早大先輩、広岡監督の「管理野球」 日常から厳しい〝節制〟 たばこは隠れて吸ってました

話の肖像画 日本プロ野球OBクラブ理事長・八木澤荘六<21>

西武コーチ時代。広岡達朗監督(左)と(昭和59年)
西武コーチ時代。広岡達朗監督(左)と(昭和59年)

《西武(現埼玉西武)ライオンズとして3年目を迎えた昭和56(1981)年、投手コーチに就任する。この年の西武は4位。「打」では田淵幸一、土井正博のベテラン両氏らに新人王に輝いた石毛宏典(ひろみち)氏らが加入。「投」でも東尾修に松沼博久・雅之兄弟、森繁和の各氏ら新旧混在チームだった》

監督は根本さん(※陸夫氏、後に西武管理部長、福岡ダイエー=現ソフトバンク=球団社長など歴任。〝球界の寝業師〟の異名を取った)。ボクを誘ってくれたのは坂井さん(※保之氏、球団代表)です。

どこが気にいられたのかって? 坂井さんは大学(早稲田)の先輩だし、オリオンズでも一時、一緒でしたけど、ボクには分かりませんねぇ。

《翌昭和57年、ヤクルトを日本一(53年)に導いた広岡達朗(たつろう)氏が新監督に迎えられる》

広岡さんは、早稲田の大先輩。(93歳の)今もしょっちゅう電話をしていますが、「あの選手がいい、この選手はここがダメ…」と、野球の話になると歯切れがいい(苦笑)。

西武へ来られたときは、先輩、後輩の関係はあまり意識しませんでしたね。広岡さんも「あぁ、八木澤が(コーチとして)いたんだね」っていうような感じだったかな。

《広岡氏は、選手に対し、肉食や酒・たばこの禁止など、食生活を含めた日常からの〝節制〟を求め、メディアには「管理野球」と呼ばれた》

コーチに対しては、どうでしたかって? 同じですよ。ヘッドコーチの森さん(※昌彦(まさひこ)=後に祇晶(まさあき)氏。後に西武監督に就任し、6度の日本一に導く)に指示させて、コーチも皆、所沢球場近くのアパートなどに〝単身赴任〟。それほど野球に打ち込ませたかったのでしょう。

当時、ボクはたばこを吸っていたのですが、見つかったら監督に怒られる、と隠れて吸っていました。ベテラン勢などからはブーイングもありましたが、「結果」がついてくるので、皆文句を言えないでしょ。

《広岡・西武は1年目のシーズンからいきなり前期優勝(※当時のパ・リーグは2シーズン制)を飾る。後期優勝の日本ハムをプレーオフで、日本シリーズでも中日を撃破し、西武としては初の日本一になった》

広岡さんは、「自らの指導の下で」といったことを強く意識されていたと思う。それでダメだと断じたら〝2軍落ち〟を命じたり。当然、選手としては緊張を強いられる。それが〝いい方〟に作用したかな。もちろん、「やるべきこと」を自分で分かっている優秀な選手がそろっていたんですけどね。

練習は厳しく、基本プレーを重視して、何度も同じことを繰り返させる。(専門ではない)ピッチングに関してもコーチに任せるばかりではなかったと思います。まぁこうしたやり方(※監督が主導権を持つ)が「合わない」と感じた選手もいたかもしれませんが。

《西武は翌58年のシーズンもリーグ優勝、日本シリーズでも宿敵・巨人を破って、2年連続の日本一を達成する。だが、広岡監督3年目の59年は、3位に甘んじた》

投手陣不振の責任を感じたボクは1軍→2軍投手コーチへの降格を志願します。

《不振の投手の一人が、日本ハムから移籍してきて「抑え」と期待された江夏豊氏(※通算206勝、193セーブ)だった。この年の夏、江夏氏をめぐりメディアを騒がせた〝事件〟が起きる》

(聞き手 喜多由浩)

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