1999年6月4日
重耳・介子推  J.W.


〔はじめに〕
 私は東洋史に多大な関心を抱いているので、主に中国を扱います。第一回めの今回は、特に好きな時代の春秋時代にスポットを当ててみます。周室は衰え、諸侯が覇権を争うこの時代、尊王攘夷を達成して諸侯の会盟を指導した覇者が登場します。春秋五覇の一人、晋の文公・重耳(位・前636~前628)の生涯を紹介します。


〔春秋時代~覇者の時代~〕
 春秋時代(前770~前403)、権威が地に落ちた東周(前770~前256)王朝に代わって中国を支配したのは、有力な列国である。強力な列国は、小都市国家の連盟をつくって盟主となり、中国をかわるがわる支配して、覇者と呼ばれる。春秋時代はこの覇者の時代であり、有名な覇者が五人いる。ごの春秋時代の強国として挙げられるのは、斉、晋、楚の三国であり、これにつぐ新興国として、秦、呉、越の三国がある。最初、北方中原の覇者となったのは名宰相管仲の補佐を受けた斉の桓公(位・前685~前643)である。
 斉にかわって北方連盟の盟主となったのが晋である。晋は周の武王の子、成王の弟が、山西省の汾水の流域に建てた周の同族の国であるが、西周(前11世記~前770)の時代にはあまり有名ではなかった。汾水流域の森林地帯には、異民族の狄が非常に多く住んでいて、晋は婚姻関係を結んで同化につとめたが、逆に晋もかなり異民族の風習に染められていったようで、春秋時代のはじめごろは、辺境地方の半野蛮国の観があった。しかし次第に国力も強大となり、春秋の中期ごろには、黄河北岸の大行山脈から、東方の平野に下って、次第に中原の政治に発言権を持つようになってきた。


〔兄申生の死〕
 時の晋の公、献公は雄才大略の君であった。正夫人に子がなかったが、亡き父武公の妾であった斉姜を愛してそのあいだに太子申生があり、戎族の大戎氏の出の狐姫から重耳、その妹とのあいだに夷吾がいた。最後に戎という異民族を討ったときに得た驪姫とのあいだに奚斉がいた。驪姫は妹喜、姐己、褒娰と並ぶほどの傾国の美女であった。献公ば驪姫を寵愛した。驪姫は太子の申生を廃して、自分の生んだ奚斉を太子にしようと動き始めた。まず春の暖かな日、庭園が美しいからと献公を楼上に誘い出し、自分は着物の襟に蜜を塗り、申生を庭に誘い出した。すると甘い蜜の匂いを嗅いだ蜂が驪姫に群がりだした。申生はあわてて襟をうったり背中をうったりして、蜂を追い払おうとしたのだった。これを楼上から見ていた献公は激しく憤った。二人が戯れていると見えたからだ。それ以来、献公は申生を信用しなくなった。
 かくして、驪姫は申生ら三人に最後の手を打った。たまたま曲沃(代々の祖先の霊を祀っている邑で申生の任地)から都に戻っていた申生に、死んだ母のお祀りを勧めた。申生は曲沃で母を祀った後、都に帰って、その時に供えた酒や肉を献公に献上した。たまたま献公は狩りに出かけて不在であったため、六日間、騒姫はそのままにしておいた。献公が帰ってきたので、騒姫はその酒に鴆という猛毒をもった鳥の羽を入れ、肉にはトリカブトの毒を塗って、献公に献上した。献公はまずその酒を庭にまいて地の神を祀ると、地面が泡立つように盛り上がった。疑惑を抱いた献公が肉を犬に与えると、犬は死んでしまった。さらに小者に酒を飲ませたところ、これも死んでしまった。怒った献公は、申生の養育係であった大夫を誅殺させた。この件を聞いた申生は、亡命をすすめる臣下もいたが、曲沃で自ら首をくくって死んだ。この事件に関与していると疑われた公子重耳、夷吾は亡命し、騒姫の子の奚斉が代わって太子となった。このようにして、重耳の長い亡命生活が始まるのである。


