灰が、降っていた。
昨日からずっと続いている。
天気予報は晴れだったし、気温もそこまで低くない。
なのに、空からは絶えず細かな粒が舞い落ちてくる。
雪のように白く、埃のように軽く、
掌に乗せると、すぐに溶けもせず崩れて消える。
まるで世界そのものが静かに燃え尽きて、
その残りかすが風に乗って漂っているようだった。
「……今日も、降ってるのか」
灰原誠は、つぶやいた。
マスク越しの息が白く曇る。
手袋の上に落ちた粒を指先で払うと、
粉のように砕けて、アスファルトの上に積もった灰と混ざった。
倉敷市外縁──灰原地区。
古い鉱山と工場跡が点在するこの町は、今では地元の人間にも忘れられつつある。
通学路に人影はなく、道端の街灯が昼でもぼんやりと点いていた。
誠の通う県立高校までは、歩いて四十分。
バスも通っていないこの道を、彼は毎朝ひとりで歩く。
靴の裏が灰を踏むたびに、ざらりと小さな音を立てた。
灰は匂いを持たない。
けれど、鼻の奥に何か焦げたような錯覚が残る。
昨日から胸の奥が妙にざわついているのは、この空気のせいか。
ため息のように呟いて見上げた空は、曇天でも晴天でもなく、ただ光の滲む白だった。
空の境界がどこにあるのか分からない。
世界の上も下も、すべてが灰に溶けているような朝。
校門まであと十五分。
住宅街を抜けると、古い商店の並ぶ通りに出る。
閉ざされたシャッターの上にも灰が積もり、
昨日まであった看板の文字が、もう読めなくなっていた。
電気屋の前を通りかかったとき、ショーウィンドウのテレビが一斉に同じニュースを流していた。
ガラス越しに見える映像は、どれも薄灰色の空を映している。アナウンサーの声がスピーカーを通して、かすかに響いた。
「──この“灰”について、環境省は現在も成分を調査中ですが、健康への影響は確認されていません。
ただし、視界不良や呼吸器への刺激を避けるため、無闇な外出は控えるよう呼びかけています」
ニュースのテロップには「灰の降下、全国十数箇所で確認」とある。
誠は足を止め、マスク越しに息を吐いた。
“健康への影響は確認されていません”──
それを聞いても、安心というより、妙な空虚さが胸の奥に残った。
何も起きていないと繰り返す言葉ほど、不気味なものはない。
電気屋の軒先には、薄く灰が積もっていた。
自動ドアの前には誰もいない。
ただ、灰の積もるディスプレイの上で、最新型テレビだけが静かに光を放っている。
誠は肩をすくめ、足を前に出した。
学校が休みになるわけでもない。
町全体が不安を感じながらも、いつもの朝を続けている。
靴の裏で灰がざくりと鳴る。
踏むたびに、かすかな音が耳に残った。
歩道の白線も埋まりかけていて、足跡だけが黒く刻まれる。
信号の青がくすんで見えるほど、空は霞んでいた。
通学路に人影はなく、誰もが家の中でニュースを見ているのか、
あるいは外出をためらっているのだろう。
誠はひとり、灰の降る通りを進んだ。
遠くで犬が鳴き、風に混じって鉄の軋むような音がした。
それが電線の揺れる音なのか、別の何かなのか、区別がつかない。
校門が見えるころには、靴もズボンの裾も灰で白く染まっていた。
門の前に立つと、金属の冷たさが指先に伝わる。
掲示板には、いつも通りの日付と“登校時は安全に注意”の文字。
それ以外、何も変わっていない。
灰はまだ降り続いている。
静かな、世界が燃え尽きる前のような朝だった。
校門をくぐると、靴底にこびりついた灰がコンクリートを汚した。
グラウンドにはうっすらと白い膜がかかっており、サッカー部のラインと区別がつかない。
けれどチャイムはいつも通り鳴り、校舎の窓には灯りがともっていた。
世界が終わりかけているような景色の中で、それだけが不思議なほど平常だった。
