意識という「究極の問い」にどう挑むか? 哲学と神経科学の冒険が始まる――。信原幸弘・渡辺正峰『意識はどこからやってくるのか』第1章全文公開
マインドアップローディングの実現を目指す脳科学者と「心の哲学」の第一人者が、意識という「究極の問い」に真正面から挑む対話録、『意識はどこからやってくるのか』(信原幸弘・渡辺正峰、ハヤカワ新書)が2025年2月19日に刊行されます。この記事では、本書の第1章「意識という「究極の問い」を問う」を全文公開します!(イラスト:ヤギワタル)
第1章 意識という「究極の問い」を問う
コウモリは世界をどう知覚しているのか
信原 これから渡辺さんと議論を進めていくにあたって、まず、意識とは何かという話は避けて通れません。意識という言葉の意味も非常に広いので、これを読んでいる方も、各々異なったものを思い浮かべているかもしれませんが、私や渡辺さんが話題にしている意識とは、何かを見たり聞いたり(知覚経験)感じたり(感覚経験)したときに、自分の中に主観的に現れる意識体験のことです。感覚質(クオリア)と呼んだりもします。
痛みというのも意識体験ですし、もっと素朴に、目の前に赤いリンゴがあったとして、そのリンゴが見えていることがすでに主観的な意識体験です。赤いリンゴを見ると、脳は網膜から入ってきた信号に従って情報処理を進めますが、そのとき私たちは赤いリンゴが見えているという独特の感じを味わっています。その感覚は青いリンゴを見たときとは違う主観体験です。
哲学者のトマス・ネーゲルという人が「What Is It Like to Be a Bat?(コウモリであるとはどのようなことか)」という論文を書いて、非常に有名になりました。コウモリは人間と同じほ乳類ですが、空を飛び、口から超音波を出してその反響音で世界を知覚しています。我々人間が光を使って世界を視覚
的に認識しているのとはまったく違う世界が、コウモリにはきっと開けているはずです。そのコウモリの知覚的な世界のあり方が「どのようなことか」、私たちはいくら想像しようとしても想像できず、知ることができません。
そういう、第三者が決して知ることのできない主観的な経験が意識であり、それが「どのようなことか」というわけです。日本語としてはあまりピンとこない表現ですが、英語ネイティブの人にとっては、「what is it like」というのはよくわかる表現のようです。
渡辺 僕は同じ論文の「something that it is like to be(それになってこそ味わえる感覚)」を引用して説明することが多いのですが、この主観的な意識体験については、なかなか伝えるのが難しいですね。意識の最も不思議で面白い部分なのですが、何をしても意識が伴うことがあまりにも当たり前なので、なかなか不思議さを感じてもらえません。
でも、考えてみてください。最近のスマートフォンのカメラは非常に高性能ですが、主観的な意識体験という意味での視覚がそこに生じているかといえば、生じていないでしょう。ではなぜ、僕たちの脳には意識が湧いているのか。脳もまた、細胞という物質の塊にすぎないのに。
信原 哲学者のデイヴィッド・チャーマーズは意識に関する問題を、脳科学の発展によってその解決が期待される「イージープロブレム」と、そうではない、物理的な説明がそもそも可能かどうかから問わなくては答えられない「ハードプロブレム」に分けました。
【用語解説】意識のハードプロブレム
哲学者デイヴィッド・チャーマーズは意識に関する問題を「イージープロブレム」と「ハードプロブレム」に分け、意識がどのような働きをするかということは科学の発展によって解き明かせるイージープロブレムだが、物質である脳からなぜ主観体験である意識が生まれるのかという問題は、意識の機能が解明されてもなお残る、解き明かすことが難しい問題(ハードプロブレム)だと主張した。
渡辺 なぜ、僕たちの脳に意識のような現象が生じるのかということは、ハードプロブレムですね。
信原 そうですね。科学の手段だけでは解き明かせない根本的な問題です。意識は人間らしさの根本をなすものです。脳が意識を生み出していなければ、何を眼にしても何を耳にしてもただ情報伝達が行われるだけで、私たちは見ることも聞くこともできません。そこに「私」が存在しなくなるわけです。しかし生物としての私たちは、意識のようなものがなくても、生存していくことが可能なように思われます。それなのに、なぜ意識が脳に生じるのか、考えれば考えるほど不思議です。
