善人は頭がおかしい
VRChatの悪口を言った人がバズって、叩かれて、仲直りして、人気者になっていた流れをみていておもうのだが、あれはだいたいわたしのおもう健常者のかたちをしているなと。
わたしはあの狂気に染まれない。なので、おそらくふつうのひとではないんだけど、それでいいと思っている。
あの感じってなんなんだろーなー、とおもって、べつに考えはまとまっていないけれど、書きながら理解したい。
あの悪口は正当な愛の感覚や常識にに基づいているように見える。この正当さというのは、お互いうまくやろうやっていう社会的な正しさだ。社会を「回す」ことを前提とした正しさだ。お互いなんかうまく思いやって気持ちよく生きていこうや、という、社会的動物としての正当さだ。
最初読んでいて、悪口を書いた人にはつまり協調性があるんだなとおもった。悪口のなかにも協調性がある。それが、協調性のない人に刺さり、協調性のない人にモヤモヤしてた人は賞賛した理由なのかもしれない。自分はキレながらふつうのことを書いているだけだなと思って何もおもわなかった。
でもわたしは、そのあとの、仲良くなるフェーズまで見て、あーこれ、よく見るやつだなーと思った。なんていうか、雑っていうか、人のモヤモヤとか、自分の暴力性を、「ふつうの人」がなあなあにする手管なんだよな、とおもった。でも、そうやって、ふつうの人はいろんなことをノリでなあなあにしていくんだよな。そして、ガチで傷ついて、怒ってる社会不適合の人間たちの怒りは、なかったことにされる。というか、傷ついた本人たちも、怒ってたことをなあなあにして、飲みに行こうぜとかいう。前のめりでいる。
マジョリティであることの吸引力。エモさの暴力。
わたしは社会不適合ってほどではなく、人とコミュニケーションはとれるんだけど、ふつうの側の人間ではないので、やっぱりあの人のふるまいには、違和感を覚える。でも、あの人たちのふるまいに違和感を覚えるというのは、日本人の社会に違和感を覚える、ということに等しいと思っている。日本人って、だいたいあんな感じだ。
日本人は感情的で、どろどろしている。意見を持っていない。自他境界がない。なので、感激しやすいし、だましやすい。エモくすれば、なんでも言うことを聞く。エモけりゃ、いいのだ。
わたしは、子供の頃からそうではないタイプだったというか、そうある自分に気づかざるを得ない機会が多かった。
日本の曲も、だいたいエモい。とくに最近は、エモがっている。マイナートーンで、きんぐぬーとか、なんか感傷的なことを言う。そうすりゃいいと思ってるんじゃないかというくらい全員エモいし感傷的だ。
わたしは、そういう「ふつうのひと」に、そして「エモさ」に、黙殺されてきたものとかひとが、いまもたくさんあると思っている。
というか、いまの日本社会の生きにくさというのは、むしろその、エモさとか感動みたいな気持ちよさの、多数決のポルノで違和感に蓋をしてよしとする、押し入れ文化みたいなもの末路だと思っている。
ああ日本だ、と思う。
それは、個人個人が悪い人だから起きることではなくて、個人個人が「いい人」でしかないから起きている。みんな、「エモ」に弱すぎる。人をぶん殴ったあとに、肩を組み、友達になれたというときの感動や、気持ちよさに流され過ぎなのだ。酒を飲み、酔って「共感した」とき、本当に、そこにあった痛みは、チャラにできてると思っている。
でもそうじゃないとわたしは思う。だれとでも仲良くすることよりも、ずっと大事なことがある。大切に守るべきものがあると思う。というよりも、それを大事にしないかぎり、本当の意味で優しくはないし、善人でもない。むしろ、暴力をなすマジョリティに所属するというだけのことだ。
大前提として、わたしたちは違う人間であるし、わかりあえない。
そのことを、なぜ悪いことだと思うのかも、わからない。そのことに、傷つく必要もないと思うわたしからすると、共感やエモさですべてをうやむやにできる感覚が、全くわからない。
政治家を、なんとなく雰囲気で選ぶとか、のりで選ぶ日本が、そのまま表れている。なんでこうなんだろうと思う。そしてわたしは、この日本という国の特徴を見るたびに、いつも、日本が敗戦国で、アメリカの植民地なのだというところまで、意識が及ぶ。