〔十九年の亡命〕
 公子重耳は母が狐氏の出なのでその縁をたよって狐氏の集落へ亡命した。一方、夷吾は梁に亡命した(夷吾の妻は梁の君主の娘)。亡命五年目の前651年、献公は没し、驪姫に対する反感から内乱が勃発し、太子奚斉は殺され、隣国の秦の後楯を得た夷吾が即位、恵公となった。
 さて、狐氏の集落にいた重耳はどうなったのか。『春秋左氏伝』に詳しい記述がある。重臣の咎犯(狐偃)の勧めに従い、重耳は東方の覇者斉に頼ることに決めた。重耳に従って流浪の旅をした家来は咎犯、趙衰、先軫、胥臣をはじめ、みな重耳に献身的に仕えていた。重耳が流浪の末に衛にたどり着いたとき、衛の文公は彼らの受け入れを拒絶した。重耳は仕方なく空き腹を抱えて逃避行を続けた。飢えのため進めなくなってしまったとき、その土地の農民に食料を恵んでもらおうとしたが、農民は一塊の土を差し出した。重耳は大いに怒り、農民を鞭で打とうとした。咎犯は急いで重耳をなだめて、「土は国家の象徴であります。これは天があなたに国家を与えるという兆しでありましょう」と言った。重耳はこれを聞いて喜び、農民に礼をして、土の塊を受け取った、という逸話も伝えられている。
 重耳の一行が斉に到着すると、斉の桓公は、馬八十頭を与えたぱかりか・娘の斉姜を重耳に嫁がせた。この時すでに重耳は60歳に近い老人であった。重耳は斉に滞在すること二年にもなり、生活は安定し、生涯斉で暮らすことを考えていた。ところが桓公が亡くなり、後継をめぐって斉では内乱が起きた。この情勢を見た咎犯は、もはや斉を恃むことはできないと考え、重耳の随行者たちと、大きな桑の樹の下で、重耳を再び旅立たせるにはどうしたらいいか相談した。桑の樹の上には桑の実を摘みにきていた斉姜の侍女がいた。これを聞いて彼女は急いで斉姜に報告した。斉姜は重耳と離れ離れになることは嫌であったが、彼の晋の公子としての立場を考えて、ひそかに心を決めて重耳を晋に帰らせることにした。彼女は秘密が洩れるのを恐れて、侍女を斬り殺した後、咎犯と計略を立てて重耳を酔わせ、布団ごと車に乗せ、夜道を曹に向かって出発させた。曹では冷遇され、次に南の宋へ行った。宋の襄公(位・前651~前637)は重耳を厚遇した。しかし、宋は小国の上、泓の戦いで楚と戦って敗れ、襄公も負傷したばかりで、あなた方を助けて晋の国に入れる力はないと現状を説明し、他の大国へ行くことを勧めた。そこで一行は西の鄭を経て・南方の大国楚にやってきた。
 楚は、当時中原の諸侯からは、文化の遅れた国と見られていたが、実力では常に中原南部の諸侯を圧迫し、諸侯はその対応に苦しんでいたし、宋の襄公の軍を破ったばかりで、国をあげて意気盛んであった。楚の成王は重耳を歓迎して宴席を設けた。席上、成王は重耳に「公子がめでたく君位についたら、どのような礼をいただけるのか」と聞いたとしろ、重耳は「楚は物が豊富で、私は何も贈るものはありません。将来、不幸にも晋と楚の間で戦いが発生した場合、私は三舎(九十里)退いてお礼の代わりにしましょう」と答えた。この返答を聞いた令尹(宰相)の子玉は、無礼な答えだと言って、重耳を殺すことを成王に強硬に求めたが、成王は、重耳は賢人であり、亡命中従っている従者たちが、国の宰相の器であるのは、天の神の配慮によるもので、殺そうとしても不可能だと説いて許さなかった。この時秦の人質となっていた太子の圉(恵公の子)は、恵公が危篤に陥ったことを聞いて、秦の穆公(位・前659一前621)をだまして晋に逃げ帰り、晋の懐公となった。そのため、秦は晋に対して怨みを持つようになった。それを知った成王は、楚は晋から遠く、その間に多くの国を経過しなけれぱならない、それに対して秦は晋と国境を接しており、秦の穆公は賢明な君主であるからと、秦に行くことを勧め、丁重に贈り物を与えて秦まで送らせた。秦の穆公は、重耳が頼ってきたのを大層喜び、かくて前636年、穆公自ら兵を率いて晋に送ることになる。晋の懐公は殺され、十九年にもわたる長い亡命生活を送った重耳は、とうとう62歳で晋の王位についた。晋の文公である。