ハードプロブレムを‟ノンハード化”する
信原 意識をめぐる問題は、いわば「究極の問い」だと思います。ここで究極と呼んでいるのは、すなわち、最終的な答えがないかもしれない問いだということです。それでも私は、ハードプロブレムを何とか解決したいと思って、意識の研究を始めました。渡辺さんは意識を科学の方法で解き明かそうとしているわけですよね。
渡辺 そうですね。意識という、科学ではなかなか切り込めなかった大きな問題に、見て見ぬふりをするのをやめて挑んでみようとしているところです。
信原 脳で起こっていることは、電気信号の伝達であったり、あるいはシナプスを介した神経伝達物質の受け渡しであったりと、純粋に物理的な事柄にほかならないわけです。しかし、ネーゲルの言う意味での主観的な経験としての意識は、純粋に物質的なものではないように見えてしまいます。
主観的、つまり本人にしか、それがどういうふうになっているのかわからない。振る舞いや表情から他人が推察するということは可能だとしても、直接は感じ取ることができません。一方、脳の活動は様々な方法で計測でき、本人だけでなく、他の人も同じように知ることができるというあり方をしています。
一人称的で主観的なあり方をする意識と、三人称的で客観的なあり方をする脳には、根本的な違いがあります。このような根本的な違いがあるにもかかわらず、なぜ、脳がある特定のあり方をしたときに、ある一定の主観的な経験が生じるのか。この両者の関係はどうなっているのだろうかという問題が生じます。
この関係をどう解いていくのかというのが、まさに哲学の「心身問題」です。いろいろな議論があって、哲学の問題にはよくあることですが、なかなか決着がつかないわけですけれども。
とりあえず言えることは、脳の一定の活動には、一定の意識的な主観経験が伴うんだということだと思います。脳の活動によって、意識的な主観経験が「引き起こされる」というような因果的な含みはいったん棚上げしておいて、相関はあると言えそうです。
渡辺 はい、そこまでは言えますよね。ただ、たとえ相関があることはわかっても、因果関係はわからない。これを解明しようとすると、どうしても従来の科学からはみ出してしまいます。相対性理論にしても、DNAの二重らせん構造の発見にしても、客観と客観を結びつけたものです。しかし、意識の科学はそうではありません。主観という、科学の土台に載りにくいものが主役だからです。
では、科学者は指をくわえて見ているしかないのかというと、そうではないんじゃないかと考えています。僕のとっている方法は、意識の科学に「自然則」を導入するという、ある種の割り切りを行うことです。自然則というのは、たとえば「光速度不変の原理」のように、この宇宙ではそういう法則が成り立っているとしか言いようのない自然の原理のことです。
【用語解説】光速度不変の原理
アルベルト・アインシュタインの特殊相対性理論の基本的な前提の一つ。この原理によれば、光の速度は観測者の運動状態に関係なく、常に一定(毎秒約三〇万キロメートル)である。この原理は、時間や空間の概念を根本的に変え、時間の遅延や長さの収縮といった現象を説明する。
この法則に基づくと、光の速度を一定にするために時間が止まってしまうといった、常識に反したことが起こるわけですから、ずいぶん変態的な原理です。しかしこれは、アインシュタインが提唱したのちに、実験的に証明されました。ポイントは、それが正しいことが証明されたのちに、なぜ正しいかを問うても意味がないということです。この宇宙はそうなっている、としか言いようがありません。
それと同じように、意識の科学にも自然則を導入します。私たちの脳がしかるべき活動をしたら意識を生み出す、といった自然則です。もちろん、言うだけなら誰でもできるので、本当にそういう自然則が成り立つのか、また、どういう条件なら成り立つのかを実験的に明らかにするために、意識の湧く機械の開発をとおして探究しようとしています。
自然則を置くことによって、ハードプロブレムを‟ノンハード化”することができます。自然則こそが、脳の客観的動作と脳に生じる主観を問答無用で結びつけてくれるからです。なぜ物質である脳に意識が生じるのかというハードプロブレムに答える必要がなくなります。なぜ光速が一定であるかという問いには答えがなく、また答える必要がないのと同じように、まさに宇宙はそうなっている、としか言いようがありません。自然則の導入により、指をくわえて見ていることしかできなかった意識を神秘の椅子から引きずり下ろして、科学的に扱うことができるようになると考えています。
