Z世代以降の昭和礼賛に透けて見える幼稚さ
以前にこんな記事を書いたわけだが、Z世代以降のクソキモい昭和礼賛に透けて見える幼稚さというか、違和感の正体がようやく言語化できる段階になってきたので、今回はそれをより詳細に深掘ってみよう。
近年、Z世代を中心に「昭和ってエモい」「昔の方が熱かった」などといった昭和礼賛の声がネットを中心に散見されるが、その言葉の多くはその時代を本気で生きていた人々の背景を無視した「上っ面の賛美」に過ぎない。
なぜそれが気持ち悪く、違和感を覚えるのかに対して、本稿ではその根底にある幼稚さを解き明かしてみよう。
1、Z世代とバブル世代の「甘やかし構造」
Z世代は“デジタルネイティブ”とされるが、彼に近いのは“アナログネイティブ”であるバブル世代であり、自分の努力ではなく「景気に支えられて運よく勝ってしまった世代」である。
一方でZ世代もこれと同じであり、小さい頃からデジタル機器に囲まれ、情報もサービスもワンタップで手に入るのがごく当たり前の環境にいる。
考えなくても、調べなくても、困らなくても生きていけるという、そういった環境で育った結果「努力」「試行錯誤」への耐性が極端に低くなった。
その結果、Z世代は“ちょっと頑張った人”を過剰に持ち上げるようになってしまう、なぜなら自分たち自身はその「頑張る側」「挑戦者」の土俵に立ったことがないからだ。
具体例で言おう、例えば私は予備校時代に本気でやっていた時に周囲から特に英語で「凄い」って目で見られてたし、何なら今の仕事でも結果がきちんと出るようになって同僚や後輩から「凄いじゃないですか」と言われるようになった。
だが、私自身はそういう周りの称賛に耳を貸したことなど一度もない、なぜならば俺にとってはその基準値こそが「当たり前」だし、もっと上の基準値でやっている人達は沢山いるわけで、「まだまだだね」の感覚がある。
それこそ越前リョーマは常に上を目指しているから「まだまだだね」が口癖だし、その前身となった「スラムダンク」の流川楓も桜木がやっとこさ身につけたジャンプシュートをこんな言い方をしている。
そう、「何百万本と打ってきた」と言っている、もちろん「何百万本」と言うのはモノの例えだが、それくらいに高い基準値で尋常ならぬ努力を陰でしてきたからこそ、片目を潰されても余裕でシュートを決められるのだ。
これをおそらくZ世代以降は純粋に「凄い!」と思うだろうが、リアルタイムで読んでいた俺にとっては「この程度はできて当たり前、それを凄いと思って憧れているうちは一生追いつけない」と思って読んでいた。
だから、バブル世代もZ世代も大した努力せずに楽して成果を手にできてしまうからこその後ろ向きな諦めにも似た合理思考になってしまうのだろう、自分たちは何も頑張らなくても成果だけは手にできるからいいという。
そこの感覚が共通しているからこそ、私はZ世代のことを「デジタルネイティブ世代」である以上に「デジタルラッキー世代」であると思うのだ。
2、「努力しない側」からの昭和礼賛が気持ち悪い理由
SNS上で見てみると、「昭和時代のヒーローはあれだけの苦境に立たされながらも必死で守っているのがかっこいい」「この思想共感できる」みたいなことを平気で言っているが、私に言わせればそれは「違う」と言わざるを得ない。
昭和ではないが、私が批判的に論じた「ゴーゴーファイブ」も「最初は嫌々だったのに、街が危険になると戦士の顔になるのがカッコいい」とか、それこそ「ジェットマン」も「普段仲間割れしてるのにバイラムが絡むと一致団結する」なんてことを言っていた。
いやいや、それは俺に言わせれば「ヒーローなんだからごく当たり前」であって、世界の危機を前に何をおいても最優先で行動できるのは「必要最低限」であって、その程度のことを褒められるというのは相当に「努力」「頑張る」の基準値が低い証拠だ。
ヒーローは職業倫理と責任の化身、すなわち特殊能力や装備を与えられ「お前たちが守らなければ世界は滅びる」と言われている存在を無批判に褒め称え「感動」してしまうことは逆にヒーロー達に対する侮辱に他ならない。
Z世代はかつてのヒーローたちを「熱くてかっこいい」と持ち上げるが、その奥底に透けて見えるのは覚悟と責任をどこか「他人事」として消費しており、「我が事」として落とし込めていないことへの違和感だ。
そのくせ、批判や批評に対する耐性はなく、ちょっとでも厳しく叱ろうものならすぐにメンタルが潰れてしまうというところであり、厳しいことをズバッと言われてもそれをごく当たり前のものとして受け止めてこそ強くなれることに気づかない。
だから彼らの語るヒーロー論には全くと言っていいほど「重み」「深み」もなければ「優しさ」「厳しさ」のような「温度」がない、だから述べてる内容自体がいかに尤もらしく立派であろうと、そこには「言霊」が宿らないのだ。
いいものはいい、ダメなものはダメだときちんと判断することもできないくせに、そういう人に限って例えば令和に入ってからの「ドンブラザーズ」以降を「戦隊ではない」などと安易に論じてしまう。