〔介子推〕
 話が少し前後するが、介子推について触れておく。彼の出自は不明な点が多いが、汾水のあたりに住んでいた鬼方と呼ぱれる山岳民族の出であると想像できる。棒術使いの達人である介子推は、重耳の重臣である先軫に見出されて重耳の配下となる。一方、晋は重耳を暗殺するため、閹楚(履韃)という刺客を派遣する。閹楚と介子推は何度も死闘を演じ、介子推はその度に重耳の命を救った。だが、悲しいことに、介子推の存在を重耳は全く知らなかった。
 晋の懐公による恐怖政治は、離反者を続出させ、有力な大夫である欒枝と郤穀は、自ら雪をかきわけて国境を越え、重耳に会いに来た。重耳はこの二人を慇懃に迎え、長い間話しあってから帰した。それを横目で見ていた咎犯は、面白くない素振りを見せた。まもなく重耳は秦軍に擁けられて晋へ向かう。このとき欒枝と郤穀は内応を申し出る。こうなると重耳が帰国して君主の席についた暁に、欒枝と郤穀にも少なからぬ功があることになる。いや、内応者はその二人の大夫にとどまらぬであろう。すると重耳は内応者を悉く賞さねぱならなくなる、と咎犯は考えたのだ。咎犯にしてみれぱ、たかだか数ヵ月の助力が、十九年という長い亡命生活を扶助してきた自分の血を吐くような労苦をしのぐ扱いをされてはたまらぬ、と言いたかったようだ。重耳は晋にばかり目を向け、後ろの家臣団を忘れかけている。その目を振り返らせるために、咎犯は一つの決意を固めた。晋への帰国の途上、黄河までやってきたとき、咎犯は重耳に「臣は、君に従って各国を流浪いたしましたが、その間、数多くの過ちを犯しました。自分でも深く責任を感じていたほどですから、まして君においてはいかばかりのお怒りであったかと拝察いたします。さて帰国の願いがかなった現在、お暇を頂きたく存じます」と言上した。重耳は驚いて、「なんということを言うのだ。ならぱここで誓おう。帰国後もおまえを重用しよう。もしこれに違うことあれば、黄河の神が怒って、わしに罰を下すであろう」と言うと、璧を黄河に投げ入れて、咎犯とともに黄河の神に誓いをたてた。このとき、同じく従者として船中にいた介子推は「君の運が開けたのは天のお陰だ。それを咎犯はいかにも自分の功績のような顔をして、君に報酬を無理強いしている。厚顔の極みだ。こんな奴とは一緒に仕事はできない」と言うと、一行から身を隠して、自国に戻った。介子推は泣いた。重耳は奇蹟の人であり、歩いてきた道は聖土と化した。が、ここにきて咎犯は生臭い口と手で、重耳を穢土に立たせようとしている。介子推は重耳に従ってきたことを生涯の誇りとするつもりであった。このまま重耳が晋の君主に収まれば、もしかすると帝堯に優るとも劣らない聖王になるかもしれぬと期待していた。が、この一つの事件が彼の夢想を打ち砕いた。

 文公元年春、秦送重耳至河。
 咎犯曰、「臣従君周旋天下、過亦多矣。臣猶知之、況於君乎。請従此去矣。」
 重耳曰、「若反國、所不與子犯共者、河伯視之。」乃投璧河中、以與子犯盟。
 是時介子推推従船中、乃笑曰、「天實開公子。而子犯以爲己功而要市於君。固足羞也。
 吾不忍與同位。」乃自隱渡河。
                                   『史記』晋世家

 重耳が君主になると、咎犯は瞬く間に大夫になった。最上の大夫は卿という別の呼び方があるが、咎犯はその高位に当然のごとくすわった。狐毛(咎犯の兄)、趙衰、先軫、胥臣などの重臣には食邑が授けられた。彼らは大夫となり、数十人の臣下をもつ身分になったのである。介子推は彼らに絶望し、緜上の山に隠れる。介子推の従者は宮門に木の札を吊した。その札にはこう書かれている。「龍は天に上ろうとして、五蛇はこれを輔ける。龍はすでに雲に升り、四蛇はそれぞれその所を得たり。一蛇は怨みを抱き、居所は不明なり。」その木の札に重耳が気づいたのはかなり後になってからである。一蛇とは誰か、と臣下に問い、ついに介子推の勲功を突き止めると、わざわざ緜上まで出かけて、多数の人を使って介子推を探させた。どうしても介子推が見つからないので、山に火を放ったという伝説もある。落胆した重耳は、しかし気をとりなおし、緜上を介子推の領地とするように布告した。重耳は介子推の隠遁を自分の過失であると公言した。その一事をとっても、重耳が名君であったことが分かるのだが、そんな名君でも介子推のような臣の実体を見抜けなかったところに、後世の人々は言いようのない哀しみをみた。人々は緜上の山を介子推の山という意味で、「介山」と、呼ぶようになった。介子推が山に隠れるところは誰も見ていない。、