信原 自然則を置くことで、意識に対する科学的な探究が進んでいくわけですね。その探究が進んで、意識の生じるメカニズムがわかってきたら、そこから「なぜ」の答えにつながるヒントも出てくるかもしれません。そういった意味でも、私は渡辺さんの研究成果を楽しみにしています。私のような哲学者は、自然則を置いて終わりというだけではなく、その先を考えたくなってしまうのです。自然則が正しいと証明されれば意識のハードプロブレムは問うても意味がない問題だというのは、そのとおりなのかもしれませんが、問うても仕方がないと思われることを敢えて問うて、何とか謎を解こうするわけです。哲学者は暇ですねと言われてしまいそうですが(笑)。
物理的な脳に生まれる主観的な意識と物理的な脳の活動、つまり主観面と客観面がなぜ自然則が成立するような関係にあるのか。自然則が正しくて必ずそうなるのだとしても、そのうえで、両者にはどういう関係があるのかということまで知りたいわけです。
マインドアップローディングとは何か
信原 意識をどのようなものとして捉えるか、というのはそれ自体が重大な問題ですから、本書を通じて議論を深めていければと思いますが、いったん渡辺さんが取り組まれている「マインドアップローディング」の話題に移りましょう。
読者のみなさんが一番気になるのは、そんなことをどのような方法で実行するのか、本当に実現可能なのかというところだとは思いますが、まずは簡単に言葉の定義を確認しておきましょう。
マインドアップローディングとは、文字通りマインドをコンピュータにアップロードするということですね。マインドとは何かということにもいろいろと議論がありますが、自分の心をコンピュータに移すことだと、とりあえずは言っておきたいと思います。
当然ながら、USBメモリでパソコンからパソコンへデータを移すように心をコンピュータへ移すことはできませんから、簡単な話ではありません。では、どうやって移すのかということを考えると、心とは何かという問題に突き当たります。ですが、とりあ
えずそこには深入りしないで、渡辺さんの考えるマインドアップローディングの定義を確認しておきたいと思います。
渡辺 僕の考えるマインドアップローディングは、生身の体が働かなくなって──つまり普通の意味で死を迎えても、機械の中で生き続けることを可能にするための技術です。そのためには「私」が機械に移行する必要があります。イメージをわかりやすく伝えるために意識をアップロードすると言っていますが、正確に言えば、意識、無意識を含む、脳の情報処理のすべてを機械に移すことで、その機械にも意識が宿ることを期待するものです。
信原 機械の中で生き続けるというのは、どういうイメージでしょうか?
渡辺 思念だけの存在になってデジタルデータとして保管されるとか、幽霊のようにデジタル空間を漂うとか、そういう特殊な状態ではないということを最初に言っておきたいと思います。
マシンの処理速度やサーバー容量などが発展していけば、最終的には、今僕たちが生きている世界と同じような形で、デジタル空間で生きていくことができると考えています。また、一〇〇年とか二〇〇年とかの、それなりの期間がかかるかもしれませんが、デジタル空間にいながら、今僕たちが暮らしているこの生身の世界とやりとりすることも可能になるでしょう。
マインドアップローディングという考えに初めて触れた人に、アップロード後の世界を想像してもらうために、僕はいつも二段の補助的な階段を用意します。一段目は「環境のデジタル化」で、二段目は「身体のデジタル化」です。それらを理解してもらえば、最後の段である「脳のデジタル化」、すなわちマインドアップローディングされた状態のイメージにたどりつきやすくなるはずです。
一段目の環境のデジタル化は、いわゆるバーチャルリアリティ(VR)です。専用のゴーグルや手袋などを装着してバーチャルな空間を現実のように感じさせる技術は、現在でもすでに実現されつつあります。VRは環境をデジタル化して、デジタル化された環境が生身の肉体と相互作用している状態です。僕たちはデジタル化された環境情報を、ゴーグルをとおして生物的な身体(視覚の場合は網膜)で受け取り、生物的な脳で処理します。実際には身体は狭い部屋の中で椅子に座っているだけだとしても、デジタル情報がジャングルの木々や動物や日差しといった環境を作り出し、適切な機器を介して身体に情報を与えることができれば、僕たちはジャングルの中にいる感覚をもつことができます。
