村の日常と、非日常

 二


 戦廻暦五十七年の秋月季、その十八日目である。

 村に来て、十四日が経っていた。七神龍週でいう、二週に相当する時である。


 朝。鶏が鳴くよりも前、玄慈は弓の練習場に立っていた。

 着物を諸肌脱ぎにして、腹に一反の木綿からなる晒を巻いている。

 未だ十四──されど山で鍛えた十四年。鍛え抜かれた肉体は、まさしく龍のごとくしなやかで、ぎゅっと堅い。


 玄慈は獣狩ししがり短弓を手にしていた。短い弓といっても、その全長はおよそ五尺(およそ一五〇センチ)。

 素材は軽量な妖木を削り出した弓柄と、化獣ばけもの──オオヅツヘビの皮をなめして繊維にした弦を使っている。


 和真に、弓の稽古をつけてもらっていた。

 玄慈は現状、遠距離の攻撃手段がない。長巻は長柄とはいえ、あくまで白兵の距離での間合いが長いだけ。もっと距離がある場合に仕掛ける手段が、ない。

 無論妖術を学べば別であるが、己にはどうも、簡単な結界術がせいぜいと言うところ。

 あとは雷の付与術を少し使えるが、雷自体を独立して飛ばすことができなかった。空気に触れると、玄慈の雷は容易く拡散してしまうのだ。


 弦を引く。

 ──そうだ、まずはゆっくりでいい。しかと引け。

 和真の教えが甦る。


 早撃ちなどは、達人の技。己にはまだ、天上の技である。

 素人は、弓をしっかり引くことが肝要だった。それこそ、練習の初日、玄慈は満足に矢をつがえることさえできなかった。


 ──力業ではどうにもならん。良いか、心が緩めば、弦も緩む。


 玄慈はいっときも、気を緩めない。

 会。

 的を睨む。

 風が吹き、そして、それが止む隙間を狙う。


 放つ。

 離れ、という状態だ。


 矢が、風穴を穿つ。豪と唸り、的に突き刺さった。

 残心。集中を切らしたら、その瞬間、化獣ばけものの反撃を許す。矢を受け手負いとなった獣は、心の臓が潰れてなお、生きながらえたその一呼吸で捨て身の相討ちを狙う。


 矢は、中心をやや逸れていた。

 弓自体は、以前から練習していたが、己には才能がないと見切って二年ほど離れていた。

 鍛錬を怠った己が悪いとはいえ、悔しい。

 和真ならば、息をするように真ん中を射抜いた。

 けれど同時に、彼のようにあと二十年、地道に鍛錬すれば追いつけるということ。


「焦っても仕方ない」


 すでに、矢を五本使った。気を削り出し、石の鏃を使っているものだが、無駄撃ちはできない。

 練習は日に五本と決めていた。だからこそ、一射に集中力が乗る。和真も、

 ──制限があった方が、成長の伸びがいい。

 と言っていた。


 玄慈は道具を片付ける。汗が吹き出し、体温が上がっていた。にわかに、涼しい朝に湯気が立つほど。

 気づけば鶏が鳴いており、村の朝を告げていた。

 飯炊きに備えて早起きな女房衆と、鍛錬を行う男たちとが、すでに声を上げている。


 和真となつめは指南役を買って出ていた。

 和真は弓だけでなく槍も上手い。さらには護身術である格闘も。

 なつめは杖術をはじめ薙刀、棒術、槍、格闘、小太刀まで幅広い。が、なつめが女子供に教えているのは、

「恐怖の中で大声を上げる方法」である。


 これが意外にバカにできない。

 ひとは恐怖に慄くと、声を上げて助けを求めねばとわかっていても声が出なくなる。

 天嵐神社では女子供に対する護身術において、真っ先に大声を上げる──ともすれば悲鳴を上げる方法を教えるが、これは非常に大切なのだ。


 武術は一日やそこらでは身につかない。ゆえに、まずは「助けを呼ぶ方法」が大事だ。異変を大声で伝え、逃げて、己より強い誰かを呼ぶ。

 これもまた生き残るための兵略だとなつめは教えている。

 歴戦の神使が教えるからこそ重みがある。

 玄慈も、なつめの授業を何度か受けていた。そして、思い知った。


 ──腹の底から声を出すというのは、存外、難しい。


 悲鳴とは決して弱者のものではないのだ。生き残らんとする強い意志がなくてはできないと思い知った。


 その玄慈は、今日は和真の授業に出ている。

 しかし今日教えるのは武術ではなく、座学であった。

 村の子供に混じって、玄慈は読み書きを習う。


 己は平仮名と片仮名はできるが、漢字はまだわからない字が多い。

 往来物──手紙やら、昔の名簿の写しやらを回して、字を模写する。


 漢字の発祥は和深大陸北条地域とされるが、実際には、各地で同時多発的だったともされる。

 鬼一法伝きいちほうでんという人物が、鬼八流という剣術の祖を巻物に認めるために用いたのが、漢字の、一般的な始まりと伝達で合った。


 ──ひとりのおとこが記す字を覚えておけ。


 鬼八流にはまず、そのような文言が記されているという。故に、漢字、というらしい。