 介子推従者燐之、乃縣書宮門曰、「龍欲上天、五蛇爲輔。龍已升雲、四蛇各入其宇。
 一蛇獨怨、終不見處所。」文公出、見其書曰、「此介子推也。吾方憂王室、未圖其功。」
 使人召之、則亡。遂求所存、聞其入緜上山中。於是文公環緜上山中而封之、以爲介推田、
 號曰介山。「以記吾過、且旌善人。」
                                     『史記』晋世家

〔覇業への道〕
文公が即位した年の冬、周の王子帯が周の襄王を攻撃し、襄王は鄭に逃れていった。文公は天子を擁して諸侯に号令する絶好の機会だと考え、ただちに兵を派遣して帯を捕らえ、襄王に引き渡した。襄王は文公に感謝の意を示して宴を設け、領土を割譲した。これによって晋の領土は黄河北岸に達した。
 この時、南方の楚は中原に向けて勢力を拡大しつつあった。一旦は斉の桓公によってその矛先をくじかれたが、宋を泓の戦いで破るなど再び北方の鄭・曹などの国に圧力を加えてきていたのだ。宋は泓の敗戦のあと、楚の勢力下にあったが、晋の文公が周王室の内乱を平定したのを見て、楚を離れて晋の傘下に入ることになった。前634年、楚の令尹であった子玉と将軍の子西が軍を率いて宋に侵入した。さらに前633年になると楚の成王は自ら宋の都を包囲した。宋は晋に救援を求めた。文公は覇業を成就し、楚の中原への進出を阻止するために軍を率いて南下した。前632年、晋と楚は城濮で交戦した。戦いの開始とともに晋軍は約束どおりわざと三舎の距離だけ退却した。晋軍の軍隊は上・中・下の三軍で、戦車700台、兵士3万7000人、他に斉、秦、宋軍の支援があった。中軍の総司合官は先軫、上軍の司合官は狐毛、下軍の司令官は欒枝であった。楚軍では、令尹の子玉が総令官と中軍の司令官を兼ね、右軍は陳、蔡両小国の軍で組織され、子上が司令官を、左軍は申、息両県の地方部隊で組織され、子西が司令官であった。戦闘が開始されると、晋の下軍副司令官胥臣は、楚の右軍の陳、蔡両国の軍に向けて猛攻撃を加えた。陳、蔡の軍は大敗し、蔡の公子印は殺され、楚の右軍は緒戦で打撃を受けた。これと時を同じくして、晋の上軍の狐毛は、二本の大旗を翻して中軍を装って後退し、晋の中軍はみな姿を隠した。晋の下軍の欒枝は、陣の後ろで兵に木の枝を切らせ、戦車の後ろに引きずって土埃をたて、晋の全軍が敗走するように見せかけた。楚軍総司令官の子玉と左軍の子西は右軍が敗れたことを知らなかった。そして晋軍のたてた土埃を見て、晋軍が全面退却をはじめたと信じ、晋の上軍を中軍と誤認した。そこで晋の狐毛の上軍を追撃しはじめた。楚の左軍を指揮していた子西は勝利を追求するあまり、深追いしすぎた。晋軍は楚軍が計略にかかったのを見て、総司令官の先軫が埋伏させておいた中軍の主力が敵を遮って攻めかかり、また狐毛、咎犯の上軍も反転し、楚の左軍を挟み撃ちにして壊滅させた。子玉は左右両軍が撃ち破られたのを見ると、急いで兵を収めて撤退し、中軍の兵力を温存した。楚軍は大敗し、子玉は自殺した。この城濮の戦いで晋の覇を称する基礎が定まり、楚は北上を阻まれた。この後、両国は80年以上にもわたり抗争を繰り返し、勝敗を互いに分け合い、盟主の地位も両国間で交替していくことになる。
 さて、この城濮の戦いによって楚の北進は抑えられ、楚の旗下に入っていた魯・衛・陳・蔡などの諸国も晋の下に入って、北方の諸国として結集されることになる。文公は黄河北岸の自分の領土に周の襄王の出張を請い、そこで襄王は文公に覇者に任ずる辞令を与えた。更に王子虎が主宰して、晋・魯・斉・宋・蔡・鄭・衛・筥の諸侯が、「諸侯は協力して王室を補佐し、互いに侵害してはいけない。この盟いに反する者は、天の神が罰を降し、国は亡び、子孫は絶えるであろう」という盟いをした。こうして文公は覇者としての地位を確立した。

