The Wayback Machine - https://web.archive.org/web/20240906194032/https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3492948/ecowww.leh.kagoshima-u.ac.jp/staff/kuwabara/CAPTION.HTM
12) Blumer,1977;1980.この二つの論文は、ブルーマーとルイスならびにマックフェイルとレックスロートとの間に交わされた論争という形態をとっている。その経緯を示すならば、まずルイスが、ブルーマーの主著『シンボリック相互作用論』(Blumer,1969a)におけるブルーマーの立場を主観主義的な性格を有したものであると批判し(Lewis,1976)、それに対してブルーマーが反論(Blumer,1977)、さらにブルーマーの主著における立場とルイスに対する反論における立場の双方に対して、今度はマックフェイルらが批判を展開し(McPhail and Rexroat,1979)(内容については後述)、その後、ルイスならびにマックフェイルらの双方に対して、再度ブルーマーが反論を行っている(Blumer,1980)。なお、この論争は、「シンボリック相互作用論史上の一大事件」を構成する、ブルーマーと批判者との間に交わされた諸論争のクライマックスとしての位置づけを有するものであるが、そうした諸論争の経緯と全容については、伊藤、1998年が詳しい。
14) ブルーマーのシンボリック相互作用論において、人間(またその人間が行う行為)とは如何なるものと把握されているのか、ということについてよく参照される文献に、メルツァーらの研究(Meltzer et al.,1975)があるが、メルツァーらは、この研究において、ブルーマーのシンボリック相互作用論における人間観ならびに行為観を、次のように特徴づけている。すなわち、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、人間の行動とは、それを観察する他者から見て、本来的に予測不可能なものと捉えられている。では、何故に予測不可能なものと捉えられているかと言えば、そうした行動が外的刺激によってではなく、内的刺激すなわち「衝動」(impulses)によって生じるものと、ブルーマーにおいては捉えられているからである、と(Meltzer et al.,1975,p.62)。とはいえ、こうしたメルツァーらの特徴づけは、上記のブルーマー自身による説明を見ても、妥当性を欠くことがわかる。そもそも、ブルーマーのシンボリック相互作用論において、人間の行動とは、外的・内的な要因(刺激)によって引き起こされるものと捉えられているわけではない。むしろ、ブルーマーは、まず何よりも、人間の行動を、外的な要因か内的な要因かの何れかに帰属させようとする二分法的な考え方それ自体を退ける立場に立っている(Blumer,1969b,p.14=1991年、17−18頁)。シンボリック相互作用論において、人間の行為(適応活動)を方向付けるものとされているのは、あくまで、その人間の解釈ないしは定義なのであり、その人間に作用する(とされる)内的・外的な刺激それ自体ではない(片桐、1996年、12頁;徳川、1998年、参照)。また、ブルーマーにおいては、そうした刺激が、その人間(の行為)に対して、どのように作用するか(もしくは作用しないか)は、その人間の解釈・定義(=「状況の定義」)の如何にかかっているものと捉えられている。
17) Blumer,1977=1992,p.155;1980,p.410.このように、ブルーマーは、「パースペクティブ」というものを、ある一定のものの見方ないしは解釈枠組みと捉え、こうした「パースペクティブ」理解をミードから継承したものとしているが、徳川によれば、ミード理解という観点からすれば、こうしたブルーマーの「パースペクティブ」把握は妥当性を欠くかもしれない。徳川によれば、ミードにおいて「パースペクティブ」とは、単なるものの見方ではなく、“there in nature”に客観的に存在する関係性をあらわす概念として提示されているものであるという(徳川、1993年、25頁、30頁、31頁、36頁)。なお、ブルーマーにおいては、この「パースペクティブ」という概念は、「概念」(con- cept)と同義で用いられており、それをブルーマーは「常識的概念」と「科学的概念」の二種に大別している(Blumer,1931=1969a,pp.160-163=1991年、209−213頁)。彼の概念論については、別項を用意したい。
「仮に、ある人間の面前に対象(object)が物的な形態を取って存在していたとしても、そうした対象は『ありのままの形で』(in the raw)、人間に見られているわけではない。そうではなく、人間は、その対象を、何らかのパースペクティブを通してのみ見ることが出来る」(Charon,1989,p.37)。
「D・ロングによれば、現代社会学における人間の捉え方は、『社会化過剰的人間観』(oversocialized conception of man)として規定される。T・パーソンズを中心とする現代社会学は、人間は社会という鋳型にはめ込まれ、個性や独自性を奪われ、画一化された存在として考えられている。それはあまりにも社会化されすぎた人間のイメージに囚われている。・・・・パーソンズ社会学においては、人間による『社会規範の内面化』のメカニズムを解明することが、その中心的テーマとなっている。そのことから、社会の維持、安定を旨として、人間は社会化によって既成社会の中に組み込まれてしまう存在として描かれる。そして、人間が社会から逸脱したり、反抗したりする場合には、必ず社会統制が加えられると考えられている。その理論は、きわめて統合的イメージの強いものとなっている」(船津、1983年、37頁)。
