灰の降りしきる夜の校舎──
理央はしばらく廊下の奥を見つめていたが、やがて静かに踵を返した。
制服の裾がわずかに揺れ、灰が淡く舞う。
「……立てる?」
その問いかけは淡々としていたが、不思議と命令のような力を持っていた。
誠は壁に手をつきながら、ゆっくりと体を起こす。
痛みが走るたびに呼吸が詰まるが、理央が肩を貸してくれると、なぜか足の痛みよりも胸の鼓動の方が気になった。
彼女の肩越しに見る夜の廊下は、異様なほど静まり返っていた。
さっきまでの惨劇が嘘のように、灰だけが絶えず降り注いでいる。
足跡を残すたび、床がかすかに軋む。
「どこへ……行くんだ?」
やっとの思いで口を開いた誠の問いに、理央は答えなかった。
その代わり、彼の体を支えながら淡々と歩を進める。
階段を下りるたび、灰が光を反射して、まるで二人が別世界を歩いているようだった。
昇降口を抜け、夜風が吹き込む。
外は灰が雪のように降り積もり、校庭の隅々まで白く染め上げていた。
その静寂を破るように、エンジン音がひとつ──
校門の前、黒塗りの車が一台、ヘッドライトを落として待機していた。
理央は支えたまま誠を車まで導く。
ドアが自動的に開き、運転席には黒いスーツの男が無言で頭を下げた。
彼の瞳には感情の欠片すらない。
「乗って。家まで送るわ」
理央がそう言っても、誠の頭は混乱で満ちていた。
さっきの忍、騎士、そして彼女の異様な冷静さ──
すべてが現実味を失っていた。
「……黒野、さっきのは何なんだ? あの人……お前、いったい……」
質問が途切れる。
理央はただ誠の目を見つめた。
その瞳は、どこまでも深く、暗く──まるで灰色の海の底。
「今は何も聞かないで」
淡々とした声だった。
けれどその口調の奥に、わずかな焦燥が混じっていた。
「家に帰ったらすぐ荷物をまとめて。今夜のうちに、この街を出なさい。……少なくとも、数か月は戻ってきてはだめ」
誠は唖然とした。
その言葉の意味を理解できず、ただ理央の横顔を見つめる。
非常灯に照らされたその顔は、まるで別の誰か──
人ではない何かを見ているような、遠い目をしていた。
「どういう……ことなんだよ。俺、何もしてないのに──」
理央は答えない。
ただ誠の手をそっと押し返し、車の中へ促した。
その仕草に、有無を言わせぬ気配があった。
誠はもう抵抗できず、車のシートに身を沈める。
車内は静寂に包まれていた。
重く閉じたドアが、外の灰を遮断する。
淡い照明が天井に灯り、誠の顔を柔らかく照らしていた。
黒塗りの車がゆっくりと校門を抜ける。
ヘッドライトを落としたまま、それでも道筋を迷わない。
運転席の男は無言のままハンドルを握り、後部座席では理央が誠の隣に座っていた。
窓の外──
灰が降り続けている。
街灯もほとんど消え、夜の街は廃墟のように沈んでいた。
ビルの影が灰に覆われ、世界そのものがゆっくりと死んでいくようだった。
誠はぼんやりと外を見つめていた。
理央の言葉が何度も頭の中を反芻する。
──今夜のうちに、この街を出なさい。
なぜ。
どうして。
あの忍は何者で、なぜ自分が狙われたのか。
問いが胸の中で渦を巻くが、口に出すことができなかった。
理央の横顔を見た瞬間、言葉が喉の奥で凍りついた。
彼女は窓の外を見ていた。
灰の降る景色に視線を投げながら、何かを計算するように目を細めている。
その表情は、冷たくも悲しげだった。
まるでこの夜の全てを、すでに知っているかのように。
「……山道になるわね」
理央が小さく呟く。
運転手が頷き、車はゆっくりと街の外れへ進む。
窓の外の景色が変わる。
住宅街が途切れ、古びた石垣と林が続く。
灰が濃くなり、まるで霧のように世界を覆っていく。