〔晋その後〕
城濮の戦いによって、楚の北進計画を一応頓挫させたのみで、文公は前628年、71歳で没したが、重臣の趙氏が宰相となってよく晋の覇業をもりたてたので、その後も晋を覇とする北方都市連盟は、楚を中心とする南方都市連盟と対戦を続けた。晋、楚を盟主とした南北の連盟は正面からがっちりと四つに組んだまま、その対立は容易にとけなかった。その形勢のもとで、宋、陳、蔡、鄭など、准水と黄河の中間地帯の諸国は、かわるがわる晋、楚両国の侵攻を受け、その戦場と化した。楚と晋の運命を賭けた決戦は、城濮以後二回戦われ、前598年には楚が勝利し、前558年には晋が勝利し、容易に決着はつかなかった。その後、晋は韓、魏、趙をはじめとする豪族が、君をさしおいて勢力争いに熱中していたので、対外的にはやや力が弱まった(公子重耳が、故国にかえって文公となったとき、従者たちは重い恩賞にあずかり、その子孫はやがて晋の豪族となっていた)。楚はますます北進し、戦乱のなかの小国はひじょうな苦しみを受けた。小国は大国に対して虎の皮、豹の皮、馬、玉、牛などを貢物として贈らなけれぱならなかったし、大軍が入ってくれば、その宿舎、兵糧、賦役などの負担はたいへんなものであった。文公のころ、小諸侯は三年に一回使臣を晋に遣わして貢物を献じ、五年に一回は諸侯自身が出向いていたが、春秋の半ぱになると、小国は毎年覇者のところに出かけなけれぱならず、そのうえ豪族にまで貢物を奉らなけれぱならなかった。そのたびに100台の馬車に乗せた貢物を、1000人もの人間が護送した。また覇者晋が小国の外国使臣を迎える宿舎はぼろぼろに朽ちていたというのであるから、その待遇はひどいものであった。戦禍を受けるほかに、こうした貢物の要求に苦しんだ中原の小国は、これから免れる道は南北が和議を結ぷよりほかはないと考えたので、宋の宰相が主唱して南北の和平を提案した。第一回は、前580年に、宋の仲介によって晋楚両国間の不可侵条約が締結されたが、三年たたぬうちに楚はこの条約に背いて兵を出すということが起こった。しかし、戦争をやめたいという希望は強いものがあって、再び晋楚は宋で和議をおこなった(前545年)。
 しかし、晋の勢力は次第に弱まり、ついに前403年、晋は韓、魏、趙に三分して春秋時代は終わりを告げる。これらの家々に文公と祖先との親しい関係を誇る伝説が語りつがれたのである。北狄のあいだに国をたて、北方部族の風習に化せられた晋には、中原諸国には見られない厳しい主従関係の道徳が発達していたことも、十分頷ける。これは、春秋時代の宗族関係をもととした都市国家のなかで、異彩を放つものであった。

