Fate/You Died.   作:助兵衛

3 / 30
第3話 鋼の感覚

 灰の降りしきる夜の校舎──

 理央はしばらく廊下の奥を見つめていたが、やがて静かに踵を返した。

 制服の裾がわずかに揺れ、灰が淡く舞う。

 

「……立てる?」

 

 その問いかけは淡々としていたが、不思議と命令のような力を持っていた。

 誠は壁に手をつきながら、ゆっくりと体を起こす。

 痛みが走るたびに呼吸が詰まるが、理央が肩を貸してくれると、なぜか足の痛みよりも胸の鼓動の方が気になった。

 

 彼女の肩越しに見る夜の廊下は、異様なほど静まり返っていた。

 さっきまでの惨劇が嘘のように、灰だけが絶えず降り注いでいる。

 足跡を残すたび、床がかすかに軋む。

 

「どこへ……行くんだ?」

 

 やっとの思いで口を開いた誠の問いに、理央は答えなかった。

 その代わり、彼の体を支えながら淡々と歩を進める。

 階段を下りるたび、灰が光を反射して、まるで二人が別世界を歩いているようだった。

 

 昇降口を抜け、夜風が吹き込む。

 外は灰が雪のように降り積もり、校庭の隅々まで白く染め上げていた。

 その静寂を破るように、エンジン音がひとつ──

 校門の前、黒塗りの車が一台、ヘッドライトを落として待機していた。

 

 理央は支えたまま誠を車まで導く。

 ドアが自動的に開き、運転席には黒いスーツの男が無言で頭を下げた。

 彼の瞳には感情の欠片すらない。

 

「乗って。家まで送るわ」

 

 理央がそう言っても、誠の頭は混乱で満ちていた。

 さっきの忍、騎士、そして彼女の異様な冷静さ──

 すべてが現実味を失っていた。

 

「……黒野、さっきのは何なんだ? あの人……お前、いったい……」

 

 質問が途切れる。

 理央はただ誠の目を見つめた。

 その瞳は、どこまでも深く、暗く──まるで灰色の海の底。

 

「今は何も聞かないで」

 

 淡々とした声だった。

 けれどその口調の奥に、わずかな焦燥が混じっていた。

 

「家に帰ったらすぐ荷物をまとめて。今夜のうちに、この街を出なさい。……少なくとも、数か月は戻ってきてはだめ」

 

 誠は唖然とした。

 その言葉の意味を理解できず、ただ理央の横顔を見つめる。

 非常灯に照らされたその顔は、まるで別の誰か──

 人ではない何かを見ているような、遠い目をしていた。

 

「どういう……ことなんだよ。俺、何もしてないのに──」

 

 理央は答えない。

 ただ誠の手をそっと押し返し、車の中へ促した。

 

 その仕草に、有無を言わせぬ気配があった。

 誠はもう抵抗できず、車のシートに身を沈める。

 

 車内は静寂に包まれていた。

 重く閉じたドアが、外の灰を遮断する。

 淡い照明が天井に灯り、誠の顔を柔らかく照らしていた。

 

 黒塗りの車がゆっくりと校門を抜ける。

 ヘッドライトを落としたまま、それでも道筋を迷わない。

 運転席の男は無言のままハンドルを握り、後部座席では理央が誠の隣に座っていた。

 

 窓の外──

 灰が降り続けている。

 街灯もほとんど消え、夜の街は廃墟のように沈んでいた。

 ビルの影が灰に覆われ、世界そのものがゆっくりと死んでいくようだった。

 

 誠はぼんやりと外を見つめていた。

 理央の言葉が何度も頭の中を反芻する。

 

 ──今夜のうちに、この街を出なさい。

 

 なぜ。

 どうして。

 あの忍は何者で、なぜ自分が狙われたのか。

 問いが胸の中で渦を巻くが、口に出すことができなかった。

 理央の横顔を見た瞬間、言葉が喉の奥で凍りついた。

 

 彼女は窓の外を見ていた。

 灰の降る景色に視線を投げながら、何かを計算するように目を細めている。

 その表情は、冷たくも悲しげだった。

 まるでこの夜の全てを、すでに知っているかのように。

 

「……山道になるわね」

 

 理央が小さく呟く。

 運転手が頷き、車はゆっくりと街の外れへ進む。

 

 窓の外の景色が変わる。

 住宅街が途切れ、古びた石垣と林が続く。

 灰が濃くなり、まるで霧のように世界を覆っていく。

 

