた。

 

 脈動。

 

 胸の奥ではない。

 もっと深く、魂の底で。

 誰かの手が、内側から心臓を叩いているような感覚。

 

 ──ドクン。

 

 音が、灰の中に響いた。

 それに呼応するように、死した肉体の内側で、

「灰」と「血」と「何か」が、静かに混じり合う。

 

 痛みではなかった。

 熱でもない。

 “起動”──そんな言葉が脳裏に浮かんだ。

 

 灰が光を帯びる。

 血が逆流し、意識が呼び戻される。

 暗闇の底で、何かが囁いた。

 

 ──ようやく、聞こえた。

 

 その声は、低く、穏やかで、どこか懐かしい響きを帯びていた。

 女性の声だった。

 深い闇の中、霧のように滲むその声が、

 誠の意識を掴んで離さなかった。

 

 ──迷い人よ。獣を狩る訳でもなく、終わらぬ夜に捕らわれたか。

 

 声が、静かに笑った。

 鈴の音のような笑い。

 それは、血と獣と灰の匂いを纏った、どこか懐かしい調べだった。

 

 ──余りに愚か。不憫で、か弱い子。

 

 光が差す。

 暗闇の中に、影が立つ。

 細い体。長い外套。黒い帽子の下で、瞳が赤く光った。

 

 その女は、血の月の下から来た。

 狩人の服をまとい、銀の獣狩りの刃を腰に吊るしている。

 灰ではなく、血の世界の住人。

 

 ──私は、狩人。終わらぬ夢より来たりしもの。

 

 ──この灰に溶けた魂よ。……まだ、歩みたいのか? 

 

 誠は、声を出そうとした。

 だが口が動かない。

 それでも、心の奥で確かに答えた。

 

 灰が揺れる。

 女狩人は微笑む。

 その笑みは、どこか慈悲を湛えていた。

 

 ──ならば、立ちなさい。血を抱き、灰に還らぬ者として。

 

 ──君が望むならば、私は君に従いましょう。

 

 闇が裂ける。

 灰が吹き荒れる。

 血が逆流し、死した体が脈動を取り戻す。

 

 ──灰原誠。

 

 ──君が、私のマスターか? 

 

 誠は、震える意識の中で、わずかに唇を動かした。

 

 その瞬間、女狩人の瞳が深紅に輝く。

 人とは到底思えない、恐ろしく、美しい、ケダモノの瞳。

 

 ──素晴らしい。ならば、契ろう。灰と血の果てに。

 

 刹那、光が弾けた。

 灰が流星のように舞い、血が風に乗って花弁のように散った。

 

 誠の胸が強く脈動する。

 その鼓動が、肉体に、魂に、世界に刻み込まれる。

 灰原誠という人間の“死”が、ゆっくりと塗り替えられていった。

 

 否。

 

 全てが、悪夢となってゆく。

 

 狩人が微笑む。

 

 ──ようこそ、狩人の夢へ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────

 

 眩しい。

 

 まぶたの裏が、白い光に焼かれるようだった。

 喉が乾ききって、呼吸のたびに胸が痛む。

 次の瞬間、誠は──飛び起きた。

 

「……っ、はあっ……!」

 

 肺が、空気を吸うことを思い出したように震える。

 鼓動が暴れる。

 まるで何年も眠っていた心臓が、再び動き出したように。

 

 全身が汗と血に濡れていた。

 服は昨夜のまま、腹部の布地が裂け、乾いた血が黒く固まっている。

 手を当てる──傷は、なかった。

 

 皮膚は滑らかで、痛みすらない。

 けれど確かに、そこに“刃”が通った感覚は残っている。

 冷たい鉄の触感、喉を裂く音、温かい血の流れ──すべてが記憶の奥で生々しく疼いた。

 

「……生きてる、のか……俺……?」

 

 声が、乾いた風に溶ける。

 見渡すと、屋敷は──焼け落ちていた。

 

