鉄骨むき出しのホーム跡、まるで“残骸”のような痕跡も…福岡の中心部から40年前に消えた“ナゾの廃線”勝田線の跡には何がある?
巨大なプラットフォームを発見
イオンモールから先に進むと、左手には小高い丘とひときわ目立つ古びた背の高い構造物。そして、プラットフォームなどもそのままに残された志免鉄道記念公園が待っている。 勝田線においては最も大きな規模を有していた、志免駅の跡である。 かつて、勝田線の沿線にはいくつもの炭鉱があった。中でも代表的なものが志免炭鉱だ。志免駅跡の近くにある背の高い構造物は竪坑の跡、小高い丘はボタ山だ。 戦時中までは海軍の直営、戦後は国鉄の直営炭鉱として続き、1964年に閉山している。つまりここで掘られた石炭が海軍の軍艦の燃料となり、戦後はSLを走らせたのだ。 そして勝田線も、志免炭鉱をはじめとする炭鉱の石炭輸送で活躍した、炭鉱路線としての歴史を持つ。
かつては石炭を運びまくっていた
勝田線は1918〜1919年にかけて、筑前参宮鉄道によって開業している。“参宮鉄道”の名の通り、ひとつの目的は沿線の宇美八幡宮への参詣客輸送。そしてもうひとつが石炭輸送だった。 世相も戦時色が強くなってゆくと、参詣客輸送より石炭輸送の比重が大きくなり、戦時中には西日本鉄道への合併を経て国有化される。 並行する香椎線と間に連絡線も設けられ、沿線には炭鉱住宅がずらり。石炭を運んで運んで運びまくり、まさに帝国の命運すら左右するほどの重要路線だったのである。 戦後も志免炭鉱が国鉄直営になったこともあって、勝田線は炭鉱路線として続いていった。しかし、徐々に石炭のニーズは減ってゆく。 昭和30年代には、志免炭鉱の民間への払い下げ方針も決定している。この払い下げは労組の猛烈な反発もあって実現せず、結果として国鉄の手で志免炭鉱は閉山した。 そして志免炭鉱の閉山で大きな役割を失った勝田線は、途端に超のつくローカル線へと立場を変えてゆくのである。
なぜ人口増なのに廃線に?
ドル箱だった石炭輸送を失っただけでなく、旅客も激減する。1960年には年間約260万人いた旅客は1975年に約60万人、4分の1以下にまで減っている。 石炭とともにあった町と路線が、炭鉱閉山と共に衰退してゆく……。この時代、日本中あちこちで見られた風景である。 ところが、勝田線の凋落とは裏腹に、沿線一帯は活気づく。というのも、福岡市の発展に伴って、そのベッドタウンとして急速に開発が進んでいったのだ。 炭鉱住宅は次々に現代的な住宅地に生まれ変わり、周囲の丘陵地は切り開かれてニュータウンへ。昭和50年代、勝田線沿線は福岡県内でもトップクラスの人口増加率だったという。 しかし、こうした沿線の発展から勝田線は完全に取り残されてしまった。炭鉱の町がベッドタウンに変わっても、勝田線だけはいつまでも炭鉱路線、といったところだろうか。 沿線の町からはひっきりなしに西鉄の路線バスが走って博多や天神までを結び、ほとんどの家庭はマイカーを持つ。そうした中で、1日に5〜6往復しか走らない古びた勝田線は、たいした役に立たない。 時は国鉄末期、莫大な赤字を抱えて元炭鉱路線を現代的な通勤路線に変貌させるほどの余力がなかったことも影響しただろう。勝田線は、“ひとつ前の時代の象徴”になってしまったのである。 そうして1985年に勝田線は通勤路線化することもなく、廃止になった。 跡地は沿線自治体に譲渡され、多くの区間が遊歩道に生まれ変わった。志免駅の跡から先も、ほとんどの区間が遊歩道として整備されている。
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