「手話」実は宮城に“原点” 普及に尽力した2人の人物がいた「使うのをやめろ」かつて迫害の歴史も【デフリンピック日本初開催】
東北放送
特集は、日本で開催されている聴覚障害者の国際スポーツ大会=デフリンピックにちなんで「手話」についてお伝えします。手話は現在、1つの言語として普及していますが、この手話の普及に大きく貢献したのが宮城県出身の2人の人物です。手話の知られざる歴史を深掘りします。 【写真を見る】「手話」実は宮城に“原点” 普及に尽力した2人の人物がいた「使うのをやめろ」かつて迫害の歴史も【デフリンピック日本初開催】 仙台市太白区にある県立聴覚支援学校です。小学6年生の佐藤晴人さんは、生まれつき耳が聞こえません。先生とのコミュニケーションは手話や指文字です。 佐藤晴人さん: 「社会の勉強が楽しい、5年生の時から歴史に興味があって。6年生になって新しいことを勉強するのが楽しい」 手話は、手や指の動き、表情を使って視覚的に表現する言語の一つです。宮城県では、2021年に手話を言語とする条例が制定され、塩釜市や名取市も独自の条例で手話への理解を深めています。 櫻井悠里教諭: 「聴覚に障害のある子どもたちにとっては情報を理解したり、情報をもとに考えたりする重要なツールだと思う」 しかし、手話はかつて迫害されていた歴史があるといいます。 ■迫害されていた「手話」 仙台市青葉区国分町にあるBAR「セイム」の店主、加賀高陽さん。県の聴覚支援学校などで勤務した元教諭です。昭和初期より前、聴覚障害者とのコミュニケーション方法は、手話ではなく口の動きなどから言葉を読み取る口話教育が主流だったといいます。 加賀高陽さん: 「手話は猿真似だからやめろと、口話が主流で迫害されていたわけです手話は。でも根強く、ろうの人たちが手話は自分たちの文化だということで続いていた」 現在では言語の一つとして認識されている手話。実は、その原点となる人物は仙台と深く関係しています。 加賀高陽さん: 「その2人のきっかけがなければ今、日本で使っている手話はない」 東北学院大学土樋キャンパスにある東北学院史資料センターです。ここでは、東北学院の歴史に関する資料が展示されています。 東北学院史資料センター 安部茂徳課長補佐: 「高橋さんと大曾根さんの展示はこちらになります」