アンジェラ取締役のCEOへの道 その1
この話はこれでもできうるかぎり簡略化して書いています。
「お嬢様。
サブプライムローンというのはご存知ですか?」
アンジェラのその一言は、まるで悪魔のささやきのように私の耳に届いた。
桂華証券北米事業統括取締役として彼女が何によって利益を出そうとするのか、その席での発言である。
「サブプライム、プライムじゃなくて、『サブ』プライムって事?」
何も知らないフリをして確認する。
これが破滅の罠なのは私しか知らない。
アンジェラはそれを知らないからこそ、堂々と私に説明する。
「はい。
プライム、つまり優良客より下位の客層をメインにしたローンですね。
現在のウォール街はこれが盛り上がろうとしています」
発端は9.11から始まった米政府の危機対処政策に伴う大量の金余りだ。
同時多発テロからITバブル崩壊にイラク戦争と米国は戦時政策として政策金利を大幅に下げ、市場は金余りからのバブルに向かおうとしていた。
その過程で注目されたのがサブプライムローンである。
「米国において社会階層のステータスとして2つのものがあり、それに対するローンは信用に応じて供給されています。
一つは車。
米国は車社会で、車が有る無いでその人の信用の有る無しまで図られます。
二つ目が家。
ここまで来るとそこそこの成功者として米国社会では見られるようになります。
この2つのローンですが、プライム層こと優良顧客はあらかた他の金融機関が独占していますが、危ないサブプライム層についてはまだ手を出している連中が少ないのです。
桂華金融ホールディングス北米部門は、これに手を出したいと考えているのですがいかがでしょうか?」
戦時という信じられない低金利下でバブルが発生した為に、米国の景気は決して良くはないのに地価が高騰しだしていた。
80年後半から90年初頭にかけての日本と似たような状況が米国において発生しようとしている。
そして、その行き着く先を私も一条も知っているし体験している。
同時に私と一条CEOは視線を交わす。
これはやばいと互いに確認を取った。
サブプライムローンの金利を指差しながら、まずは一条CEOが懸念を表明する。
かつてのバブルの金利ですらありえない金利がそこに書かれていたからだ。
「住宅ローンが頭金無しで年利8%!?
無茶だ!!」
金利というのは貸し借りに関する利子であるのだが、金融関係者にとってもう一つの見方がある。
それは、貸し倒れ率、つまり金利が高ければ高いほどそのお金は返ってこない可能性があるという事だ。
年8%という金利は、『一千万円貸して、八十万円の利子が入りますよ』という意味と『8%の確率でこの一千万円は返ってきませんよ』という意味を持つわけだ。
13人に貸すと、1人は返さないという確率は大金を貸すだけに無視できるものではない。
「ですので、最初4年の支払いは低く抑えて、元本を膨らませた上で5年後から一気に高くする形にします。
その間に地価が上がってくれれば、ローンの借換えで返済できますよ♪」
その言葉、バブルの日本で散々聞いたぞ。
というか、私はその頃赤ん坊だったんだけどな。
アンジェラの説明には淀みがない。
サブプライムローンというのは当時の金融工学の最先端技術を用いた芸術的作品だった。
だからこそ、誰もその実態が分からずに破滅に突き進んだのだが。
アンジェラはそんなウォール街の金融工学に精通していた。
「一条CEOの懸念はご尤もです。
ですから、この金利を下げる方法を用います。
プライム債権とサブプライム債権をくっ付けて、リスクを軽減するのです」
年利8%一千万円の債権に年利1%一千万円の債権をくっ付けると、年利4.5%の二千万円の債権となる。
これを、年利4.5%の一千万円の債権✕2として売るという訳だ。
バブルの後始末の現場に居た一条CEOがこの問題点を指摘する。
「日本では地価の下落が全ての資産価値を劣化させていった。
これでは、一杯のワインに一杯の泥水をぶち込んで、結局二杯とも飲めなくなるのがオチだ」
一条CEOの指摘にアンジェラは動じない。
ここからが、このサブプライムローンの悪辣極まりない所である。
「その可能性は否定しましせん。
だから、このローンの販売に徹して、手数料だけいただきましょう♪」
唖然とする私と一条CEOを気にすることなく、アンジェラはその悪辣な仕掛けをウォール街の論理で楽しそうに語る。
アンジェラとはそこそこ長い付き合いだが、こういう所で価値観の違いが出る。
「まず、サブプライムローン専用のファンドを設立し、ここで大量のサブプライムローンを作り出します。
このファンドの資金供給は桂華金融ホールディングスにお願いしようと思ったのですけど、お二人の顔色を見たら止めた方が良さそうですね。
ファンドの資金は日本市場から低金利で借りちゃいましょう」
何を言っているかと言うと、最初の金の貸し出しについてだ。
現在低金利のせいで市場にはお金がだぶついていた。
日本なんてのは0金利政策があったぐらいで、この時期0.25%で資金が借りれたのだ。
為替によるリスクヘッジは必要だが、上の話ならこうやって日本で0.25%で借りた資金二千万円を米国で4.5%で貸す。
濡れ手に粟の大儲けの出来上がりである。
そして、アンジェラの話は更にエグくなる。
「そうやって得たサブプライムローンに、国債等をはじめとした優良債権を混ぜて、これを『証券』として売るんです。
債権はそのまま投資家の所に入り、我々は手数料を頂いてこの証券は手元に残らない。
