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北前船は「弁才船」とよばれる型の船だが、これは元々瀬戸内のローカル船型だった。

弁才船は、大きな一枚帆、水押と呼ばれる船首材、隔壁がなく大板と梁で構成される船体等で特徴付けられる。
また、甲板が取り外し式になっていて荷役が便利であり、帆走に適した船型で乗組員が少なくて済んだ。
すべてが千石積めるというわけではないが、千石積み級の多くの弁才船が全国的に普及したため、後にこれも千石船と言うようになったそうだ。


17世紀中頃までの日本海を航行していたのは「羽賀瀬船」や「北国船」といわれる千石船だった。
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千石船とは、米が千石(2500俵)積める船という意味で、漠然とした大型船のイメージを示すものではない。
これは奈良時代からの伝統的な和船の表し方で、現在の船の大きさは排水量(容積)で表している。

北国船は大型船だったが、莚(むしろ)帆や茣蓙(ござ)帆を用いていた。
この帆は、風ですぐに破れてしまうのが難点だった。
そのため、櫓や櫂を常備し、操作する人員も必要だった。

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青森県深浦町の円覚寺に、日本で唯一の北国船の船絵馬があるが、オールで漕いでいる姿が描かれている。(写真は「風待ち館」にあるレプリカ)


弁才船が他の船型を圧倒し始めたのは、帆走専用の改良が加えられてからだった。
17世紀末頃になると、ヨットのように横風や逆風でも航行できるようになっていたという。
帆の上げ下げや伝馬船、錨、荷物の上げ下ろしをするためのろくろも設備され、千石船で比べると、北国船の船員数が24人だったのに対し、弁財船は15人で間に合った。

そして、弁才船は次第に巨大化していった。それと共に性能も上がっていく。

巨大化するのは、入港税が船の大きさに対してかけられていたため、税を安くし、かつ荷物をより多く積めるように船腹をふくらませて、積載能力を上げていった。

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船の大きさは、一般的に船梁の長さで測っていた。
航の長さ(船の長さ)、腰当船梁の長さ(船の最大幅)、腰当船梁から船底までの深さで計算した。
が、松前藩では航の長さの代わりに、船首から二番目の梁と蹴上船梁(最も船尾に近い梁)の間の長さを計測し、出港税を徴収した。
船体の深さは、海に浸かっていれば測れないわけなのだ。

18世紀初めの頃には、積載量は2割増しだったが、明治になると9割増しになっていたそうだ。
全国の寄港地で税を支払わなければならないので、頭が痛いことだろうが、恐るべき悪だくみ・・・

性能がアップしたのは、木綿の生産が盛んになり、木綿帆が採用され、さらに縫い方や生地の改良にあった。

また、船体には欅、ヒバや草槙を使用したようだ。
一般的に見栄えを良くしたい箇所には欅など木目の美しい材を用い、帆柱や帆桁は杉、舵身木は樫が使用された。

●舵
弁才船の舵は、時代が下るに従って大きくなった。
理由は、逆風帆走時の横流れの防止と入出港時の操船性能向上のためと考えられている。
舵の上端には長い舵柄がはめ込まれ、操舵に必要な力の軽減を図っている。

また、弁才船の舵の下端は船底より下に出ていたが、引き上げるのが比較的簡単で、浅い海域では図のように引き上げられていた。
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●碇
千石積み級の弁才船には7個の「四爪碇」が搭載されていた。
一番碇は80貫(300kg)で、以下 5貫下がりといって、5貫(18.8kg)ずつ、軽くなってゆき、七番碇まであった。
四爪碇は、鉄の角棒の先端を四つ割にして四方に曲げて爪を作った。

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以上、細かい部分は難しいことが多いので、省略して概略説明しました。

最後に、荷物を満載した弁才船の写真を・・・

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*記事や図は「近世期における日本の船の地域的特徴 小嶋良一」「海の総合商社ー北前船(無明舎刊)」を参考にしました。