「──密命により、御命、頂戴する」
その声は、廊下の闇の底から這い上がるように響いた。
誠の背筋を、冷たいものが走る。
振り返った先──非常灯の淡い光に浮かび上がったのは、ひとりの男だった。
肩に外套を羽織り、布で顔を半ば覆っている。
古びた忍装束のような衣服。
左腕は義手で、関節が光を鈍く反射していた。
右手には、鞘走りかけた刀。
「……なに、言ってるんですか」
声を絞り出すのがやっとだった。
男は答えず、一歩、静かに前へ出る。
その動きには人間味というものが欠けていた。
音を立てず、影のように滑る──まるで“歩く”という行為そのものを忘れた何か。
誠は本能的に後ずさった。
旧館の廊下は狭く、逃げ場がない。
背中に冷たい壁が触れたとき、男の義手がわずかに鳴った。
金属が軋む、鈍い音。
「い、いきなり何ですか!? 警察を、呼びますよ!」
声が震えていた。
男は答えない。
かわりに──刀を抜いた。
“シン”という金属音が、灰の満ちた廊下に響き渡る。
それは鋭いというより、まるで祈りのように静かだった。
「──すまぬ」
返答する前に、男の姿が掻き消えた。
次の瞬間、誠の目の前に閃光が走る。
反射的に身をよじる。
頬を掠めた風が熱い。
壁に貼られた掲示が、音もなく真っ二つに裂けて床に落ちた。
「うわっ……!」
誠は叫びながら後退した。
男は既に間合いを詰めている。
刃の切っ先が、まるで心臓の鼓動を狙うかのようにわずかに揺れた。
「お主に非は一切ない。だが──死んでもらわなければならない」
「──すまぬ」
低く囁くその声が、妙に優しい。
まるで死を勧める僧侶のような響きだった。
誠は机を蹴り倒し、身を翻した。
椅子が転がり、床を滑る。
刀が空を切り、金属音が夜気を裂いた。
廊下の奥へ走る。
息が切れる。
心臓が喉の奥で跳ねた。
非常灯の間隔が遠く、足元が見えない。
背後で足音が一つ──いや、違う。
あれは足音ではない。
滑るように移動する音。
男が追ってくる。
その瞬間、空気を切り裂く金属音。
“ヒュッ”と短い風の音が耳を掠め──
「ッ、ぐ……!」
右足に鋭い衝撃。
倒れ込むように床に手をつく。
視線を落とすと、足首のすぐ上に黒い手裏剣が突き刺さっていた。
焼けるような痛みが走る。
息を吸うたび、肺が焼けたように熱い。
背後から、ゆっくりと足音が近づいてくる。
今度は、確かに“歩く音”だった。
金属と布が擦れる、鈍く静かな音。
「……」
義手の指が軋み、刀を持つ手がわずかに沈む。
廊下の白い光が刃に反射し、誠の頬に線を描いた。
忍は一歩、誠との距離を詰めた。
その動作は、まるで時間がねじれたかのように滑らかだった。
刃が、月光のように鈍く光る。
「……悪く思うな」
そう言って、忍は刀を振り上げた。
切っ先が、灰を割り、空気を裂く。
誠は動けない。
足に突き刺さった手裏剣が、わずかに軋み、激痛が全身を縫い止めていた。
世界が、ゆっくりと傾ぐ。
刃が、落ちてくる。
死が、形をもって迫る。
──その瞬間だった。
鈍い衝撃音。
風が逆流するような轟き。
「……ッ!?」
忍の身体が、横合いから何かに弾き飛ばされた。
壁に激突し、古びた木材が軋む。
誠は思わず顔を上げる。
そこに──彼女がいた。
廊下の中央、淡い非常灯の光の中に、
黒野理央が、静かに立っていた。
制服の袖口に、灰がふわりと積もる。
その灰が舞い上がるたびに、彼女の輪郭が一瞬、揺らぐ。
まるで現実に立つ影ではなく、何か別の“層”に存在する幻のようだった。
彼女の髪が、ゆっくりと宙に揺れる。
灰の降る光がそれを照らし、夜気の中で淡く煌めいた。
不気味で、美しい──
