Fate/You Died.   作:助兵衛

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第2話 暗闇の刺客

「──密命により、御命、頂戴する」

 

 その声は、廊下の闇の底から這い上がるように響いた。

 誠の背筋を、冷たいものが走る。

 振り返った先──非常灯の淡い光に浮かび上がったのは、ひとりの男だった。

 

 肩に外套を羽織り、布で顔を半ば覆っている。

 古びた忍装束のような衣服。

 左腕は義手で、関節が光を鈍く反射していた。

 右手には、鞘走りかけた刀。

 

「……なに、言ってるんですか」

 

 声を絞り出すのがやっとだった。

 男は答えず、一歩、静かに前へ出る。

 その動きには人間味というものが欠けていた。

 音を立てず、影のように滑る──まるで“歩く”という行為そのものを忘れた何か。

 

 誠は本能的に後ずさった。

 旧館の廊下は狭く、逃げ場がない。

 背中に冷たい壁が触れたとき、男の義手がわずかに鳴った。

 金属が軋む、鈍い音。

 

「い、いきなり何ですか!? 警察を、呼びますよ!」

 

 声が震えていた。

 男は答えない。

 かわりに──刀を抜いた。

 

 “シン”という金属音が、灰の満ちた廊下に響き渡る。

 それは鋭いというより、まるで祈りのように静かだった。

 

「──すまぬ」

 

 返答する前に、男の姿が掻き消えた。

 次の瞬間、誠の目の前に閃光が走る。

 

 反射的に身をよじる。

 頬を掠めた風が熱い。

 壁に貼られた掲示が、音もなく真っ二つに裂けて床に落ちた。

 

「うわっ……!」

 

 誠は叫びながら後退した。

 男は既に間合いを詰めている。

 刃の切っ先が、まるで心臓の鼓動を狙うかのようにわずかに揺れた。

 

「お主に非は一切ない。だが──死んでもらわなければならない」

 

「──すまぬ」

 

 低く囁くその声が、妙に優しい。

 まるで死を勧める僧侶のような響きだった。

 

 誠は机を蹴り倒し、身を翻した。

 椅子が転がり、床を滑る。

 刀が空を切り、金属音が夜気を裂いた。

 

 廊下の奥へ走る。

 息が切れる。

 心臓が喉の奥で跳ねた。

 

 非常灯の間隔が遠く、足元が見えない。

 背後で足音が一つ──いや、違う。

 あれは足音ではない。

 滑るように移動する音。

 

 男が追ってくる。

 

 その瞬間、空気を切り裂く金属音。

 “ヒュッ”と短い風の音が耳を掠め──

 

「ッ、ぐ……!」

 

 右足に鋭い衝撃。

 倒れ込むように床に手をつく。

 視線を落とすと、足首のすぐ上に黒い手裏剣が突き刺さっていた。

 焼けるような痛みが走る。

 

 息を吸うたび、肺が焼けたように熱い。

 

 背後から、ゆっくりと足音が近づいてくる。

 今度は、確かに“歩く音”だった。

 金属と布が擦れる、鈍く静かな音。

 

「……」

 

 義手の指が軋み、刀を持つ手がわずかに沈む。

 廊下の白い光が刃に反射し、誠の頬に線を描いた。

 

 忍は一歩、誠との距離を詰めた。

 その動作は、まるで時間がねじれたかのように滑らかだった。

 刃が、月光のように鈍く光る。

 

「……悪く思うな」

 

 そう言って、忍は刀を振り上げた。

 切っ先が、灰を割り、空気を裂く。

 誠は動けない。

 足に突き刺さった手裏剣が、わずかに軋み、激痛が全身を縫い止めていた。

 

 世界が、ゆっくりと傾ぐ。

 刃が、落ちてくる。

 死が、形をもって迫る。

 

 ──その瞬間だった。

 

 鈍い衝撃音。

 風が逆流するような轟き。

 

「……ッ!?」

 

 忍の身体が、横合いから何かに弾き飛ばされた。

 壁に激突し、古びた木材が軋む。

 

 誠は思わず顔を上げる。

 

 そこに──彼女がいた。

 

 廊下の中央、淡い非常灯の光の中に、

 黒野理央が、静かに立っていた。

 

 制服の袖口に、灰がふわりと積もる。

 その灰が舞い上がるたびに、彼女の輪郭が一瞬、揺らぐ。

 まるで現実に立つ影ではなく、何か別の“層”に存在する幻のようだった。

 

