The Wayback Machine - https://web.archive.org/web/20240205184516/https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3492948/ecowww.leh.kagoshima-u.ac.jp/staff/kuwabara/19700121/doctor4.htm
本論で明らかにされたのは、ブルーマーのシンボリック相互作用論のパースペクティブから捉えた「動的社会」観の内実であるが、極言するならば、「シンボリックな相互作用としての社会」(society
as symbolic interaction)というブルーマーの表現からも分かるように、ブルーマーにとって「社会」とは、まず何よりも、人間間の社会的相互作用(その本来的形態がトランスアクションでありジョイント・アクションであった)が折り重なったものとして捉えられていた。したがって、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、こうした社会的相互作用は、社会の基本的単位に他ならず、それ故に、その基本的単位である社会的相互作用(トランスアクション/ジョイント・アクション)を研究すれば、「人間の社会」(human
society)というものが持つ、それ特有の性質が明らかになる。これが、ブルーマーが、シンボリック相互作用論という立場から立てた社会に対する仮説であった。
ストラウスらによれば、「社会的相互作用」(social
interaction)という現象を、如何に捉え如何に説明するかという問題は、社会学にとってきわめて重要な問題であり、M.ウェーバー、W.I.トーマス、パーソンズ、E.ゴフマンという名だたる社会学者たちの名を挙げるまでもなく、社会学の巨匠たちは、皆この問題に取り組んできたという
(Glaser and Strauss,1965,p.9=1988年、9頁)。彼らによれば、こうした社会的相互作用を論じる上での最も基本的な問題とは「相互作用を行っている人々が、どのようにして、相手と自分自身の双方を相互作用者として定義するに至るのか、また相互作用の進展につれて、必要に応じて、どのように再定義してゆくのか、という問題」(Glaser
and Strauss,1965,p.16=1988年、16頁)であると言う。ストラウスらの言う、こうした「最も基本的な問題」に照らした上で、本論で得た知見を提示するならば、それは次のように捉えられよう。すなわち、社会的相互作用とは、そこにおいて、互いに相手が不可視的な存在となっている個々人が、各々の自己相互作用の一形態としての「考慮の考慮」を駆使しつつ、互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を探り合う(定義し合う)過程である、と捉えられる。すなわち、そこにおいて、個々人は、「考慮の考慮」を駆使しつつ、相手がどのような観点を持った存在であるのか(「相手の観点」)、また相手から見て、自分自身はどのような観点を持った存在と捉えられているのか(「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」)という、この二つの事柄を絶えず想定(解釈・定義)し合わなければならない、そうした過程として社会的相互作用を把握することが出来る。また互いに相手が不可視的な存在となっているが故に、必然的に個々人は再定義を余儀なくされるのであり、それ故に、その相互作用は絶えず進展を余儀なくされる。これが、われわれが、本論より得た社会的相互作用把握であった。
ブルーマーによれば、「経験科学」の一領域を構成するシンボリック相互作用論は、その方法論的なスタンスとして、まず何よりも「経験的世界」(empirical
world)の特性を尊重しなければならない(Blumer,1969b,p.60=1991年、76頁)。ここで経験的世界とは、研究対象である行為者たちによって営まれている「人間の集団生活」(human
group life)、ないしは、そうした行為者たちによる「集合的活動」(collective
activity)のことを意味し(Blumer,1969b,p.35,pp.38-39=1991年、45頁、49頁)、それは必然的に研究者の外部に位置する領域の事象となる(Blumer,1969b,p.23=1991年、30頁)。そして通常、研究者は、こうした世界を「よく知らない」ところから研究を始めることとなる(Blumer,1969b,p.36=1991年、46頁)。であるにも関わらず、研究者は通常「人間が一般的にそうであるように、自己が抱いている既存のイメージの虜である」が故に、「他者〔=研究対象となっている行為者〕もまた、ある特定の対象を、自分、すなわち研究者が見ているのと同じように見ていると想定してしまう」傾向がある。それ故研究者は、「こうした傾向を防がなくてはならないし、自己が持つイメージを自覚的に検証するという作業を優先的に行わなくてはならない」とブルーマーは述べている(Blumer,1969b,p.52=1991年、66頁)。それを行う手法として、ブルーマーが提示しているのが、自然的探求法に他ならない。ブルーマーによれば、この手法は「探査」(exploration)と「精査」(inspection)という二つのステップからなる。