現在のVR技術ではまだ完全な没入感は得られませんが、手袋だけでなく、全身スーツのようなものを着て、ゴーグルやヘッドセットだけでなく、味覚や嗅覚にも信号を送れるようなデバイスが開発されて、性能が上がっていけば、現実と見分けがつかないようなものになるでしょう。
次の段が身体のデジタル化です。一段目では、脳に入ってくる情報は生身の身体を介したものでした。目や耳や皮膚などがデジタル情報を受け取って脳に送っていたわけです。今度はこの身体もデジタル化します。つまり、脳に直接、身体を介さずに情報を届けます。デジタルな環境の情報を仮想のデジタル身体が受け取り、そのデジタル身体の反応をシミュレートした結果が脳に送り届けられます。
これは、映画「マトリックス」で描かれた状態です。マトリックスでは首の後ろに機械とつなぐためのコードの差込口があって、そこにコードをつなぐと脳と機械が直接つながって、デジタル空間、つまりマトリックスに入ることができます。マトリックスの世界は、僕たちが暮らしている世界とそっくりです。そこで働いたり、物を食べたり、眠ったりして生活をしているわけです。実際の身体はカプセルの中に保管されているのですが、身体が脳に送る情報も機械が担うことで、身体への入力がなくても、デジタル環境の中でデジタル身体をもって「生きて」いくことができます。実際に首の後ろにコ
ードを挿してこんなことができるかどうかはさておき、概念としてはちょうどぴったりの例になります。
そして、最後が脳のデジタル化です。二段目までは、生身の脳への入力を話題にしていました。後述するようにその脳の意識を機械に移し、マインドアップローディングに成功したとしましょう。そうすると、デジタルで作られた環境を、デジタルで作られた身体で感じ取り(感じ取った状態がシミュレートされ)、デジタルな脳にその情報が送り込まれることになります。身体のデジタル化の段で、マトリックスの世界のように、デジタル空間でも僕たちが生きている世界と同じように生活できることを想像できた人は、この最後の段もスムーズに上がれるはずです。
信原 アップロード後も今と同じように生きられるというイメージはよく伝わりました。ただし、デジタル世界は設定次第で何にでもなることができるので、今とまったく異なる生き方をするという選択肢もあり得ます。環境を自由に変えることもできますし、容姿や身体能力も変更可能です。痛みや苦しみの入力を取り除くということも考えられるでしょう。自由度が高いぶん、どのように生きるのがよいのかということが問題になってきますが、これは本書の後半で考えることにしましょう。
渡辺 そうですね。今はとりあえず、アップロードしたのちにも、僕たちの生きている世界と同じような環境で生きることができるというイメージが伝わればよいと思います。
マインドアップローディングの方法
渡辺 どんどん話が膨らんでしまうので、先に僕のマインドアップローディング計画を簡単に説明してしまうと、次のようになります。
①死後脳の解析と機械学習をもとに意識が湧く機械を作る
②ヒトの脳と①の機械をつないで両者の意識を一体化する
③一体化した意識を利用して、ヒトの脳の記憶を機械に移していく
この方法については、信原さんも実現可能性があると認めてくれたわ
けですよね。
信原 そうですね。渡辺さんの著書を読んで、マインドアップローディ
ングは案外早く実現するのではないかと思わされました。脳の機能的な
基盤を、機械においても再現することができれば、それでマインドアッ
プロードができると私も考えます。
渡辺 僕と信原さんは、いくつかのスタンスの違いはあるかもしれませ
んが、意識をもつ人工物を作ることができるという点については共通していますよね。生体の脳や神経細胞でなくても、同じ機能を果たすものであればシリコンや機械でも構わない。僕はこのことをよくチャーマーズの思考実験「フェーディング・クオリア」で説明しています。
【用語解説】フェーディング・クオリア