世界が静止したような、凍りつく光景。
理央の瞳が、ほんのわずかに動いた。
彼女は誠を見た。
その目は、冷たく、それでいて底の見えない深さをたたえていた。
忍は、壁に叩きつけられた衝撃をものともせず、静かに体勢を立て直した。
わずかに膝を曲げ、重心を低く落とす。
左腕の義手が軋む音が、灰の舞う廊下に鈍く響いた。
その瞳には、動揺の色は一切ない。
ただ、目の前の少女──黒野理央を、獣のような警戒心で見据えていた。
刀を握る右手が、わずかに揺れる。
だが、すぐには踏み込まない。
誠との距離を測るように一歩退き、二人の間に一定の間隔を保った。
彼の動きは、長年の戦いで染みついた“殺気の制御”そのものだった。
「……縄張りの見回りか」
忍の低い声が、灰の中でかすかに震える。
理央は答えない。
彼女の周囲だけ、空気が濃く沈み込んでいるようだった。
誠は床に崩れたまま、その光景を見ていた。
恐怖と痛みが混じり合い、喉の奥が焼けつく。
灰の匂い、金属の冷気、静寂。
すべてが異様に澄みすぎている。
忍は一歩、足を滑らせるように横へ動いた。
間合いを測りながら、理央と誠の両方を視界に収めている。
完全に、警戒していた。
この少女が何者なのか──理解できぬが、“敵”と見做していた。
理央は、何も言わず、ただ静かにその視線を受け止めていた。
非常灯の光を受け、彼女の瞳がわずかに揺らめく。
長い睫毛の下で、淡い光がきらめき、
その表情は、まるで感情のない人形のように整っていた。
やがて、彼女はほんの少しだけ顎を傾けた。
その仕草は、誰かに“合図”を送るような自然さだった。
──背後。
誠の位置からでは見えないが、忍の鋭い感覚がそれを捉えた。
理央の背後の闇──非常灯の光が届かない階段の影。
そこに、“何か”がいる。
気配があった。
空気がわずかに震える。
人間ではない。
そう悟った瞬間、忍の義手がわずかに鳴った。
理央はようやく、微笑んだ。
その笑みは、どこか現実離れしていて、
灰の光に照らされた頬が、まるで透けるように淡く光っていた。
「──セイバー、彼の相手は任せたわ」
その言葉が落ちた瞬間、廊下の空気が変わった。
冷たく、硬質なものが満ちる。
灰が舞う軌跡の中に、青白い光の線が走った。
次の瞬間──階段の影から、重い足音が響いた。
“ギィン、ギィン”と金属が軋む音。
それはまるで、遠い昔に錆びついた鎧が、再び目を覚ますような音だった。
非常灯の淡い光に照らされながら、
煤けた鋼の鎧に身を包んだ男が、闇の中から姿を現す。
フルプレートの表面には、無数の傷と焼け跡。
それでも彼の立ち姿には、一分の隙もなかった。
左手には、灰の降り積もる中でも鈍く光を返す盾。
右手には、使い込まれたロングソード。
剣身には乾いた血のような黒ずみがこびりつき、
彼の歩みに合わせて、刃がわずかに低く唸った。
その騎士は、理央を一瞥したのち、
何の言葉も発せずに誠の前へと進み出た。
床を踏みしめるたびに、灰が小さく舞い上がる。
やがて誠と忍の間に立つと、
盾を正面に構え、剣先をゆっくりと上げた。
──守るための構え。
忍の片目が細められる。
刃を構え直しながら、低く呟く。
「セイバー……最優の騎士」
義手の指先が軋み、刀が光を返す。
灰の降る廊下の中で、
二人の戦士の呼吸が重なった。
誠は床に倒れたまま、ただ見ていることしかできなかった。
現実が遠ざかっていく。
視界の中で、騎士の背が圧倒的な壁のように広がり、
その後ろで理央は、静かに見守っている。
灰の帳を背景に、忍と騎士が対峙する。
誰も動かない。
だが、空気が鳴っている。
世界そのものが、この一瞬のために呼吸を止めていた。