やがて、舗装された道路が終わり、未舗装の細道へ。
街の光が完全に消え、車の中だけが現実の名残を保っていた。
理央が口を開く。
「灰原くん、あなたの家……ご両親は?」
「……いないよ。今は俺一人だ」
誠の声にはどこか照れと寂しさが混じっていた。
理央はわずかに頷くだけで、何も言わなかった。
けれどその沈黙には、ほんの僅かな“覚悟”のような重みがあった。
車が林を抜け、視界が開ける。
夜霧と灰の帳の向こうに、黒い影のような屋敷が現れた。
瓦屋根はところどころ崩れ、蔦が石垣を覆っている。
しかし、その佇まいはなお荘厳だった。
広い庭には枯れ木が並び、灯りのない縁側が静かに月光を反射している。
──灰原家。
かつてこの町の礎を築いた名家。
だが、今はもう人の記憶から遠ざかり、ただ「廃れた旧家」として残っている。
車が砂利を踏みしめて止まった。
灰がライトに照らされ、粉雪のように舞う。
「着いたわ」
理央の声に促され、誠はゆっくりと顔を上げた。
窓の外、古びた屋敷が闇の中に沈んでいる。
懐かしいはずの光景なのに──どこか異様に冷たく見えた。
外壁を伝う蔦の間に、黒ずんだ家紋が覗いている。
祖父の代までこの町を治めていた証。
だが今、その誇りは灰に埋もれている。
理央は静かに言った。
「足は、もう大丈夫?」
「……ああ。なんとか、歩けると思う」
誠は短く答え、ドアノブに手をかけた。
車の中の暖かさが、外の冷気に押し流されていく。
外に出ると、夜風が頬を打った。
灰がしんしんと降り続けている。
その降り方はあまりに静かで──まるで世界の終わりの雪のようだった。
理央も車を降りた。
彼女の黒髪に灰が積もり、淡く光る。
その姿は、灯りのない庭の中でひどく儚く見えた。
「ありがとう、黒野。送ってもらって……助かった。あの変な奴からも、守ってくれて」
誠はそう言いながら、頭を下げた。
けれど、心のどこかで引っかかっている。
──どうして、彼女は自分の家を知っている?
この屋敷の場所を、クラスの誰かに話したことなど一度もない。
それどころか、町の人間でさえ、道を知らないほどだ。
聞こうと口を開きかけたが、理央の視線に遮られた。
彼女はまっすぐに誠を見ていた。
その瞳には、ためらいも迷いもなかった。
「心配しないで」
彼女の声は、灰の降る音よりも静かだった。
「君がこの街を出るまでは──何とかしてみせるから」
その言葉は、慰めのようでいて、祈りのようでもあった。
そして、どこか決意にも似た響きを帯びていた。
「黒野……それ、どういう──」
問いかけを最後まで言う前に、理央は軽く首を振った。
「いいの。もう、帰って。すぐに荷物を纏めて、街を出るの」
誠が何か言おうとした時、彼女はもう車へと歩いていた。
車のドアが静かに閉まり、エンジンが低く唸る。
車はゆっくりと動き出した。
砂利を踏む音が闇の中に吸い込まれていく。
誠は立ち尽くしていた。
冷えた夜気と、灰の降る音だけが世界を満たしている。
車の尾灯が遠ざかり、山道の向こうで見えなくなるまで、彼はただ見送っていた。
理央の最後の言葉が耳の奥で何度も反響する。
──“何とかしてみせる”。
それは慰めではなく、まるで“戦いの宣言”のようだった。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
だが同時に、ようやく実感が湧いてきた。
──自分は、誰かに「殺されかけた」のだ。
思考がそこに至った瞬間、全身が冷えた。
あの忍の目、奇妙な義手、静かに告げられた殺害の宣言。
ほんの数時間前まで、自分は普通の高校生で、日々の学業や部活に励んでいただけのはずなのに。
それが今や、命を狙われる側だ。