昇降口に入ると、濡れた靴底が床に灰色の足跡をつけた。
生徒の数は普段より少ない。
だが完全に休校になったわけではなく、誰もがマスク越しに互いの顔色をうかがいながら、
“いつも通り”を装っていた。
下駄箱から上履きを取り出し、灰を軽く叩いてから履き替える。
靴箱の隅にも灰が積もっていた。
風にでも乗って入ってきたのだろうか。
階段を上り、教室の扉を開ける。
いつも通りのざわめきがある。
数人の友人がスマホでニュースを見せ合い、
「灰ってマジで火山のやつじゃないの?」と笑い半分に話している。
誠も軽く頷いて相槌を打ち、奥の窓際、自分の席へ向かった。
──そして、その瞬間、違和感に気づいた。
教室の空気が、ひとところだけ違っている。
廊下側、最後列。
ずっと空席だったはずの椅子に、ひとりの女生徒が座っていた。
長い黒髪。
制服はきちんと着こなしているのに、裾や袖のラインが微妙に古い。
誰も彼女に話しかけない。
というより、誰もその存在に触れようとしていなかった。
──あれは、誰だ。
誠は心の中でそう呟いた。
だが、すぐに思い出す。
彼女の席は、入学式のときから存在していた。
出席番号の一番上。
名簿には確かに名前があり、
けれど、彼女がこの教室に姿を見せたことは一度もなかった。
“黒野理央”。
主席で合格したとか、
学校に莫大な寄付をしたとか、
教師の弱みを握っているとか──
そんな噂だけが、まるで都市伝説みたいに囁かれていた生徒。
だがその噂の本人が、
なぜか今朝になって突然、何事もなかったかのように席に座っている。
彼女は窓の外を見つめていた。
降り続く灰が、光を反射してゆらめく。
白く霞む景色の中で、黒野理央の横顔だけが異様に静かで、どこか現実味がなかった。
誠はそのまま席につき、無意識に視線を逸らした。
胸の奥が少しだけざわつく。
それが彼女に対する好奇心なのか、
あるいは、言葉にできない不安なのか──自分でも分からなかった。
午前の授業は、驚くほど何事もなく進んでいった。
黒板の文字がいつも通りに並び、教師の声が単調に響く。
窓の外では、相変わらず灰が静かに降り続いている。
それでも教室の中だけは、不自然なほどの平穏が保たれていた。
誰もが何かを避けるように、必要以上の言葉を交わさず、
ただ、授業という形だけをなぞっている。
廊下側の最後列──黒野理央の席。
彼女はずっと、そこにいた。
姿勢を崩さず、ノートも開かず、ただ正面を向いて座っている。
教師が黒板にチョークを走らせる音が、妙に耳に残った。
クラスメイトの誰もが、彼女に視線を向けない。
まるで「そこにいること」が暗黙の了解で、
触れてはいけないものとして共有されているかのようだった。
数学の教師が、黒板を指差して言う。
「はい、じゃあこの問題……えーと……」
指先が一瞬、黒野の方向を向いた。
その刹那、空気がわずかに凍る。
教師は一拍置き、まるで自分の言葉を飲み込むように咳払いをした。
「……灰原。お前、解いてみろ」
教室の空気が、ふっと解ける。
周囲の生徒が軽く笑い、誠は立ち上がって問題を答える。
教師は頷き、板書を続けた。
誰も黒野理央には触れなかった。
国語の授業でも、英語の授業でも、それは同じだった。
彼女は一言も発さず、教師も一度も当てなかった。
まるでそこだけ時間が止まっている。
昼休みになっても、状況は変わらなかった。
弁当を開く音、笑い声、スマホの通知音──
日常の雑音が流れる中で、
黒野理央の周囲だけは、まるで“無音の結界”に包まれているようだった。
彼女は昼食も取らず、机の上に両手を重ねたまま、
ただ窓の外を見ていた。
降り続く灰が、ガラス越しに光を散らす。
彼女の横顔に、その淡い光が淡く反射していた。
──見てはいけない。
そんな言葉が、誠の頭をかすめた。
何も起きない。