今や努力や覚悟の濃度は激減したことで基準値も低くなっており、「ちょっと頑張ったら偉い」「人より少し背負ったらヒーロー扱い」される時代になっている。
それは称賛のインフレ化であり、真剣に何かを成し遂げた者からすればごく当たり前にやっていたことがさものちの世代に「偉業」「伝説」であるかの如く崇め奉られる様には耐え難い違和感しかない。
昭和のヒーローたちは「死んでも守る」「やらなきゃ誰がやる」といった信念を“当たり前”として行動していたから、人の命の重みなど言葉にせずとも当たり前にわかっていた。
それに対して「ゴーゴーファイブ」では毎回の如く「人の命は地球の未来」と会社の訓示みたいに様式美として叫び、「助けてくださってありがとうございます」と民衆からの安っぽい称賛で完結してしまう。
ヒーローを讃えること自体は悪くないが、「自分はやらないけどやる人はすごい」では、ただの評論家気取りの無責任であり、言うならば「NARUTO」に出てくる木の葉の里の腐った民衆と同レベルである。
3、「思想がすごいから名作」という薄っぺらさ
Z世代の人たち自身と私が交流を持たせていただいた上で違和感があったのは彼らがやたらに「思想」という言葉を惹句のようにして軽く消費してしまっていることだ。
例えば「鬼滅」程度を「思想」などと言ったり、何なら「ゴーグルファイブ」に出てくる「二度とこのように人間の築きあげたものが滅びる事がないように、光り輝き続けるようにとの願いが込められているんだ」すら「思想」に映るらしい。
だが、これを脚本としてセリフに落とし込んだ曽田博久がなぜこのセリフを本郷博士に、しかも物語の冒頭で言わせたかという背景に対する想像力が欠けていて、そこから「学生運動の元活動家としての曽田博久」というところに至ろうとしないのだ。
別にこれを書いてる曽田博久自身は自らのことを思想家だとも思っていないだろうし、リアルタイムで本作を見ていた視聴者にとってはこの程度のことはごく当たり前だと思って見ていたのではなかろうか。
そして彼らはそうやって「対岸の火事」感覚で無意識に消費してるだけで、本気で何かを頑張ったり成し遂げたりした成功体験がないから、本気で語る人間を「痛い」などと切り捨てる。
例えば私のことを「ギンガマン以外の全てをくさすイタい奴」と揶揄する人をちょくちょく見かける、それ自体は別に文章を書いた私個人に対する主観的判断だから別にどうでもいい。
だが、私が書いた文章の内容を吟味も検証もせず、ましてや土俵にすらも立たないのは自己正当化と逃げ道作りに特化した他責思考の塊でしかなく、自分の中に軸がない証拠なのが透けて見える。
真剣に何かを語ることを「恥ずかしい」と感じるのは、時に容赦無いフィードバックをしながらも磨き上げていくのをダサいというのは、自身がそれに立ち向かったことがないからだろう。
本気を嘲笑し努力を「ダサい」とする風潮の中では、昭和的な「覚悟の美学」なんて理解も到達もできないだろうし、そういった上っ面を撫でるような感覚では昭和がどんな時代だったかすらわかるわけもあるまい。
そのくせ「思想がすごいから名作」というのは、逆にいうと実際のところはどうかということをきちんと検証すらしないし、時には常識を疑い別角度から批判的に論じることすらしないのだ。
だからZ世代の語る昭和礼賛やヒーロー論がつまらない、野暮ったくてダサいと思うのはそういうところから来るのかもしれない、新しいことを語っているようでいてその実ただ過去に誰かが語ったことの縮小再生産を繰り返しているだけ。
4、本気で生きてない奴に、昭和の本質は見えない
Z世代が「昭和はエモい」と言うたびに、その浅さが透けて見える。
彼らは昭和を真の意味でリスペクトして礼賛しているのではなく、自分たちにできないことを、安心して褒めるための安全な偶像として崇拝し消費しているだけだ。
そのくせ、じゃあ自分たちはどうなのかというと最初から「俺には無理です」と最初から及び腰というか頑張ること、努力の土俵にすら立たない。
本当に昭和の生き様や美学を理解したいなら、昭和の人たちと同じ基準値で目的→目標→戦略→戦術を立てて、その高みに到達してから言って欲しいものだ。
少なくとも昭和世代のことを「凄い」「憧れる」などと言っているうちはまだまだだと思う、本気で頑張ってると称賛なんてどうでもよくなる。



コメント
2今回だけ令和以降の戦隊を持ち上げているような文章が入っていたのは何故なんでしょうか?
このnoteを見て、自分が真っ先に思い付いたのはゴジュウジャーの9話でした。
それこそ、Z世代の脚本家(おそらく)が昭和を褒めたたえている話そのものです。
そういう事をやってのける令和以降の戦隊に花を持たせるようなことを書いているのはどういう意図なのかがわかりません。
氷河期世代の末期ですがZ世代は(若いのもある)人生経験も(ネットの充実だけ)歴史観も浅い関係から見せかけのインパクトだけでモノを言っているだけに思えます