忍がゆっくりと息を吸う。
刀をわずかに傾け、義手の金属が“キィ”と鳴る。
沈黙を裂いたのは、鋼が空気を切る音だった。
騎士が動いた。
床を蹴る音すらなく、一閃。
重厚な甲冑の質量が信じられない速度で躍動し、
灰を巻き上げながら一直線に忍へと斬り込む。
「──ッ!」
忍の目が細まり、義手が瞬時に展開した。
金属の軋みとともに、腕から円形の装置が弾けるように開く。
傘──だが、それは布ではなく、鋼。
幾重にも重なった刃のような板金が、黒い花のように咲き広がる。
騎士の剣がその鋼傘に叩きつけられた瞬間、
廊下全体が震えた。
金属と金属がぶつかる重音。
灰が爆ぜるように舞い上がり、光を失った蛍の群れのように散る。
だが──それで終わらない。
鋼傘の表面から、黒い霧が滲み出した。
まるで液体の影が蒸発するように、形を変え、膨張する。
剣を包み込み、その軌道を鈍らせた。
灰を溶かし、光を飲み込むその闇は、
まるで“この世の物理”そのものを否定しているようだった。
「面妖な技を使う」
低い声が、兜の内から響く。
忍は何も答えない。
その姿はすでに、輪郭を保っていなかった。
鋼傘を中心に、黒い靄が生まれ、膨れ上がり、
やがて人の形を崩していく。
黒。
ただそれだけの色。
質量も、音も、温度もなく、
“存在”という概念だけを残して溶けていく。
騎士が一歩踏み込む。
霧の中心を貫くように剣を振り下ろした。
灰と影が弾け、衝撃波が廊下を駆け抜ける。
壁が裂け、窓ガラスが共鳴音を立てて軋む。
だが──そこにはもう、誰もいなかった。
霧が揺れ、溶け、
跡形もなく消え失せていた。
残ったのは、ひとつの黒い羽のような残滓。
理央の髪が、静かに揺れる。
その瞳がわずかに細められ、息のような声がこぼれた。
「……逃げたのね。忍びらしいわ」
理央は一瞬だけ静かに目を閉じた。
長い睫毛の影が頬に落ち、灰の中でゆらりと揺れる。
すぐに瞼を上げると、澄んだ声が空気を割いた。
「セイバー。周囲を見回って。どこの陣営か分からないけれど、これで終わるとは思えないわ」
その命令に応じて、騎士は無言のまま頷いた。
重厚な鎧が微かに鳴る。
彼は剣を下ろし、盾を構えたまま廊下の奥へと歩き出した。
灰が足跡を包み、金属の音がゆっくりと遠ざかっていく。
理央はその背を見送りながら、ふっと息をついた。
空気がわずかに柔らぐ。
そして、彼女は静かに膝を折り、誠の傍らに腰を下ろした。
「……大丈夫?」
その声は、いつもの教室で聞くよりもずっと柔らかかった。
誠が戸惑いに息を詰めている間に、理央は手を伸ばした。
白い指が器用に動き、制服のポケットから取り出したのは、小さな包帯と消毒液の瓶。
まるでそれを常に持ち歩いているかのような、慣れた手つき。
彼女は何も言わず、誠の足首に刺さった手裏剣を見つめた。
淡い灰の光が彼女の横顔を照らす。
その表情は冷静で、まるで感情を封じた外科医のようだった。
「少し痛いけど、我慢して」
短く言い残し、理央は手裏剣の根元に指をかけた。
次の瞬間──素早く、迷いなく引き抜く。
「──ッ……!」
誠が声を上げるより早く、理央は手早く消毒液をかけ、包帯を巻き始めた。
その動きは流れるようで、どこにも無駄がない。
指先に触れるたび、彼女の体温がかすかに伝わる。
だが不思議と、冷たさは感じなかった。
むしろ──落ち着くような静けさがあった。
理央は包帯の端を結びながら、ふと顔を上げた。
非常灯の明かりを受けて、瞳がかすかに光る。
「手裏剣……風魔小太郎か服部半蔵かしら? 貴方も災難だったわね」
その言葉は冷たいようで、どこかに微かな優しさがあった。