さて、こうしたふたつのステップからなる自然的探求法が含意することは、ブルーマーによれば「研究の指針となる概念と経験的観察との絶え間ない相互作用」(continuing interaction between guiding ideas and empirical observation)であると言う(Blumer,1977=1992,p.154)。換言するならば、自然的探求とは、経験的な観察を通じて、絶えず、研究者が研究対象について抱いているイメージないしは認識を、検証・改訂してゆく営みを意味している(Blumer,1969b,p.40=1991年、50−51頁;1980,p.410)。では、研究者は如何にして、そうした検証や改訂を行うことが出来るとブルーマーは捉えているのであろうか。換言すれば、研究者は如何にして、自らのイメージないしは認識が妥当なものであるか否かを知ることが出来るものと捉えられているのであろうか。ブルーマーはそれを、研究対象である「経験的世界」から研究者のイメージや認識に対して発せられる「抵抗」(resist)ないしは「語り返し」(talk
back)を手がかりとしてなされ得る、としている(Blumer,1969b,pp.21-23=1991年、27−30頁)。
以上が、自然的探求論の概要である。では、研究者が、シンボリック相互作用論のルート・イメージを分析枠組みとして用い(第1部の内容)、その上で、上記の自然的探求を行うとすれば(第2部の内容)、その研究者は如何なる方法論的な立場に立つことになるのか。それを説明しているのが、第3部の内容であるが、その第3部において、ブルーマーが提示する立場が、周知の「行為者の観点」(standpoint of
the actor)からのアプローチに他ならない。すなわち、ブルーマーによれば、上記の第1部と第2部の条件を踏まえるならば、研究者は、必然的に、その研究手法として「行為者の観点」からのアプローチを行わなければならないことになるという(Blumer,1969b,pp.47-60=1991年、60−77頁)。
シンボリック相互作用論の立場に立つ者が、自らの分析枠組みを経験的に検証する際に、研究手法ないしはその手続きの鉄則として遵守しなければならないのが、この「行為者の観点」からのアプローチである。すなわち、それは、研究者が、研究対象となる社会を、それを構成している個々の行為者の立場(position
of the actor)から捉えなければならないとする方法論的要請であった。この点について、ブルーマーは以下のように述べている。
「方法論ないしは調査の観点から言うならば、行為の研究は、行為者の立場(position
of the actor)から行われなければならない。行為というものが、その行為者によって、その人が知覚したもの、解釈したもの、判断したものから構成されるものである以上、それを研究する者は、そこで起きている状況を、行為者がそれを見るように見、行為者がそれを知覚するように対象を知覚し、行為者にとってそれが持っている意味という観点から、その対象の意味を確定し、行為者が自らの行為を組織化するそのやり方にそくして、その一連の行為を跡づけなければならない。要するに、研究者は、行為者の役割を取得し、その行為者の観点(standpoint
of the actor)から、その行為者の世界を把握しなければならない」(Blumer,1966=1969a,pp.73-74=1991年、95頁)。
「・・・・確かにブルーマーは〔個々の行為者による〕意味のやりとり(transactions
of meaning)を重視しているが、彼はそうしたやりとりが、あらゆる規模〔の行為者間〕において存在するものと捉えている。これと同じ理由で、彼が行為者に言及する際に『活動単位』(acting
unit)という用語を用いていたことを指摘しておく必要がある。すなわち、行為者とは常に個人であるわけではない。それは親族でも、協同組合でも、エスニック・グループでも、国際的なカルテルや兼任役員会(interlocking
directorates)でも、それ以外の形態の集合体でもあり得る。さらに言えば、人間の活動は、さまざまな状況のなかで生じ得るが、そうした状況もまた、その規模において変化し得るのであり、対面的なもの(face-to-face
encounters)から経済市場まで、さらには国際的な権力関係にまで広がるのである。・・・・」(Maines
and Morrione,1990,xv=1995年、11−12頁)。
「人間の社会は、行為を行っている人々から構成されているものと見なされ、そうした社会の生命は、彼らの行為から構成されているものと捉えられる。〔そうした行為を行っている〕活動単位(acting unit)〔強調は引用者〕には、個別の個々人や、その成員が共通の目的のために一緒に行為している集合体や、何らかの選挙区を代表して行為している組織(organizations
acting on behalf of a constituency)などが含まれる。・・・・人間の社会において、経験的に観察可能な活動は、すべて何らかの活動単位から生じたものである。・・・・現実にそくした分析をしていると主張する、人間の社会に関するあらゆる図式は、ひとつの人間の社会が、諸々の活動単位から構成されているという経験的な認識を尊重し、そうした認識に合致するものでなければならない」(Blumer,1962=1969a,p.85=1991年、110頁)。
仮に、自己と他者という二人の人間によって社会的相互作用が営まれているとしよう。本論で得られた知見を踏まえるならば、そうした相互作用において、二人は各々「自己相互作用」の一形態としての「考慮の考慮」を行いつつ、互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を探り合っている。こうした社会的相互作用把握を理論的・経験的に洗練させたものとして、ストラウスらの議論が挙げられる4)。ストラウスらは、1964年の論文において、人間間の社会的相互作用を、そこにおいて個々人が、各々本論の言う「考慮の考慮」を駆使することによって、互いに「相手のアイデンティティ」(the
other's identity)と「相手の目に映った自分自身のアイデンティティ」(one's