哲学者デイヴィッド・チャーマーズが提唱した思考実験。ある人の脳の中のニューロンを、機能的に同じシリコンチップに徐々に置き換えていった場合、その人の意識は徐々に消失するだろうか。チャーマーズは、単一のニューロンの置き換えによって意識経験が消えることはなく、それゆえ単一のニューロンを次々と置き換えていって最終的にすべてのニューロンがシリコンチップになっても、意識経験が消えることはないと主張している。
ニューロンが僕たちの脳の中で何か科学では説明できないような特別なことをしているかといえば、そうではありません。単純に言ってしまえば、他のニューロンからの信号を受け取り、次のニューロンに送っているだけです。その機能を完全に模した、つまり信号の入出力を完璧に再現するシリコンチップに置き換えても、他のニューロンは気づかないはずです。一つ置き換えても変わらないのであれば、二つ三つと増やしていって、脳内のニューロンがすべてシリコンに置き換わっても意識は生じたままです。
実際にはヒトの脳内にあるニューロンを機能的に完全にシリコンに置き換えるということは実現不可能なので、僕は別の方法で意識が湧く機械脳を作るわけですが、フェーディング・クオリアは、機械でも意識を生み出せることをわかりやすく想像させる思考実験だと思います。
自分の脳で機械の意識を確かめる
信原 渡辺さんは、もともと意識が湧く機械を作る、つまり人工意識を作ることで意識を研究しようとしていて、それがマインドアップローディングの構想につながったわけですよね。
渡辺 はい。マインドアップローディングは、意識の謎を解き明かすために考えた科学的手法の副産物です。行動によってある程度類推できる感情や記憶とは違って、意識は内面にしか現れないため、動物やヒトで研究をするには限界があります。そこで意識が湧く機械を作ることができたら、研究の幅は大きく広がります。機能の一部を止めたり改造したりして、意識が湧くには最低限何が必要なのかを探究することもできます。ただ、そのためには、作り上げた機械に意識が湧いているということをどうにかして確かめる必要があるのですが、そこに意識は主観でしか確かめられないように思われるという問題が立ちはだかります。
信原 そうですね。本当に主観でしか確かめられないかどうかは、ハードプロブレムにつながる問題になり、まだ結論は出ていません。ですが、今のところは、客観的に確かめる方法はありません。
渡辺 ですから、機械の意識を確かめようと思えば、それが客観的にも確かめることができるという結論になることに賭けるか、他の方法を考えるしかありません。私がやろうとしているのは後者です。機械の意識の存在を主観的に確かめるのです。
信原 それができれば、ハードプロブレムを解く必要がなくなるわけですが、主観的に確かめるといっても、自分が機械になってみることはできないわけですよね。
渡辺 もちろんです。じゃあ、どうするかというと、僕の主観体験を生み出している脳と、意識が湧いている機械をつなぎ、自分の脳で機械の意識を確かめます。
それも、ただつなげばいいわけではありません。たとえば、身体のデジタル化のときに機械を脳に直接つないで身体情報や環境情報を入力する設定を考えましたが、あの場合は機械の入力を自分の脳の意識で感じているだけです。機械にもし意識が湧いていたとしても、その機械の意識を自分の意識と区別して検出することは難しいでしょう。
ではどこでつなげばいいかというと、右脳と左脳をつなぐ脳梁です。それも、脳梁を切断したうえで、BMIでつなぎます。
【用語解説】BMI(Brain Machine Interface)
脳をコンピュータや義足などの外部デバイスに電気的に接続するテクノロジーのこと。手術によって脳に小型の機械を埋め込む侵襲型BMIと、手術の必要がない非侵襲型BMIがある。
脳梁を切断すれば分離脳と呼ばれる状態になりますが、生存には問題がありません。実際に病気の手術のために分離脳となって暮らしている人もいます。ただし、何の問題も起こらないかというとそういうわけではなくて、脳梁が切断された分離脳患者は、この左右の脳で情報共有ができなくて、自分の中に別人がいるような、つまり意識が二つあるような状態になります。
信原 脳梁を切断することで、意識が二つある状態を再現するわけですね。
渡辺 はい。そのうえで、脳梁を切断し、その隙間に挟み込んだBMIを介して生体の脳半球と機械の脳半球をつなぎます。
信原 両者をつないでしまうと、機械の意識と自分の意識をどうやって区別して確かめるのでしょうか?