アメリカは、戦後日本にやさしかった。
だけど、アメリカはわたしたちに原爆を落とした。
戦争で鬼畜米兵といったあとに、わたしたちの祖父母や総祖父母は、ぎぶみーチョコレートといった。アメリカの土台の上に、わたしたちは先進国になった。
日本人は、骨の髄まで、その自己卑下が染みついているのだと思う。
自分が目の前の相手ではないことに本質的に気づけないのは、自分の家族が殺されたことまで、昔に「なあなあ」にしてしまったからだ。自分の痛みに気づいてしまったら、痛いからだ。
国が与えられた暴力を国民に施し、国民一人ひとりもそのモラハラをものすごく内面化していて、簡単に、自分も他人も粗末に扱っている。
それもこれも、自分の違和感を黙殺し、結局エモけりゃなんとかなると思っているからだ。そこにある本当の痛みとか、怒りも、エモがどうにかしてくれる。だから、忘れ去ったつもりになれるのだ。
痛いと感じたことは消えていない。過去は消せない。エモに狂うとそんなことを置き去りにする。殴られたことを忘れると、殴られたことが大したことではなくなってしまう。
これ、アニメのせいもあると思っている。アニメは、人間を単純化して描いている。あんな変な声を出してわーわーいう人間いないし、アニメみたいな気持ちいい展開なんて現実にはそうそうない。だけど、アニメみたいな恰好をしたがる女は増えたし、アニメっていうものが一般層にまで根深く浸透して、エモさと単純さというのがあらゆるひとのベースになっているように思う。
日本人よ、もっと怒っていい。もっと、拳をにぎりしめていい。わたしたちは孤独で、わかりあえないという、絶望こそがわたしたちをうつくしくするのに、なぜ、エモさに流されるのか。
あなたはたったひとりのにんげんで、あなたの痛みや、感情は、あなた以外の誰にもわからない。その高貴な独特なうつくしさを、どうして簡単に溝にすてるんだろう。
わたしは、わかりあえないことににこそ、美とやさしさがあると思っている。だけど伝わらない。わたしはおそらく大衆派ではないから、わかってもらえないだろう。何をばかなことを、おまえもエモがり、人を愛そう、というだろう。
でも、あなたがエモいからってうやむやにしたことが、世界をわるくしてるんだとわたしは思う。わかりあえないってことをこわがるから、どんどんポルノに弱い頭になっていくんだと思うよ。
だから、だいたい、どれを読んでも、いいなとは思わない。SNSもそう。対立とか、そういう話じゃない。対立してしまうときには、何か裏にいる。何かしら、両者がとらわれている構造がある。
自分たちがどんなステージに無意識に立たされているかということと、そのステージを降りようという話をわたしはしているので。そのステージを降りたときにしか、愛ってないと思う。
べつにいいけど。よくないけど。
メモ
こういうエモさって、昭和の時代ってすごく健康に機能してたのかもしれないなと思う。わたしは寅さんがすきだ。寅さんは、暴力やモラハラが、いきいきと意味をなしていたことをおしえてくれる。昭和のあたたかさ、希望、財力、そういうものがあるとき、暴力とモラハラはきちんと愛があったんだよ。寅さんをみたらわかるよ。
社会がぐるぐる回って、よくなるだけ、っていう感覚のもとであれば、ああいうたぐいの暴力って無視できるし、むしろ心地よいものだったんだが、現代の日本ってもう衰退のための道筋しか残ってないから、悪口本舗みたいな健常な側とされるひとびとの狂気や暴力を看過する余地がなくなってると思っているんだよ。
みんなが思う以上に、ひとりひとりがやさしさや愛についてきちんと考える社会にならないといけなくなってる気がする。その出発点は、自身の心のひだをどれほど本当に大事にするってどういうことなのか、だと思う。
その点で、自分の感情をアドレナリンでうやむやにするエモさとか、感動ポルノとか、SNSでバズってるツイートっていうのは、ほぼ害悪だ。


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