own identity in the eyes of the other)の双方を探り合っている過程と捉え、その内実を「覚識文脈」(awareness
context)という概念をもとに分析している (Glaser
and Strauss,1964)。ここで「覚識文脈」とは、ストラウスらによれば、「ある状況において、各々の相互作用者(interactant)が、互いに、相手のアイデンティティや、相手の目に映った自分自身のアイデンティティについて知っている事柄の全体的な組み合わせ」(Glaser
and Strauss,1964,p.670)を意味している。なお、ここで「知っている」とは、あくまで知る側による、相手に対する解釈・定義(「意味付与」)の次元で行われていることであり(ストラウスの用語で言えば「名付け」(naming))、知る側が、相手の内奥をダイレクトに把握しているという意味ではない5)。彼らは、その組み合わさり方の数あるタイプ6)より、四つの覚識文脈を提示している。先ず第一に、共通の定義が成立していない状態、ないしは意味が共有されていない状態。これはストラウスらの言う「閉鎖覚識文脈」(a
closed awareness context)を意味する。すなわち、二人の人間(interactant)が社会的相互作用を行っているという状況において「一方の相互作用者が、他方のアイデンティティ、ないしは他方の観点から見た自分自身のアイデンティティの何れかないしは双方を知らない」という状況を意味する7)。次にそうした状態から意味の共有へと移行してゆく過渡的な状態。これは「疑念覚識文脈」(a
suspicion awareness context)を意味する。すなわち、「一方の相互作用者が、他方の本当のアイデンティティ、ないしは他方の観点から見た自分自身のアイデンティティの何れかないしは双方について疑念を抱いている」という状況を意味する。そして「〔相互〕虚偽覚識文脈」(a
pretense awareness context)とは、双方の相互作用者が、完全に「相手のアイデンティティ」と「相手の目に映った自分自身のアイデンティティ」の双方を把握しているにも関わらず、あたかも知らないかのごとく振る舞っている、という状況を意味する。そして最後に、「オープン覚識文脈」(an
open awareness context)とは、「双方の相互作用者が、互いに相手の本当のアイデンティティと相手の目に映った自分自身のアイデンティティの双方を知っている」(そして互いに知っているということを表明し合っている)という状況を意味する(Glaser
and Strauss,1964,p.670)。そしてストラウスらは、この最後の状態を指して、社会的相互作用に参与する個々人が相互に理解し合った状態ないしは両者の間に「有意味シンボル」(=「共通の定義」)が成立した状態であると捉えている8)。
「たとえば、ある医師が、患者は自分が末期であるということ(=医師の目に映った患者自身のアイデンティティ)をまだ知っていない、と語る一方で、患者の方は、医師から伝えられている自分の病状をかなり疑っている、という状況があり得る。つまり、この場合、実際には疑念覚識文脈が成立しており、そこにおいて患者は自分の疑念を検証しようとしているにもかかわらず、医師は閉鎖覚識文脈が成立していると思っているのである。ここでもし、医師の方が、患者のそうした疑念を認識すれば、医師は患者のそうした疑念を払いのけようとするかもしれない。そしてもし医師が〔その結果として〕うまく〔患者の疑念を払いのけることに〕成功したと思えば〔実際には成功したかどうかはともかくとして〕、〔社会学者から調査を受けた際に〕、医師は、患者が疑念を抱いていたという事実を述べずに、患者はまだ事実を把握していない、とのみ答えるかもしれない。というわけで、社会学者があるひとつの覚識文脈を確定するにあたっては、いつでも各々の相互作用者の覚識を別々に〔強調は引用者〕確認することが必要とされる。最も確実な方法は、観察なりインタビューを通じて、各々の相互作用者から、〔相手の覚識の状態ではなく〕自分自身の覚識の状態についてデータを得ることである。一方のインフォーマントの言葉のみ鵜呑みにすることは、たとえオープン覚識文脈が成立している〔と思われる〕状況においても危険なことである」(Glaser
and Strauss,1964,pp.670-671)。
すなわち、研究者が取得する行為者の役割、すなわち「行為者の観点」とは、決してその研究者にダイレクトに把握されるものではなく(換言するならば、研究者がそれをダイレクトに把握することなど不可能なことであり)、あくまでそれは、究極的には、研究者による対象者の観点に関する想定(ないし解釈・定義)でしかあり得ない。その意味で、研究者による「行為者の観点」の取得という営みは「対象者の解釈過程に対する研究者の解釈過程」(reconstruction
of constructions)(徳川、1999年、15頁)でしかあり得ない。では、その解釈過程の結果として、研究者が対象者に対して適用した解釈・定義の妥当性の如何は如何にしてはかれるのであろうか。別言するならば、研究者はその「対象者の解釈過程に対する研究者の解釈過程」を如何に対自化し得るのか。先に見たように、ブルーマーは、研究者によるそうした解釈・定義の妥当性の如何を、「経験的世界」からの「語り返し」を手がかりとして検証することが出来るとしているが、では、その「語り返し」をどう処理し、どう自らの解釈・定義を修正(→確定)すればよいのかが、この説明では明らかにされているとは言い難い。その検証の基準の設定がまず課題となろうが10)、その検討については他日に譲ることにしたい。
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