渡辺 分離脳の二つの意識はそれぞれ独立しています。どちらかが主人でどちらかがそれに従う従者というわけではなく、左右どちらも主人なのです。僕はこれを意識のマスター・マスター制約と呼んでいます。このマスター・マスター制約を逆手にとって、確かめるのです。
【用語解説】分離脳
右脳と左脳は脳梁と呼ばれる神経線維の束でつながって、密に連携をとり合っている。この脳梁が切断された状態の脳を分離脳という。脳梁が切断されていても致命的な症状が出るわけではなく、多くの患者は日常生活を送ることができる。重度のてんかんの治療のために、脳梁を切断する手術が行われることもある。分離脳になると、右脳と左脳の連携が失われるため、左手と右手の動きが調和しなくなる症状が出たり、ある対象が左視野に提示されたときに、その対象が何であるかを言葉で答えることができなくなったりする。これは、左視野に提示された対象からの視覚刺激が脳の右半球へ伝えられても、右半球は言語情報を処理することができないためである。しかし言語を介さず、手で物をつかんだり、絵を描いたりして答えることはできる。
マスター・マスター制約は左右の脳半球が結ばれている通常の脳では、ほぼ意識されることがありません。左右のマスター同士が緊密に連携をとっているからです。しかし、視覚に関しては左右の情報処理が途中まで独立しているために、片方の脳だけに視覚情報を送り込むといったことが可能になります。
生体脳半球と機械脳半球を接続し、生体脳半球の持ち主が、機械脳の視野も含めて見えてしまったら、そのときには機械脳半球にもマスターとして意識が宿り、それが生体脳の持ち主の意識と一体化したと結論せざるを得ないわけです。
信原 機械脳に意識が湧いていなかった場合は、いくら視覚刺激を入れても「見えて」はいないわけですから、生体脳にもその「見える」という意識体験は共有されないというわけですね。
渡辺 はい。意識とは何かということに関わってきますし、僕がいつも人に話すときになかなかわかってもらえないポイントですが、何か物が見えているということ自体が意識体験なのです。脳のニューロン(神経細胞)が情報を処理していくだけでなく、見えているという感覚がなぜか僕たちの中に生じてしまう。これが意識の不思議なところです。
盲視と呼ばれる症状をもつ患者は、視覚的意識が生じていない、つまり「見えて」いないけれど、脳は情報処理を進めているという状態になります。その場合、盲視患者は何も見えないのに身体が勝手に反応しているといった感覚をもちます。
【用語解説】盲視
脳の視覚野の一部が損傷して視覚的な意識が失われているにもかかわらず、ある程度正しく視覚刺激に反応できる現象のこと。盲視患者自身は、何も見えていないと感じていても、その脳では視覚刺激の情報処理は行われている。そのため、本人はあてずっぽうのつもりで指さしたのに光点の位置を当てたり、本人は見えていないのに障害物を避けて歩いたりできることが報告されている。
生体脳の左半球と機械脳の右半球をつないで、機械脳の右半球にだけ視覚情報を送り込む。もし機械に意識が湧いていて、その視覚刺激を「見る」ことができているのなら、その感覚はBMIを介して僕の脳の左半球の高次の情報処理層に伝わり、機械の視野を「見る」ことができるはずです。しかし、機械に意識が湧いていなければ僕は何も見えないでしょう。これが僕の考えた機械脳半球・生体脳半球接続による人工意識の主観テストです。
制作は最高の理解である
信原 見えたか見えないかというテストなので非常にシンプルですね。これを行うためには超侵襲的なBMIを脳に入れなくてはならないわけですが、そのあとに、マインドアップロードができるというのなら、死にたくないという人にとってはあり得る選択なのでしょうね。私はお断りしますが(笑)。
渡辺 僕も手術をするとしたら人生の終盤、余命宣告を受けてからにしますけどね。しかし、脳梁を切ってBMIを埋め込むのは、ニューロンの状態を考えると実はそれほどひどい方法ではありません。最近、BMIの臨床試験を始めたニューラリンク社の電極は、大脳皮質の灰白質という、ニューロンの本体である細胞体がぎっしり詰まっているところに埋め込みます。細胞体のあるところに押し込んでしまうと、やはりニューロンは損傷を受けたり死んだりします。
また、細胞体が集まっている灰白質では特定の細胞だけ狙って電気刺激を与えることが難しく、情報を書き込もうとしても解像度はかなり低くなるという問題があります。