 やがて、舗装された道路が終わり、未舗装の細道へ。

 街の光が完全に消え、車の中だけが現実の名残を保っていた。

 

 理央が口を開く。

 

「灰原くん、あなたの家……ご両親は?」

 

「……いないよ。今は俺一人だ」

 

 誠の声にはどこか照れと寂しさが混じっていた。

 理央はわずかに頷くだけで、何も言わなかった。

 けれどその沈黙には、ほんの僅かな“覚悟”のような重みがあった。

 

 車が林を抜け、視界が開ける。

 夜霧と灰の帳の向こうに、黒い影のような屋敷が現れた。

 

 瓦屋根はところどころ崩れ、蔦が石垣を覆っている。

 しかし、その佇まいはなお荘厳だった。

 広い庭には枯れ木が並び、灯りのない縁側が静かに月光を反射している。

 

 ──灰原家。

 

 かつてこの町の礎を築いた名家。

 だが、今はもう人の記憶から遠ざかり、ただ「廃れた旧家」として残っている。

 

 車が砂利を踏みしめて止まった。

 灰がライトに照らされ、粉雪のように舞う。

 

「着いたわ」

 

 理央の声に促され、誠はゆっくりと顔を上げた。

 窓の外、古びた屋敷が闇の中に沈んでいる。

 懐かしいはずの光景なのに──どこか異様に冷たく見えた。

 

 外壁を伝う蔦の間に、黒ずんだ家紋が覗いている。

 祖父の代までこの町を治めていた証。

 だが今、その誇りは灰に埋もれている。

 

 理央は静かに言った。

 

「足は、もう大丈夫?」

 

「……ああ。なんとか、歩けると思う」

 

 誠は短く答え、ドアノブに手をかけた。

 車の中の暖かさが、外の冷気に押し流されていく。

 

 外に出ると、夜風が頬を打った。

 灰がしんしんと降り続けている。

 その降り方はあまりに静かで──まるで世界の終わりの雪のようだった。

 

 理央も車を降りた。

 彼女の黒髪に灰が積もり、淡く光る。

 その姿は、灯りのない庭の中でひどく儚く見えた。

 

「ありがとう、黒野。送ってもらって……助かった。あの変な奴からも、守ってくれて」

 

 誠はそう言いながら、頭を下げた。

 けれど、心のどこかで引っかかっている。

 

 ──どうして、彼女は自分の家を知っている? 

 

 この屋敷の場所を、クラスの誰かに話したことなど一度もない。

 それどころか、町の人間でさえ、道を知らないほどだ。

 聞こうと口を開きかけたが、理央の視線に遮られた。

 

 彼女はまっすぐに誠を見ていた。

 その瞳には、ためらいも迷いもなかった。

 

「心配しないで」

 

 彼女の声は、灰の降る音よりも静かだった。

 

「君がこの街を出るまでは──何とかしてみせるから」

 

 その言葉は、慰めのようでいて、祈りのようでもあった。

 そして、どこか決意にも似た響きを帯びていた。

 

「黒野……それ、どういう──」

 

 問いかけを最後まで言う前に、理央は軽く首を振った。

 

「いいの。もう、帰って。すぐに荷物を纏めて、街を出るの」

 

 誠が何か言おうとした時、彼女はもう車へと歩いていた。

 車のドアが静かに閉まり、エンジンが低く唸る。

 

 車はゆっくりと動き出した。

 砂利を踏む音が闇の中に吸い込まれていく。

 

 誠は立ち尽くしていた。

 冷えた夜気と、灰の降る音だけが世界を満たしている。

 車の尾灯が遠ざかり、山道の向こうで見えなくなるまで、彼はただ見送っていた。

 

 理央の最後の言葉が耳の奥で何度も反響する。

 ──“何とかしてみせる”。

 それは慰めではなく、まるで“戦いの宣言”のようだった。

 

 胸の奥が、じわりと熱くなる。

 だが同時に、ようやく実感が湧いてきた。

 ──自分は、誰かに「殺されかけた」のだ。

 

 思考がそこに至った瞬間、全身が冷えた。

 あの忍の目、奇妙な義手、静かに告げられた殺害の宣言。

 ほんの数時間前まで、自分は普通の高校生で、日々の学業や部活に励んでいただけのはずなのに。

 それが今や、命を狙われる側だ。

 その現実が、理屈ではなく恐怖としてのしかかってくる。

 