金利徴収と支払いの代行もお二方の顔色からしたくないみたいなので、その権利も別の金融機関に売ってしまいましょう。
ほら。
我々の所には、手数料だけでリスクなんて何処にもありません」
「いいの!?それ!?」
私がたまらず声を上げる。
実質的な売り逃げの上、売った後のフォローすら自己責任という徹底した弱肉強食の論理がそこにはあった。
そして、私の懸念をアンジェラはまだ理解できていないからこんな事を言う。
「お嬢様はお優しいですから、リスクを押し付ける事に嫌悪感があるのかもしれません。
ですが、双方納得した取引ならば、詐欺同然でも取引なのです」
「というか、イカサマ込みのギャンブルだろう。これは」
たまらず一条CEOが突っ込むが、アンジェラは動じない。
ウォール街の天才たちが、無数の馬鹿どもを食い物にする為に作られたシステムなだけに、聞いている限りでは隙がない。
「正確には、イカサマである事を最初から提示する事で、公平性を演出するのです。
そのために第三者の目が必要になります。
格付け会社にお願いして、この証券の格付けをAAAにすれば、世界中から買い手が付くでしょうね」
ここであの格付け会社が登場する。
ITバブル崩壊でも、その前のロシア通貨危機でも彼らの格付けは何の役にも立たなかったのに、高度な金融技術ゆえに理解できない連中がこの格付けを盲信しているのは今でも変わらない。
なお、日本の金融機関は日本国債を基準に不良債権額で格付けされ、桂華金融ホールディングスは日本国債と同等の格付けを保持している。
つまり、日本国債と同等の信用を持つ金融機関が第三者のお墨付きを得た上で詐欺同然の証券を売り出すという訳で、ちゃんとリスク説明した上で買わせる辺りむしろ詐欺師よりも悪辣である。
「もちろん、お嬢様の信用に傷を付けるような事はしませんとも。
万一の損失に備えて、販売する全ての証券には保険会社から保険も掛けておきますから」
つまり、最初からデフォルト、つまり債務不履行の可能性込みでこれを売るという訳だ。
私の険しい視線にすらアンジェラは動じない。
「お嬢様。
保険というのは人生最大のギャンブルでございます。
たとえ、分の悪い賭けでもリターンが大きいならば、必ずプレイヤーはこれを買います。
少なくとも、今の大統領の間はこの金融政策は続くでしょうから、最低でも来年、大統領が再選したら2008年までこのローンは売れ続けます」
分かっている。
そもそも金融工学そのものがギャンブルみたいなものなのだ。
保険なんてその最たるもので、損失が予定期日まで発生しなかったらこっちの勝ち、その前に発生したらこっちの負けというギャンブルであると言っていいだろう。
「で、幾ら作ってどれだけ売り出すのですか?」
淡々とした声で一条CEOが確認を取る。
彼からすればそれが全て不良債権に成りかねないと付き合いの長い私はその声ではっきりと理解した。
まだ桂華鉄道の融資の方が日本国内で片付くだけ可愛いものである。
それに気付かないアンジェラは、小鳥がさえずるような声で私達の信じられない金額を言い放つ。
「そうですね。
お二人の顔色から見て、あまり良く思われていないみたいなので、安全マージンを取って一千億ドルぐらいにしましょうか?
手数料1%ほど抜けば、十億ドルが我々の利益になるはずです。
私の桂華金融ホールディングスCEO就任に誰も文句は言えなくなるでしょうね」
そう。
この話は、既定路線としてアンジェラが一条の次の桂華金融ホールディングスCEOに就くための道程でもあった。
寄せ集めの桂華金融ホールディングス内でムーンライトファンドを管理する信頼できる上位者がアンジェラしかおらず、彼女を数年後に桂華金融ホールディングスCEOに押し上げるには周囲が納得するだけの功績が必要だったのである。
その最適解としてアンジェラはよりにもよってこの地雷を踏み抜こうとしていた。
米国のステータス
車を持ち、家を買ったら、それを守るために、もしくは奪う為に銃をというのがデフォ。
ただ、銃はこの話からそれるので除外している。
頭金なし年利8%
なお、これでもサブプライムローンからすれば『安い』。
彼らのローン金利は10%が設定されており、それぐらい信用と資産がなかった。
2007年までこれが破綻しなかったのは、支払いが借り始めの数年抑えられており、その間に地価が高騰してローンを借り換えたから。
日本の住宅ローン?
下手すると1%も無かったんだよ。この時というか今でも……
プライム債権
その最たるものが国債。
これにサププライムをマゼマゼして総量を増やしたのがサブプライムローン証券の正体である。
格付け機関
ムーディーズやS&Pなんかが有名。
こいつらの格付けの格下げでどれだけの日本人金融関係者が激怒し涙を飲んだ事か……
保険
正式名称はCDS。(クレジット・デフォルト・スワップ)
日本の保険会社は不良債権を抱える銀行の保有株の劣化で地獄に落ちたが、サブプライム危機で国有化されたAIGは、このサブプライムローンの保証、つまりデフォルトが発生した事による保険料支払いによって国有化に追い込まれた。
何しろ全部マゼマゼだから、サブプライムローン全部の保証支払額の資金を要求されたのである。
なお、これで現在真っ青になっているのが、ギリシャ国債やイタリア国債やスペイン国債あたりにCDSをかけまくって中国投資で返済をと企んでいたドイツ銀行である。
あっこ飛ぶとリーマン以上の惨事が待っているんだが……
安全マージンをとって一千億ドル
なお、サブプライムローンの総額はリーマン破綻時には2兆ドル近くにまで達した上、その16%ぐらいが不良債権化していたという……