ニューロンは細胞体から神経線維が伸びた形をしていますが、実際に情報のやりとりをしているのは神経線維同士なので、細胞体の集まっている灰白質に電気刺激を送り込むのは、都会の雑踏で大声で叫んでいるようなものです。狙いをつけにくいし、たとえ狙った細胞に刺激を与えることができても、興奮しすぎて周囲にその興奮が伝播しよけいな情報が書き込まれてしまう可能性が高くなります。
一方で脳梁はニューロンの神経線維の束が集まっているところです。ここを切断してBMIを入れるということは、配線を一度きれいにスパッと切って、再配線し直すことに相当します。二〇二〇年に東京大学より特許出願している高密度二次元電極アレイを神経線維の断面に差し込むことで、それぞれの神経線維に対して直接的に情報を読み書きする形をとれます。
信原 そして、いったん意識が湧く機械を作ってしまえたら、あとはこの機械脳で様々な実験を行うことができるわけですね。
渡辺 はい。人間の脳をいろいろいじることはできませんが、機械なら操作実験が可能です。そうやって、意識が湧くために最低限必要なものは何かを探っていきたいですね。
信原 制作は最高の理解であるという考え方がありますが、意識を作り出すことで、意識を理解しようというアプローチですね。これを実現するにあたって、技術的にはどこが一番の課題になるでしょうか。
渡辺 意識の湧いた機械を作って、視覚的意識を確かめるところまでなら、あと一〇年くらいでできるのではないかと思っています。もちろん、僕がひとりですべてを開発するということではなく、他の研究やスタートアップなどの成果、コンピュータのスペックの増加、そういったことがこの先発展し続けることをかんがみての目論見です。
そのうえで一番の課題は、機械脳の精度を高めることだと考えています。少し時間はかかると思いますが、マインドアップローディングも、僕が生きている間に実現させたいと考えています。僕自身がアップロードされたいですからね。あと三〇年くらいは頑張って生きられると思っていますが。
【続きは本書でお楽しみください!】
【目次】
まえがき/信原幸弘
第一章 意識という「究極の問い」を問う
コウモリは世界をどう知覚しているのか
ハードプロブレムを‟ノンハード化”する
マインドアップローディングとは何か
マインドアップローディングの方法
自分の脳で機械の意識を確かめる
制作は最高の理解である
第二章 哲学の意識、科学の意識
哲学的ゾンビは存在可能か
「痛い」という感覚の機能とは?
哲学は言葉遊びか
自然科学も価値中立ではあり得ない
第三章 「脳と意識」をめぐるテクノロジーの現在地
意識の湧く機械脳の作り方
生成モデル仮説──意識を生じさせている脳の仕組み
機械脳の学習方法
記憶を転送する
能力を増強できる世界をどう考えるか
培養された脳は意識をもつか
「生き様」を考えることが鍵になる
第四章 自己同一性とは何か
人格を決めるのは身体か、記憶か
物体の同一性と人格の同一性の違い
なぜ青虫から蝶に変わっても同一だといえるのか
機械の中で目覚めたときに自分だと思える条件
自己の劣化をどこまで許容できるか
第五章 アップロードで根本から変わる「人間」のあり方
「避死」の技術
アップロード者は大往生できない?
なぜ死が怖いのか
「物語的自己」を生きる
肉体からの解放で精神の自由は得られるか
アップロード者の欲望と理性をどう設定するか
第六章 アップロード世界のウェルビーイング
途方もなく自由な世界の中で、どう生きるか
アップロード世界ではルソーの「自然状態」が可能になるか
分人を作って生きることはウェルビーイングか
意識の統合の可能性
情動の「正しさ」
テクノロジーの明るい未来を描くために
あとがき/渡辺正峰
(取材・構成:寒竹泉美)
【著者プロフィール】
信原 幸弘(のぶはら・ゆきひろ) 1954年、兵庫県生まれ。東京大学名誉教授。専門は心の哲学。著書に『「覚える」と「わかる」』『意識の哲学』『情動の哲学入門』など、共編著に『シリーズ 心の哲学』全3巻、共訳書にブラックモア『意識』など。
渡辺 正峰(わたなべ・まさたか) 1970年、千葉県生まれ。東京大学大学院工学系研究科准教授。専門は神経科学。著書に『脳の意識 機械の意識』『From Biological toArtificial Consciousness』『意識の脳科学 「デジタル不老不死」の扉を開く』など。