 彼女の髪が、ゆっくりと宙に揺れる。

 灰の降る光がそれを照らし、夜気の中で淡く煌めいた。

 不気味で、美しい──

 世界が静止したような、凍りつく光景。

 

 理央の瞳が、ほんのわずかに動いた。

 彼女は誠を見た。

 その目は、冷たく、それでいて底の見えない深さをたたえていた。

 

 忍は、壁に叩きつけられた衝撃をものともせず、静かに体勢を立て直した。

 わずかに膝を曲げ、重心を低く落とす。

 左腕の義手が軋む音が、灰の舞う廊下に鈍く響いた。

 

 その瞳には、動揺の色は一切ない。

 ただ、目の前の少女──黒野理央を、獣のような警戒心で見据えていた。

 

 刀を握る右手が、わずかに揺れる。

 だが、すぐには踏み込まない。

 誠との距離を測るように一歩退き、二人の間に一定の間隔を保った。

 彼の動きは、長年の戦いで染みついた“殺気の制御”そのものだった。

 

「……縄張りの見回りか」

 

 忍の低い声が、灰の中でかすかに震える。

 理央は答えない。

 彼女の周囲だけ、空気が濃く沈み込んでいるようだった。

 

 誠は床に崩れたまま、その光景を見ていた。

 恐怖と痛みが混じり合い、喉の奥が焼けつく。

 灰の匂い、金属の冷気、静寂。

 すべてが異様に澄みすぎている。

 

 忍は一歩、足を滑らせるように横へ動いた。

 間合いを測りながら、理央と誠の両方を視界に収めている。

 完全に、警戒していた。

 この少女が何者なのか──理解できぬが、“敵”と見做していた。

 

 理央は、何も言わず、ただ静かにその視線を受け止めていた。

 非常灯の光を受け、彼女の瞳がわずかに揺らめく。

 長い睫毛の下で、淡い光がきらめき、

 その表情は、まるで感情のない人形のように整っていた。

 

 やがて、彼女はほんの少しだけ顎を傾けた。

 その仕草は、誰かに“合図”を送るような自然さだった。

 

 ──背後。

 

 誠の位置からでは見えないが、忍の鋭い感覚がそれを捉えた。

 理央の背後の闇──非常灯の光が届かない階段の影。

 そこに、“何か”がいる。

 

 気配があった。

 空気がわずかに震える。

 人間ではない。

 そう悟った瞬間、忍の義手がわずかに鳴った。

 

 理央はようやく、微笑んだ。

 その笑みは、どこか現実離れしていて、

 灰の光に照らされた頬が、まるで透けるように淡く光っていた。

 

「──セイバー、彼の相手は任せたわ」

 

 その言葉が落ちた瞬間、廊下の空気が変わった。

 冷たく、硬質なものが満ちる。

 灰が舞う軌跡の中に、青白い光の線が走った。

 

 次の瞬間──階段の影から、重い足音が響いた。

 “ギィン、ギィン”と金属が軋む音。

 それはまるで、遠い昔に錆びついた鎧が、再び目を覚ますような音だった。

 

 非常灯の淡い光に照らされながら、

 煤けた鋼の鎧に身を包んだ男が、闇の中から姿を現す。

 フルプレートの表面には、無数の傷と焼け跡。

 それでも彼の立ち姿には、一分の隙もなかった。

 

 左手には、灰の降り積もる中でも鈍く光を返す盾。

 右手には、使い込まれたロングソード。

 剣身には乾いた血のような黒ずみがこびりつき、

 彼の歩みに合わせて、刃がわずかに低く唸った。

 

 その騎士は、理央を一瞥したのち、

 何の言葉も発せずに誠の前へと進み出た。

 床を踏みしめるたびに、灰が小さく舞い上がる。

 やがて誠と忍の間に立つと、

 盾を正面に構え、剣先をゆっくりと上げた。

 

 ──守るための構え。

 

 忍の片目が細められる。

 刃を構え直しながら、低く呟く。

 

「セイバー……最優の騎士」

 

 義手の指先が軋み、刀が光を返す。

 灰の降る廊下の中で、

 二人の戦士の呼吸が重なった。

 

 誠は床に倒れたまま、ただ見ていることしかできなかった。

 現実が遠ざかっていく。

 視界の中で、騎士の背が圧倒的な壁のように広がり、

 その後ろで理央は、静かに見守っている。

 

 灰の帳を背景に、忍と騎士が対峙する。

 誰も動かない。

 だが、空気が鳴っている。

 世界そのものが、この一瞬のために呼吸を止めていた。

 