 さて、師匠は当然和真だけではない。女房衆や年寄りがその役を買って出て、子供一人一人に丁寧に教える。

 字の由来、使い方など。


 そうして昼飯時を迎えると、炊き出しである。

 現状、略奪軍に目立った動きはない。玄慈らはそれに応じて、周辺の山菜やら木の実やら、あるいは数が多い化獣ばけものを狩り溜めて糧秣りょうまつを備えておいた。

 籠城となれば、まずは食料と水が必須。

 この村には水が湧き出る泉があるため(※サイフォンの原理でこのような効果が働いている)、消火水や飲み水の心配はない。


 火蓑は、変化術の巧さを買われて偵察という大役を担っていたが──。

 どうやら、略奪軍に怪しい動きが見られるということが、その日の未の刻に伝えられるのだった。


   〓


 夜。遠くで、フクロウが鳴いている。

 居館郭の会館には蝋燭がたかれていた。柔らかい朱の光が、芒と居間を照らす。


 武吉が村の会館に降りて来たのは突然のことで、藤次郎は腰を抜かしそうになっていた。

 武吉は村長を兼任するが、あくまでも山庭師。この額狩岳に住まう妖怪の長だ。一介の顔役が会える相手ではない。


「よい、藤次郎。お主も席につけ。わしから、村の隅々まで伝えねばならぬことを仲介してもらえるとありがたい」

「は……」


 藤次郎は深く頭を下げ、下の席についた。

 なつめは姿勢を正し、礼をする。


「お久しぶりです、武吉殿」

「……神使殿に頭を下げられるほど、偉くなったつもりはないがな……。なつめ、そちらは壮健か」

「おかげさまで」

「弟子を取ったのだな」

「じゃじゃ馬が二人と、素直な子が一人。……武吉殿、四方山は一旦ここいらで」


 なつめが促す。武吉は「うむ」と顎髭を撫でた。

 玄慈は不思議な気持ちだった。

 武吉は質素倹約ながらも格式のある肩衣姿。堂々たる雰囲気は、その巨躯ゆえではない。威厳はあるが、威圧感はない──不思議だった。

 剥き身の刀剣なのに、殺意がないというか、まるで刀の美しい波紋に目が吸われるようなあの感覚に近いものを抱いた。

 柔らかく、そして、力強い覇気はなつめにも通底する。


「火蓑嬢が掴んだ情報を、密偵に探らせた」

 麦酒を把手盃とってさかずき(※ビールマグのこと)に注いで、豪快に呷っていく武吉。

「略奪軍は、支城から落とすらしい。城攻めの定石だ。……なつめならわかるだろう? この郷における、城攻めの定石が」


 なつめは頷く。

 あえて自分は答えず、玄慈と火蓑を見た。


「……糧秣の補給を断つため、ですか」玄慈は言った。「本城を落とすには、まず補給を断ち孤立させると」

「うむ、うむ。その通り」武吉は力強く頷く。「この郷では、どのように補給を行う?」

「あ……索道搬器ごんどら。ということは、そこに築かれた砦……出城を?」火蓑がそう答えた。


 なつめが言う。「空を飛べる天狗といえど、輸送力は高くない。重荷を背負っていては飛べないから。索道搬器を保有する出城、これを落とすことが山岳郷攻略の基礎となる。

 この山は蜘蛛の巣のように、それぞれの山がそれぞれを支えているけれど、それ故に孤立させられて各個撃破される弱点もある」


 なるほどと、玄慈は頷く。

 五十年前に攻められた経験があるからこそ、なつめも武吉も、この弱点を念頭に置いた攻撃予測をしていたのだ。

 ということは、──。


「出城にはすでに防備が?」和真が武吉の把手盃に酒を注ぎつつ問うた。

「然り。敵もちんたらするとは思えん。出城落としには籠城ではなく電撃的かつ攻撃的な城攻めを行うだろうな。幸い化獣ばけものがいるのが強みと言えば強み、闇夜に乗じるとは思えんが……」


 武吉が危惧するのは、人間の発明力だ。

 彼らは錬金術と呼ばれる得意な技能を持ち、それによって、化獣ばけものを遠ざける特殊な香炉や松明を作っているという。

 それを用いられれば、夜間行軍を許すだろう。


「出城にはすでに伝令が走っている。敵を迎え撃ちつつ、敵陣営の側面から襲撃し撃滅する。この横槍部隊に、君たちには加わってほしい」


 来た、と玄慈は思った。

 妙な高鳴りを感じる。


 恐怖ではない。これは。

 ──戦への興奮。武者震いだ。


「部隊は小勢が良い。人間側が装備で優越するとはいえ、我らには妖術がある」

「敵の数はどれほどですか」玄慈は訊ねた。

「三百と見ている。城には百。城を守るには十分だが、攻撃に転ずるには足りぬ。故に、横槍部隊は百で編成する。指揮はなつめに任せたい」


 武吉はそう言った。

 なつめは頷く。

「わかった。出立は」

「早朝だ。日が昇り切る前に出陣せよ」


 一向は、その命令を受諾して、しかと頷いてみせた。

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