 誠は息を吐き、わずかに震える手をポケットに押し込んだ。

 灰が肩に積もり、冷たさが染み込む。

 どれだけ目をこすっても、この夜の静けさが幻には思えなかった。

 

 屋敷の方を振り返る。

 暗闇の中、古い瓦屋根がぼんやりと浮かび上がっている。

 山風に軋む音が、どこか懐かしい。

 

 ──帰ろう。

 

 独り言のように呟き、誠は石畳を踏みしめた。

 足の痛みがまだ残っている。

 だが不思議と、歩くたびに現実に戻っていく気がした。

 

 門を抜けると、広い庭の向こうに母屋が見える。

 古びた障子窓、剥がれた漆喰、軒下に吊られた風鈴。

 かつて賑わっていたこの屋敷も、今はただの空洞だ。

 灯りひとつない広間が、灰を受け止めるように沈黙している。

 

 玄関へ辿り着く。

 古い引き戸の取っ手を握ると、鉄のように冷たかった。

 ギィ、と音を立てて戸を開ける。

 中から乾いた空気が流れ出る。

 

 誠はスイッチに手を伸ばし、照明を点けた。

 蛍光灯が一拍遅れて光り、廊下に淡い白が広がる。

 畳と古木の匂い──いつもと変わらない、自分の家の空気。

 

 だが。

 

 ──何かがおかしい。

 

 背筋を、冷たいものが這い上がった。

 空気の密度が違う。

 いつもは静まり返っているはずの屋敷に、何か“動いている気配”があった。

 

 誰かが、いる。

 

 理屈ではない。

 足の裏から、呼吸のリズムから、確かにそれを感じ取った。

 まるで、見えない誰かが廊下の向こうで息を潜めているような──そんな感覚。

 

 誠は無意識に照明をもう一度見上げた。

 光がわずかに揺らいでいる。

 古い配線のせいかもしれない。

 だが、今この瞬間、それが妙に“生き物の鼓動”のように見えた。

 

 屋敷の奥から、かすかな音がした。

 ──畳を踏む、柔らかい足音。

 

 誠は息を止めた。

 灰が戸口から入り込み、廊下に舞う。

 静寂が一瞬で張り詰め、時が止まる。

 

「おかえり、灰原君」

 

 その声は──あまりに自然だった。

 懐かしい響き。聞き慣れた調子。

 けれど、こんな夜に、こんな場所で聞こえるはずのない声。

 

 誠は思わず振り返った。

 

 廊下の奥、淡い蛍光灯の下に、ひとりの少女が立っていた。

 長い髪を肩で束ね、制服の上から薄いカーディガンを羽織っている。

 学校で何度も見た──文芸部の先輩、藍沢紗月だった。

 

「……藍沢、先輩?」

 

 声が震えた。

 驚きというより、理解が追いつかない。

 なぜ、彼女がここにいる? 

 どうやって、山奥のこの屋敷に──。

 

 紗月は柔らかく微笑んだ。

 だが、その笑みはどこか“違っていた”。

 部室で見せる穏やかで少し抜けた笑顔ではない。

 目元に、冷たい光が宿っている。

 笑っているのに、まるで感情が削ぎ落とされたような──そんな目。

 

「どうしたんだい? そんな顔して」

 

 彼女は廊下の影から一歩踏み出した。

 

「ま、待ってください。なんで先輩が……ここに? 帰ったんじゃ……」

 

 誠の声は掠れていた。

 自分の屋敷に“人がいる”という違和感に、頭が追いつかない。

 

「まあね。君に用があって、会いにきたんだ」

 

 その言葉に、誠は一歩、後ずさった。

 “用がある”──その言い方が、まるで理央の“警告”と繋がるようで、背筋が粟立つ。

 

 灰が開け放たれた戸口から流れ込み、紗月の肩や髪に積もる。

 その光景が妙に静かで、現実感を奪っていく。

 

「……用って、なんですか」

 

 紗月は答えなかった。

 ただ、ゆっくりと顔を上げ、誠を見つめた。

 その瞳の奥──光が、ない。

 いつもの温かさも、いたずらっぽい冗談めいた色も。

 そこにあるのは、鏡のような無機質な冷たさ。

 

 そして──彼女の唇が、わずかに動いた。

 

「黒野理央に会ったんだよね、何か言われた?」

 

 心臓が、跳ねた。

 名前を出された瞬間、息が止まる。

 どうして、彼女のことを知っている? 