 忍がゆっくりと息を吸う。

 刀をわずかに傾け、義手の金属が“キィ”と鳴る。

 

 沈黙を裂いたのは、鋼が空気を切る音だった。

 

 騎士が動いた。

 床を蹴る音すらなく、一閃。

 重厚な甲冑の質量が信じられない速度で躍動し、

 灰を巻き上げながら一直線に忍へと斬り込む。

 

「──ッ!」

 

 忍の目が細まり、義手が瞬時に展開した。

 金属の軋みとともに、腕から円形の装置が弾けるように開く。

 傘──だが、それは布ではなく、鋼。

 幾重にも重なった刃のような板金が、黒い花のように咲き広がる。

 

 騎士の剣がその鋼傘に叩きつけられた瞬間、

 廊下全体が震えた。

 金属と金属がぶつかる重音。

 灰が爆ぜるように舞い上がり、光を失った蛍の群れのように散る。

 

 だが──それで終わらない。

 

 鋼傘の表面から、黒い霧が滲み出した。

 まるで液体の影が蒸発するように、形を変え、膨張する。

 剣を包み込み、その軌道を鈍らせた。

 灰を溶かし、光を飲み込むその闇は、

 まるで“この世の物理”そのものを否定しているようだった。

 

「面妖な技を使う」

 

 低い声が、兜の内から響く。

 

 忍は何も答えない。

 その姿はすでに、輪郭を保っていなかった。

 鋼傘を中心に、黒い靄が生まれ、膨れ上がり、

 やがて人の形を崩していく。

 

 黒。

 ただそれだけの色。

 質量も、音も、温度もなく、

 “存在”という概念だけを残して溶けていく。

 

 騎士が一歩踏み込む。

 霧の中心を貫くように剣を振り下ろした。

 灰と影が弾け、衝撃波が廊下を駆け抜ける。

 壁が裂け、窓ガラスが共鳴音を立てて軋む。

 

 だが──そこにはもう、誰もいなかった。

 

 霧が揺れ、溶け、

 跡形もなく消え失せていた。

 

 残ったのは、ひとつの黒い羽のような残滓。

 

 理央の髪が、静かに揺れる。

 その瞳がわずかに細められ、息のような声がこぼれた。

 

「……逃げたのね。忍びらしいわ」

 

 理央は一瞬だけ静かに目を閉じた。

 長い睫毛の影が頬に落ち、灰の中でゆらりと揺れる。

 すぐに瞼を上げると、澄んだ声が空気を割いた。

 

「セイバー。周囲を見回って。どこの陣営か分からないけれど、これで終わるとは思えないわ」

 

 その命令に応じて、騎士は無言のまま頷いた。

 重厚な鎧が微かに鳴る。

 彼は剣を下ろし、盾を構えたまま廊下の奥へと歩き出した。

 灰が足跡を包み、金属の音がゆっくりと遠ざかっていく。

 

 理央はその背を見送りながら、ふっと息をついた。

 空気がわずかに柔らぐ。

 そして、彼女は静かに膝を折り、誠の傍らに腰を下ろした。

 

「……大丈夫?」

 

 その声は、いつもの教室で聞くよりもずっと柔らかかった。

 誠が戸惑いに息を詰めている間に、理央は手を伸ばした。

 白い指が器用に動き、制服のポケットから取り出したのは、小さな包帯と消毒液の瓶。

 まるでそれを常に持ち歩いているかのような、慣れた手つき。

 

 彼女は何も言わず、誠の足首に刺さった手裏剣を見つめた。

 淡い灰の光が彼女の横顔を照らす。

 その表情は冷静で、まるで感情を封じた外科医のようだった。

 

「少し痛いけど、我慢して」

 

 短く言い残し、理央は手裏剣の根元に指をかけた。

 次の瞬間──素早く、迷いなく引き抜く。

 

「──ッ……!」

 

 誠が声を上げるより早く、理央は手早く消毒液をかけ、包帯を巻き始めた。

 その動きは流れるようで、どこにも無駄がない。

 指先に触れるたび、彼女の体温がかすかに伝わる。

 

 だが不思議と、冷たさは感じなかった。

 むしろ──落ち着くような静けさがあった。

 

 理央は包帯の端を結びながら、ふと顔を上げた。

 非常灯の明かりを受けて、瞳がかすかに光る。

 

「手裏剣……風魔小太郎か服部半蔵かしら? 貴方も災難だったわね」

 

 その言葉は冷たいようで、どこかに微かな優しさがあった。

 

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