 天井は崩れ、柱は黒く焦げ、畳は灰に埋もれている。

 壁のあった場所は瓦礫と化し、かつての廊下は炎の痕跡を残したまま冷え切っていた。

 屋敷の中心──誠が倒れていたはずの場所には、円形に灰が残り、まるで“何かが爆ぜた跡”のようだった。

 

 外を見ると、朝日が昇っていた。

 空は淡く霞み、灰の粒が光を反射してゆっくりと落ちてくる。

 夜の闇はもうなく、静寂だけが世界を満たしている。

 

 ──あれは夢じゃなかった。

 

 胸の奥に冷たい実感が刺さる。

 藍沢紗月の刃、黒野理央の叫び、灰に覆われた夜──

 すべてが確かに、現実だった。

 

 そして自分は、一度“死んだ”。

 それでもこうして、再び立っている。

 なぜ──何が、自分を引き戻したのか。

 

 ──ドクン。

 

 まただ。

 あの“何か”が、胸の奥で脈動している。

 鼓動ではない。魂の奥で、灰と血が呼応するようにうごめく。

 まるで、何かが“応じて”いる──。

 

 その瞬間だった。

 

 焼け跡の向こうで、灰が逆巻いた。

 

 風が吹いたわけではない。

 それはまるで、空気そのものが震えたかのようだった。

 崩れた梁の影、焦げた柱の合間。

 そこに、人の形が立っていた。

 

 煤けた外套。

 長く裂けたマントの裾が、灰の風にたなびく。

 帽子の影から覗く瞳が、獣のように爛々と光っていた。

 

 その女は、黙って誠を見ていた。

 背は高い。

 少なくとも一八〇はある。

 細身でしなやかな肢体。だが、その動きは獣のように静かで、恐ろしく研ぎ澄まされていた。

 

「……お前は」

 

 誠の声は掠れていた。

 女はすぐには答えなかった。

 ただ、ゆっくりと一歩、二歩と近づいてくる。

 焦げた木を踏む音が、異様に響く。

 

 やがて彼女は、誠の目の前で立ち止まった。

 

 金属の擦れる音──。

 女は片膝をつき、誠の足元に跪いた。

 

 その仕草は、王に傅く騎士のようでもあり、

 狩りの主に従う獣のようでもあった。

 

「お目覚めのようですね、マスター」

 

 その声は、昨夜──闇の底で聞いたものと同じだった。

 女狩人の低く、よく通る声。

 燃え残った灰の粒が、彼女の肩で淡く光る。

 

「……マスター? 俺が……?」

 

「ええ」

 

 女狩人は、静かに顔を上げた。

 紅玉のような双眸が誠を射抜く。

 その瞳には、理性の光と獣の衝動が同居していた。

 

「私は、あなたのサーヴァント。クラス──バーサーカー」

 

 その言葉を口にした瞬間、灰の空気が震えた。

 誠の足元の灰が淡く光り、同心円状に広がっていく。

 まるで、聖杯戦争の召喚陣が後から世界に書き加えられていくように。

 

「私は血と獣の果てを狩り続けた者。かつて、幾千の夜を越え、名もなき夢を歩いた者……そして今、あなたの呼び声に応じて、この灰の地に降り立ちました」

 

 誠の喉が鳴った。

 何を言えばいいのか分からなかった。

 彼女の存在そのものが、現実の理を逸している。

 だが──同時に、確信していた。

 

 この女は、あの夜、自分を呼び戻した。

 

 誠の胸の奥──死と共に沈んだはずの魂が、女狩人の声に共鳴している。

 

 女狩人はゆっくりと立ち上がる。

 長身の影が、朝日に伸びた。

 外套の裾が灰を払うたび、火の粉のような粒が舞う。

 

 その光の下で──誠の背後に、もうひとつの影が立っていた。

 それは女狩人の影ではない。

 誠の影の形が、獣のように歪んでいた。

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