その現実が、理屈ではなく恐怖としてのしかかってくる。
誠は息を吐き、わずかに震える手をポケットに押し込んだ。
灰が肩に積もり、冷たさが染み込む。
どれだけ目をこすっても、この夜の静けさが幻には思えなかった。
屋敷の方を振り返る。
暗闇の中、古い瓦屋根がぼんやりと浮かび上がっている。
山風に軋む音が、どこか懐かしい。
──帰ろう。
独り言のように呟き、誠は石畳を踏みしめた。
足の痛みがまだ残っている。
だが不思議と、歩くたびに現実に戻っていく気がした。
門を抜けると、広い庭の向こうに母屋が見える。
古びた障子窓、剥がれた漆喰、軒下に吊られた風鈴。
かつて賑わっていたこの屋敷も、今はただの空洞だ。
灯りひとつない広間が、灰を受け止めるように沈黙している。
玄関へ辿り着く。
古い引き戸の取っ手を握ると、鉄のように冷たかった。
ギィ、と音を立てて戸を開ける。
中から乾いた空気が流れ出る。
誠はスイッチに手を伸ばし、照明を点けた。
蛍光灯が一拍遅れて光り、廊下に淡い白が広がる。
畳と古木の匂い──いつもと変わらない、自分の家の空気。
だが。
──何かがおかしい。
背筋を、冷たいものが這い上がった。
空気の密度が違う。
いつもは静まり返っているはずの屋敷に、何か“動いている気配”があった。
誰かが、いる。
理屈ではない。
足の裏から、呼吸のリズムから、確かにそれを感じ取った。
まるで、見えない誰かが廊下の向こうで息を潜めているような──そんな感覚。
誠は無意識に照明をもう一度見上げた。
光がわずかに揺らいでいる。
古い配線のせいかもしれない。
だが、今この瞬間、それが妙に“生き物の鼓動”のように見えた。
屋敷の奥から、かすかな音がした。
──畳を踏む、柔らかい足音。
誠は息を止めた。
灰が戸口から入り込み、廊下に舞う。
静寂が一瞬で張り詰め、時が止まる。
「おかえり、灰原君」
その声は──あまりに自然だった。
懐かしい響き。聞き慣れた調子。
けれど、こんな夜に、こんな場所で聞こえるはずのない声。
誠は思わず振り返った。
廊下の奥、淡い蛍光灯の下に、ひとりの少女が立っていた。
長い髪を肩で束ね、制服の上から薄いカーディガンを羽織っている。
学校で何度も見た──文芸部の先輩、藍沢紗月だった。
「……藍沢、先輩?」
声が震えた。
驚きというより、理解が追いつかない。
なぜ、彼女がここにいる?
どうやって、山奥のこの屋敷に──。
紗月は柔らかく微笑んだ。
だが、その笑みはどこか“違っていた”。
部室で見せる穏やかで少し抜けた笑顔ではない。
目元に、冷たい光が宿っている。
笑っているのに、まるで感情が削ぎ落とされたような──そんな目。
「どうしたんだい? そんな顔して」
彼女は廊下の影から一歩踏み出した。
「ま、待ってください。なんで先輩が……ここに? 帰ったんじゃ……」
誠の声は掠れていた。
自分の屋敷に“人がいる”という違和感に、頭が追いつかない。
「まあね。君に用があって、会いにきたんだ」
その言葉に、誠は一歩、後ずさった。
“用がある”──その言い方が、まるで理央の“警告”と繋がるようで、背筋が粟立つ。
灰が開け放たれた戸口から流れ込み、紗月の肩や髪に積もる。
その光景が妙に静かで、現実感を奪っていく。
「……用って、なんですか」
紗月は答えなかった。
ただ、ゆっくりと顔を上げ、誠を見つめた。
その瞳の奥──光が、ない。
いつもの温かさも、いたずらっぽい冗談めいた色も。
そこにあるのは、鏡のような無機質な冷たさ。
そして──彼女の唇が、わずかに動いた。
「黒野理央に会ったんだよね、何か言われた?」
心臓が、跳ねた。
名前を出された瞬間、息が止まる。
どうして、彼女のことを知っている?
