「性同一性障害」だったわたし
最近はやりの芸人のネタのなかで「女に生まれてよかった」というセリフがあるけれど、それが笑いにつながる仕組みやそこにこめられた風刺や皮肉、またそのネタが書かれ、受容される素地となっている、いまだ世間に根をはる性差別的な構造をあきらかにしなければならないだろうことをいったん横におくとしても、自身の生まれ持った性に違和感を抱きつづけてきたわたしとしては、晴ればれとした心持ちでそう叫んでみたい欲求に駆られてしまう。いったいどれだけのひとが、自身の持って生まれた性を、心の底からよかったとおもえているのだろうか。いや、実際には約半数のひとびとが、生まれ変わってもいまとおなじ性別でありたいと回答しているアンケートを読んだことがあるので、存外に多くのひとが自身の性を肯定的にとらえられているし、そうでないひとでも、これまでの人生で一度くらいは、そう実感できているのだろう。
男女雇用機会均等法が施行された次の年に生まれたわたしは今年で三十歳になったというのに、世の中にはまだ性別の壁が聳えているようだし、わたしはわたしでわたしの性/生を肯定できないでいる。わたしがわたしとして生きつづけることの困難さに喘ぎつづけている、とでもいえば甘やかしすぎなのかもしれないけれども、他人をうらやみながら「こうであったらいいのに」とないものねだりをかさねる毎日にはさすがに嫌気がさしているし、だからといって余所さまから浴びせられる、ときには辛辣な目線は相変わらずで、いかにも惨めでむなしく感じられるのはつまり、自身の心性がそうだからに違いない。むろんこうした不都合ともいえない不満やわがままは誰もが抱き得ることなのだろうが。
よく誤解されているいるようだが、「性同一性障害」――最近では「性的違和」といい換えられることも多く、これらは疾患名であるため、専門医からの診断なしには自称できないことになっているが、精神科にかからなければならないことを懸念して医師の診察をうけずにいるひとも多く、そうであれば「トランスジェンダー」ということになる――の当事者は、生まれ持った性とは違う性がうらやましいのではない。個人差は大きいけれど、生まれ持った性とは違う性が自身の本来の性なのだと信じきっているし、その確信が揺らがないがゆえに、幼少期からとても近しい関係のひとたちとの軋轢や、おもう通りには生育しない自身のからだを持て余し、世間が浴びせる露骨な不快感にときには罪の意識さえ芽生えさせてしまう。そうした圧力に屈して、自身の性に対する決定的な違和感を覚えながらもそれをまったく表現できないでいるひともたくさんいるし、ひとたびそうであることを告白してしまえば、家族や友人から変質者あつかいされたり、重大な精神疾患を抱えた憐れなひととでもとらえられてしまう。しかしながら実際にはわたしもふくめて、それこそ重大な欠陥を抱えた障害者であると自分自身で決めつけて、甘美な自己憐憫の情に浸りきってしまっていることもままあって、それでは結局は病人あつかいする世間を咎めることなど、しょせんできるはずもないのだ。
まったく、不毛極まりないけれども、「わたしとはなにか」と問いつづけることをやめられないわたしからすると、なぜわたしはこうも不幸な境遇なのか、とだらけた妄想に耽ってばかりいて、とりあえずは配慮すべき対象として目されはじめてもいるこの疾患名を免罪符に、ひきつづき自分を甘やかしてばかりいる。とはいえ、それでは「女性」であるのに「陰茎」があって「乳房」がないことが、いったいどれほどの問題なのだろうか。「幸いにして」わたしは身体の性も戸籍上も「男性」でありながら「女性」として生活を送ることに、いまのところは大きな支障もきたさずにいる。いつも踏み絵を踏まされる感覚にどこか怯えながらも女性用トイレを使い、女性専用車両を使っているが、これまで注意されたり警察に通報されたりしたこともなければ、また誰かから奇異のまなざしを向けられたことも(まだ)ない。
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