〔重耳は仁なり?〕
 最後に文公の人物像について触れておきたい。晋の歴史と文公の業績から考えると、意志が強固で、果断であり、目的をあくまでも追求する人物を想像する。しかし史料に残された説話から見えるところは、ほとんど自己の意志を示さず、常に咎犯を中心とする従者たちの意向によってしか行動を決定しない人物像があらわれる。特に斉から他国に移ろうという時などは、平安な生活に恋々とした感情を表白して、帰国の意志すら失っているようである。また城濮の戦いにおいても、文公自身にはっきりした戦意があるのかも定かでない。ここでも咎犯や欒枝らの意見によって行動を決定している。おおよそ英雄というイメージからは遠い存在である。しかし、宰相としての品位と才能を持った何人もの従者が、十九年も共に亡命生活に耐えたということは、これらの従者が重耳の何かに惹かれたからであろう。その何かは明確な形こそとらないが、重耳の人間からにじみ出るものであった。恐らく秦の穆公が「重耳は仁なり」と言ったのも、同じ理由によるものであろう。そして咎犯らの意見をよく用いたのは、人を用いるのに優れた能力を持っていたからだと考えられる。周囲の者がもり立てざるを得なくなるような人格を、重耳は持っていたのであり、これは華々しい才能ではないが、やはり得がたい才能と言わねぱならない。
 しかし、斉の桓公には、内紛のため侯位の継承が絶えかけた魯の相続間題を解決したり、山戎に攻められて故国を捨てた燕、狄に亡ぼされた衛の国を復興させ、西周以来の封建諸侯の秩序を回復しようとした、いわゆる存亡継絶といった功績があるが、晋の文公には、このような功績が見られないばかりか、曹・衛・鄭など同じく周室から分かれた「兄弟」の国々を伐ち、その土地を分割したことがかえって目につく。更に表面は乱を収めて周室を尊ぶように見せかけながら、襄王を自分の領土に呼び出したこともある。『春秋』はこれを「王狩河陽者」と書いて、真相を直写することを憚っているが、これらのことから儒学者から桓公に比べて文公の覇業は虚偽の覇業だとして厳しく批判されている。いかにも正義にかなったように見せかけながら、その実は、天子を強制して覇者の命を受けたことに見られるように、万事すこぶる策謀的、偽善的であった、という見方もある。
 しかし、斉の桓公の時と、晋の文公の時とでは、年数としては二十年ほどの隔たりしかないが、その間における楚の北方への圧カは格段に強くなり、それをまともに受けた曹・衛・鄭などは、ともすれぱ楚の傘下に入らざるを得なくなっていた。従ってそれらの諸国を楚から離反させるためには、強硬な手段に出ざるを得なかったということも考えておく必要があろう。桓公と文公との間で、大きく時代は動いたのである。

〔おわりに~介子推について〕
 介子推の名は『春秋左氏伝』にも『荘子』にも『呂氏春秋』にも見出すことができる。だがそれよりも成立が古いと思われる『国語』には介子推の名は見当たらない(『国語』では閹楚ははっきりと明記されている)。介子推の隠れた功績が宣伝され始めたのは、春秋時代の末期か戦国時代の初期であろう。戦国時代は文字どおり戦乱に明け暮れた時代であり、戦いに勝つことが各国の主題となるに伴い、春秋時代の覇者であった斉の桓公と晋の文公についての研究が盛んになった。その一方で、庶民のあいだに厭戦の空気が濃厚になったに違いない。そうした二つの風潮が介子推の像を浮かびあがらせたと想像できる。いったん浮かびあがった介子推の像は、時代が下がるに従ってますます膨らみ、漢の歴史家である司馬遷をも感動させた。『史記』にある介子推にっいての記述は、感動のあとが明確である。後漢の時代になると、ついに介子推は神として祀られるようになった。
 ところで、中国では春分から数えて15日目を清明節といい、その前目を寒食節という。寒食というのは、一日火を用いない日である。なぜそんな風習があるか、それは中国全土の人々が介子推を悼んでいるあらわれである。介子推が山に隠れた後、重耳が山に火をかけ、介子推の現れるのを待った。ところが介子推は下山せず、木を抱いてついに焼死したという伝説がある。後世の人々は介子推の忠節と志の高さに感動し、その死を哀痛し続けるため、火を使わない日を国民的行事としてもうけたのである。なんという国民であろう。


〔参考文献〕
1.『史記 覇者の条件』晋世家  司馬遷著 市川宏ら訳 徳間書店
2.『史記Ⅵ 歴史の底流』晋世家  司馬遷著 村山孚ら訳 徳間書店 
3.『中国の群雄一 覇者への道』  伊藤道治他著 講談杜  
4.『世界の歴史1 古代文明の発見』  貝塚茂樹 責任編集 中央公論杜
5.『重耳』上中下  宮城谷昌光著 講談杜
6.『介子推』  宮城谷昌光著 講談杜


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