まるで全てを見透かしているような、その声音に、誠は声を失った。
紗月はそんな誠を見て、ほんのわずかに微笑んだ。
「灰原君のお爺さんの事とか、この灰の事とか」
「な、何の話を……」
問いを最後まで言い切る前に──
──ドンッ!
屋敷の外、遠く山の麓の方角で、重低音が響いた。
空気が一瞬震える。
腹の底にまで届くような爆音。
誠は思わず振り向いた。
遠くの山肌が、一瞬だけ赤く染まる。
火の手──いや、爆発の閃光。
「な、何だ今の……!?」
息を呑んで振り返ると、紗月は静かにその光を見つめていた。
恐怖の色は一切ない。
「……黒野理央には、もう邪魔させないよ」
藍沢紗月はそう呟いた。
その声音は、まるで祈りにも似ていた。
だが、その目は冷たい──氷のように、感情という温度を失っていた。
誠が言葉を発するより早く、
紗月の足元が──音もなく、滑るように動いた。
「……っ!」
一瞬だった。
人の動きではなかった。
廊下の空気が引き裂かれたような音と共に、
藍沢の姿が視界から“消えた”。
次の瞬間、誠の眼前──
距離にして数十センチの位置に、彼女の顔があった。
その瞳が、光を殺していた。
生きているはずなのに、死人のような目。
「ごめんね、灰原君」
微笑んだ。
まるで、優しく別れを告げるように。
そして──銀光が閃いた。
「──ッ……!?」
鈍い衝撃。
温かいものが腹の奥で破裂した。
見下ろすと、紗月の手に握られたナイフが、
誠の腹部に深々と突き刺さっていた。
「が、ぁ……ッ!!」
息が、出ない。
喉の奥から空気が漏れる音がした。
痛みが、熱として広がる。
焼けた鉄を押し込まれたような感覚。
足元が揺れる。
藍沢の顔が、滲んで見えた。
「どうして……先輩……」
その問いに、彼女は答えない。
ただ、静かに刃を引き抜いた。
肉の裂ける音と共に、誠の体から温かいものが零れ落ちる。
畳に血が散り、灰と混ざる。
紅と白の粒子が、灯りの下でゆっくりと沈んでいく。
「恨むなら、君の御爺様を恨んでね」
低く囁いた。
その声は優しかった──だが、慈悲はなかった。
誠はその言葉の意味を理解できぬまま、
反射的に藍沢を突き飛ばしていた。
「くっ……!」
腹を押さえながら、ふらつく足で玄関へと駆ける。
視界が揺れる。
鼓動が、耳の中で爆音のように響いている。
灰が吹き込む。
外の空気が痛い。
夜の冷気が傷口を刺すようだった。
背後で、藍沢の靴音が近づく。
ゆっくりと──逃げ場を追い詰めるように。
「待って。そんなに遠くへは行けないよ、灰原君」
声が、妙に穏やかだった。
だがその静けさが、逆に恐ろしい。
誠は玄関の段差を飛び越え、庭へ転がり出た。
灰に覆われた地面が、冷たい。
痛みが一気に波のように押し寄せる。
「っ……あ……!」
喉から漏れるのは声ではなく、呻き。
意識が白く滲む。
遠くで──再び爆発音が響いた。
山の向こう、夜空が赤く染まる。
灰が火の粉のように舞い上がる。
その光景を、誠はぼんやりと見上げた。
耳鳴りの中、血の滴る音だけが現実を繋ぎ止めている。
屋敷の玄関の影。
そこに立つ藍沢紗月の姿が、揺らめく灰の中で幻のように見えた。
彼女のナイフが、赤く濡れている。
「お腹なんて、中途半端に刺してごめんね。ちゃんと、苦しくないようにするから」
紗月の呟きが、夜気に溶けた。
誠の視界が、ゆっくりと傾ぐ。
地面が遠ざかる。
灰が、雪のように降る。