 まるで全てを見透かしているような、その声音に、誠は声を失った。

 

 紗月はそんな誠を見て、ほんのわずかに微笑んだ。

 

「灰原君のお爺さんの事とか、この灰の事とか」

 

「な、何の話を……」

 

 問いを最後まで言い切る前に──

 

 ──ドンッ! 

 

 屋敷の外、遠く山の麓の方角で、重低音が響いた。

 空気が一瞬震える。

 腹の底にまで届くような爆音。

 

 誠は思わず振り向いた。

 遠くの山肌が、一瞬だけ赤く染まる。

 火の手──いや、爆発の閃光。

 

「な、何だ今の……!?」

 

 息を呑んで振り返ると、紗月は静かにその光を見つめていた。

 恐怖の色は一切ない。

 

「……黒野理央には、もう邪魔させないよ」

 

 藍沢紗月はそう呟いた。

 その声音は、まるで祈りにも似ていた。

 だが、その目は冷たい──氷のように、感情という温度を失っていた。

 

 誠が言葉を発するより早く、

 紗月の足元が──音もなく、滑るように動いた。

 

「……っ!」

 

 一瞬だった。

 人の動きではなかった。

 廊下の空気が引き裂かれたような音と共に、

 藍沢の姿が視界から“消えた”。

 

 次の瞬間、誠の眼前──

 距離にして数十センチの位置に、彼女の顔があった。

 

 その瞳が、光を殺していた。

 生きているはずなのに、死人のような目。

 

「ごめんね、灰原君」

 

 微笑んだ。

 まるで、優しく別れを告げるように。

 

 そして──銀光が閃いた。

 

「──ッ……!?」

 

 鈍い衝撃。

 温かいものが腹の奥で破裂した。

 見下ろすと、紗月の手に握られたナイフが、

 誠の腹部に深々と突き刺さっていた。

 

「が、ぁ……ッ!!」

 

 息が、出ない。

 喉の奥から空気が漏れる音がした。

 痛みが、熱として広がる。

 焼けた鉄を押し込まれたような感覚。

 足元が揺れる。

 

 藍沢の顔が、滲んで見えた。

 

「どうして……先輩……」

 

 その問いに、彼女は答えない。

 ただ、静かに刃を引き抜いた。

 肉の裂ける音と共に、誠の体から温かいものが零れ落ちる。

 

 畳に血が散り、灰と混ざる。

 紅と白の粒子が、灯りの下でゆっくりと沈んでいく。

 

「恨むなら、君の御爺様を恨んでね」

 

 低く囁いた。

 その声は優しかった──だが、慈悲はなかった。

 

 誠はその言葉の意味を理解できぬまま、

 反射的に藍沢を突き飛ばしていた。

 

「くっ……!」

 

 腹を押さえながら、ふらつく足で玄関へと駆ける。

 視界が揺れる。

 鼓動が、耳の中で爆音のように響いている。

 

 灰が吹き込む。

 外の空気が痛い。

 夜の冷気が傷口を刺すようだった。

 

 背後で、藍沢の靴音が近づく。

 ゆっくりと──逃げ場を追い詰めるように。

 

「待って。そんなに遠くへは行けないよ、灰原君」

 

 声が、妙に穏やかだった。

 だがその静けさが、逆に恐ろしい。

 

 誠は玄関の段差を飛び越え、庭へ転がり出た。

 灰に覆われた地面が、冷たい。

 痛みが一気に波のように押し寄せる。

 

「っ……あ……!」

 

 喉から漏れるのは声ではなく、呻き。

 意識が白く滲む。

 

 遠くで──再び爆発音が響いた。

 山の向こう、夜空が赤く染まる。

 灰が火の粉のように舞い上がる。

 

 その光景を、誠はぼんやりと見上げた。

 耳鳴りの中、血の滴る音だけが現実を繋ぎ止めている。

 

 屋敷の玄関の影。

 そこに立つ藍沢紗月の姿が、揺らめく灰の中で幻のように見えた。

 彼女のナイフが、赤く濡れている。

 

「お腹なんて、中途半端に刺してごめんね。ちゃんと、苦しくないようにするから」

 

 紗月の呟きが、夜気に溶けた。

 

 誠の視界が、ゆっくりと傾ぐ。

 地面が遠ざかる。

 灰が、雪のように降る。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。