誰も動かない。
ただ、灰が降り続き、教室の時間だけが延々と流れていく。
不気味なほどの平穏。
それが続くうちは、世界はまだ壊れていない。
そう信じるように、誠は黙ってノートを開いた。
放課後、チャイムが鳴り終わるころには、廊下も灰色の光に満たされていた。
空気が鈍く濁っていて、窓越しの外は白と灰の境が曖昧だった。
灰原誠は鞄を肩に掛け、人気の少ない廊下を歩いた。
教室を出るとき、黒野理央はまだ席にいた。
昼から一度も姿勢を変えず、同じ姿勢のまま、ただ窓の外を見つめ続けている。
教師が最後に見回ったときも、誰も彼女のことを話題にしなかった。
まるで、最初から存在していなかったように。
誠は視線を逸らし、足早に廊下を抜けた。
彼の所属する文芸部は、旧館の最上階にある。
木の床が軋み、夕方になると校舎全体が少しだけ冷え込む。
部室棟の窓にも、灰が薄く積もっていた。
文芸部といっても、部員は2人しかいない。
学園祭で詩集を少部数刷る程度の、小さな部活だ。
壁際には古びたプリンターと、ホチキス留めされた過去の詩集がいくつか並んでいる。
棚の上には誰が持ち込んだのか分からないコーヒーメーカーと、埃をかぶった文庫本。
「やあ灰原君、今日も真面目に来たようだね」
先に来ていた部長の藍沢が、窓を開けようとしてすぐに諦めた。
窓枠の外側にまで灰がこびりついていて、開けるたびに細かい粒が室内に舞い込むのだ。
「やめといた方がいいですよ。掃除が面倒になります」
誠がそう言うと、藍沢は苦笑して肩をすくめた。
「うん、確かにね。じゃあ閉めておこうか」
藍沢は軽く手を払うようにして窓を閉め、淡い灰の匂いを遮断した。
彼女の仕草はどこか芝居がかっていて、それでも不思議と嫌味がなかった。
「汚いからね」
指先の動きひとつに、目を奪われるような柔らかい気配がある。
「それでね、灰原君」
振り返った藍沢が、微笑んだ。
光の加減で不思議に輝く、藍色の髪が蛍光灯の光を受けてわずかに揺れる。
その笑みを向けられると、誠はいつも反射的に背筋を伸ばしてしまう。
「ごめんだけど、今日ちょっと用事があってね。だから、この原稿を印刷しておいてくれる?」
彼女は手に持っていたUSBメモリを差し出した。
小指の先ほどのそれを、誠は思わず両手で受け取る。
「え、またですか。昨日も──」
「お願い。帰りに寄らなきゃいけないところがあるんだ」
そう言って見せる微笑みは、断りの言葉をやわらかく飲み込ませるような、
どこか魔法じみた力を持っていた。
藍沢沙月──文芸部唯一の先輩。
校内でも目立つほどの美人で、教師にも受けがいい。
それでいて近づきがたく、彼女の私生活を知る者は誰もいない。
不思議なことに、誠はこの人の頼みを一度も断れたことがなかった。
「……わかりました。印刷して、製本までやっておきます」
「ありがとう! 話が早い」
藍沢は満足そうに頷くと、机の上に置かれていた鞄をすっと肩に掛けた。
その動作は無駄がなく、どこか舞台の幕が閉じる直前のような洗練された終わり方だった。
「じゃあ、後はよろしくね。プリンターの紙は補充してあるから安心して」
「……え、ちょっと、データの確認くらい一緒に──」
「大丈夫、大丈夫。灰原君なら完璧にやってくれると信じているよ」
軽い調子で言い残すと、彼女はまるで風のように部室を後にした。
扉が閉まる直前、廊下の淡い光が一瞬だけ差し込み、
藍沢紗月の横顔を照らした。
その一瞬、彼女の瞳に淡い藍色の光が宿ったように見えた──が、
扉が閉まると同時に、すべては静寂に包まれた。
残されたのは、誠ひとり。
プリンターのランプが点滅を繰り返し、
蛍光灯のかすかな唸り声が、灰色の空気に溶けていく。
誠は苦笑しながら椅子に腰を下ろした。
机の上のUSBを差し込み、ファイルを開く。
