マスメディアとスラング、ポピュラー・スピーチ
ポピュラー・スピーチはマスメディアとは、常に相関関係があり、お互いに作用しながら、その拡大に貢献しあった。新聞や雑誌のストーリーや記事、コラム、ミンストレル・ショーやヴォードヴィル、ポピュラー・ソングのタイトルや歌詞、ラジオや映画の台詞、漫画のふきだしの台詞などは、ポピュラー・スピーチから表現を借用したり、ときには、修正したりして使われてきた。 また、ニューヨークでは、多くの人々がマスメディアを通して、読み、聞き、笑い、そして、学んでいた。初期の頃に、マスメディアで働いていた作家やパフォーマーたちはほとんどがニューヨーク出身者で、都市の言葉になじみが深く、その結果、ポピュラー・スピーチについて十分な知識を持っていた。当然のことながら、彼らは自分たちが作り出す大衆文化の中にこの知識を取り入れ、それによって、多くの読者、聴衆、観衆を獲得してきたのである。 ジャーナリズム、ショー・ビジネス、ラジオ、映画などの分野でポピュラー・スピーチを作り出してきた人々は民族的な背景や方言を活用して、語や句を送り出してきた。ギャグ・ライター、コメディアン、広報担当者、興行主たちは煽情的なタブロイド紙の見出し書き、ブロードウェイのコラムニスト、漫画家、広告業者などによっても早く広められた。 特に、最初のマスメディアであった新聞はポピュラー・スピーチと深い関係をもった。1880年代に、ニューヨークやその他の大都市では、日刊新聞の部数獲得競争が激しくなり、各紙はより広く読者を求めて,ポピュラー・スピーチを含めてより生き生きとした言葉を活用するようになった。その結果、新聞はポピュラー・スピーチとの直接的で、互恵的な関係を持つようになった。そして、あらゆるジャンルのポピュラー・スピーチが新聞記者たちによって発明され、有名になった。 さらに、シンジケート(新聞雑誌連盟)を通して新聞に掲載された20世紀初頭の連載漫画はスラングを流布させるのに強力な手段となった。1949年、「アメリカの都市に住む大人の5人のうち、4人までが漫画を読んでいた。そして、ニューヨークでは、インタヴューを受けた人々の85%が漫画を読み、その65%が漫画に描かれている内容を話題にした」と伝えられる。 ニューヨークにおいては、舞台を通して提供される大衆芸能が観客たちの関心、興味、社会的現実を反映するようになったため、例えば、ミンストレル・ショーやヴァラエティ、ヴォードヴィルやバーレスクはニューヨークのスラングから借用し、それらを活性化しては、観客に戻し、観客はそれを再び市中に戻す。最終的に、それらはコメディや歌を通して人々に、ニューヨークの多様性を与えることにつながった。 1930年代には、ニューヨークを歌った流行歌が印刷物として刊行され、それらはいずれも歓楽街のロマンスや楽しみ、マンハッタンの粋な生活スタイルなどを賛美していた。音楽家のアーヴィング・バーリン、コール・ポーターなどは常に新聞を読んでは、ニューヨークの声との接触を保ち、歌や歌詞づくりのためのテーマや表現を求めた。 そのような状況で、多くのアメリカ人はブロードウェイの言葉と曲に接することができたばかりか、プレイボーイ(playboy)、コーラス・ガール(chorus girl)、ゴールド・ディガー(gold digger)、シガレット・ガール(cigarette girl)、ステージ・ドア・ジョニー(stage-door Johnny)、シャンペン・チャーリー(Champagne Charlie)、バター・アンド・エッグ・マン(butter-and-egg man)などと呼ばれた人々の動静にも通じることができたのである。
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