なお、船津による、こうしたパーソンズ社会学における「個人と社会との関係」把握は、Wrong,1961=1970,p.32,pp.33-34,p.40に基づいているものと思われる。また、こうした人間観に対して、ロングの提示する人間観が、「社会的な存在ではあるが、完全に社会化された存在ではない」(social but not entirely socialized)ものと人間を捉える見方である(Wrong,1961=1970,pp.38-40)。
15) 筆者の管見する限り、わが国のシンボリック相互作用論理解において、こうした「考慮の考慮」という現象を明示的に考察した研究はない。ブルーマーの立論に潜む、こうした現象に着目した数少ない論者として、N.ルーマン(Luhmann,1984=1995年、566−573頁)が挙げられる。本論で言う「考慮の考慮」とは、ルーマンの言う「期待の期待」に相当するものと思われるが、そうしたルーマンの「期待の期待」に関するわが国の研究として、佐藤、1995年を参照。なお、こうした現象を、明示的にシンボリック相互作用論のパースペクティブから考察した海外の論考として、ルーマンが挙げているものに、Blumer,1953とGlaser and Strauss,1964とSheff,1967がある(Luhmann,1984=1995年、938−939頁,参照)。とはいえ、私見では、こうした「考慮の考慮」という現象への着目は、何も目新しいものではなく、既に、C.H.クーリーの「鏡に映った自己」(looking-glass-self)概念に明示されているものでもある(Cooly,1902=1970,p.184)。
6) ストラウスらの提示する覚識文脈は、ある一定の変数の組み合わせにより編み出されたものである。彼らが用意した変数とは、二項対立としての「二人の相互作用者」と「虚偽を行うか否か(覚識の承認)」、そして三分法としての「覚識の程度」(気づいている、疑っている、気づいていない)と「アイデンティティ」(相手のアイデンティティ、自分自身のアイデンティティ、相手の目に映った自分自身のアイデンティティ)である。これらを全て掛け合わせると、論理上、36通りの覚識文脈が成立するわけであるが、そのなかより、彼らが経験的に妥当なものと判断した「文脈」が、以下に見る四つの覚識文脈である(Glaser and Strauss,1964,p.678)。
7) なお、ストラウスらは、分析の焦点に据えてこそいないものの、「覚識のない文脈」(unawareness context)という状況が経験的に存在することを指摘している(Glaser and Strauss,1964,p.679)。
8) Glaser and Strauss,1964,pp.673-674.なお、こうした「共通の定義」把握については、Scheff,1967も参照。シェフはこの論考において、相互作用に関わる自己と他者とが、互いに「彼らがあることを認識していることを私たちは認識している」(we recognized that they recognized it)状態を「相互主観的な一次の合意」(first-level-co-orientation)(訳語については、後藤、1999年、3頁、参照)とし、「私たちがあることを認識していることを彼らが認識していることを私たちは認識している」(we recognized that they recognized that we recognized it)状態を「相互主観的な二次の合意」(second-level-co-orientation)と捉え、後者をより高次の「合意」(consensus)成立段階と捉えている(Scheff,1967=1970,p.353)。またこれが第三次、第四次、第五次・・・・第n次と無限後退してゆくことによって、両者の合意の状態が「完全な合意」(complete consensus)に限りなく近づいてゆくものとシェフは捉えている(Scheff,1967=1970,pp.354-355)。
10) それを設定する上で、ストラウス等の議論が参考となる。彼らは、自らが形成する社会理論を、対象者たちが互いに相手と相互作用を行うための道具と捉え、結果として成立した理論的知見を、対象者が活用することで、より効果的に既存の相互作用を継続することが出来るか否かで、その理論の経験的妥当性の如何をはかろうとしている。詳しくは Glaser and Strauss,1965,pp.259-273=1998年、267−280頁を参照のこと。
11) 本論で浮き彫りにされた社会的相互作用把握が、果たして経験的な妥当性を持ち得るか否か、別言するならば、経験的領域における社会的相互作用を分析する分析枠組みとしてその有効性を発揮しうるか否か、その点を、まさしく「行為者の観点」からのアプローチにより、明らかにすることが、今後のわれわれの必須の作業となる。そうした作業を行う上で、ストラウスらの一連の研究(Glaser and Strauss,1964;1965)が示唆的である。ストラウスらは、1964年の論考において、人間間に生起する社会的相互作用を、互いに相手が不可視的な存在となっている自己と他者とが、「考慮の考慮」を駆使しつつ、互いに「相手のアイデンティティ」と「相手の目に映った自分自身のアイデンティティ」の双方を探り合う過程と捉え、その過程を、先に論じた四つの覚識文脈をもとに分析している。またそうした社会的相互作用把握を、1965年の著作において、終末期現場をフィールドに検証している。なお、ストラウス理論の全体像、および彼らの覚識文脈を議論したわが国の主な研究として、藤沢、1989年;1995年を参照。また、ストラウスらによる終末期現場をフィールドとした研究成果の日本の医療現場の研究への適用を考える上で、中川、1996年;森岡、1996年が示唆的である。