印刷用の詩稿データ──だが、ファイル構成は複雑で、フォルダも多い。
藍沢が言っていた「詩集のデータ」はどうやら一つではないらしい。
とりあえず一つずつ開いて確認し、体裁を整えていく。
それは単純な作業のはずだった。
──だが、プリンターの調子が悪い。
印刷ボタンを押しても反応が鈍く、
ガタリ、と内部で何かが空回りするような音がした。
出力された紙は途中でかすれ、文字の一部が欠けている。
トナーを軽く叩いてみても改善しない。
「……あー、またか」
ぼやきながら、誠は機器の下を覗き込み、
ケーブルを抜き差しして再起動を試みた。
再び低いモーター音が唸り、数秒後、ようやく動き出す。
気づけば窓の外はもう夕闇に沈みかけていた。
校舎の照明が自動で点き、廊下に長い影を落とす。
誰もいない旧館は、放課後を過ぎるとまるで別世界のように静かだった。
印刷の終わった紙を一枚ずつ手に取り、綴じながら誠はため息をついた。
時計を見ると、針はすでに七時を回っている。
外の灰は相変わらず降り続き、窓ガラスの向こうで光を吸い込んでいた。
「……完全に夜じゃないか」
小さく呟く。
どこかで電気が落ちたのか、廊下の奥が暗い。
機械の唸り声と、紙の擦れる音だけが、静寂を埋めていた。
印刷を終えるころには、手元の紙束が小さな山になっていた。
ホチキスで綴じ、表紙を貼り合わせ、ざっと確認してから封筒にまとめる。
最後の一枚を机の上に置いた瞬間、誠は大きく息を吐いた。
「……終わった。ようやく」
椅子にもたれ、天井を見上げる。蛍光灯がわずかにちらつき、
部屋の片隅ではプリンターのランプがまだ赤く点滅していた。
原因不明の警告灯──だがもう、直す気力も残っていなかった。
時計は九時を指している。
旧館のこの時間は、まるで校舎全体が眠っているようだった。
外では灰が絶え間なく降り続け、窓の外の景色はほとんど白に溶けている。
世界の輪郭がぼやけ、夜と昼の境がわからない。
誠は手早く机を片づけ、紙屑をゴミ箱に放り込んだ。
電源を落とし、スイッチを切って回る。
プリンターの唸りが止まり、部屋の中が一気に静まり返った。
──あまりに静かすぎる。
旧館特有の、古い木造の軋みだけがかすかに聞こえる。
その音さえも灰に吸い込まれているようで、
まるで音そのものが世界から消えつつあるかのようだった。
誠は鞄を手に取り、照明のスイッチを落とす。
部室の灯りが消えると、廊下の白い非常灯だけがぼんやりと灯り、
灰の舞う空気を透かして、淡い影を床に落とした。
薄暗い廊下に出た瞬間、
肌をなでる空気が一段と冷たく感じられた。
旧館は本館と違い、空調が止まると一気に温度が下がる。
階段の方を見やると、
白い灰が、開け放された窓の隙間から廊下にまで入り込んでいた。
光を反射する灰の粒が、非常灯の明かりを受けてゆらゆらと浮かんでいる。
──不気味だ。
そう思いながらも、誠は足早に歩き出した。
足音が廊下に反響し、
それが自分の音なのかどうか、一瞬わからなくなる。
外に出たらすぐ帰ろう。
そう思いながら、下駄箱へ向かって階段を降りかけた、そのときだった。
「──御免」
低い声が、どこからともなく響いた。
囁くような、地を這うような声。
男の声だ。だが、廊下のどこにも人影はない。
誠は反射的に足を止めた。
冷たい汗が背中をつたう。
声は、確かに自分のすぐ後ろ──
部室の方から聞こえた気がした。
「……誰、ですか?」
そう問いかけても、返事はない。
ただ、遠くの蛍光灯が一度だけチリ、と音を立てて瞬いた。
再び、声がした。
「灰原、誠殿とお見受け致す」
今度ははっきりと、名を呼ばれた。
誠は、ゆっくりと振り返った。
廊下の奥、闇と灰が混ざり合うその向こうに、
何かが、立っていた
「密命により、御命を頂戴する」