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終章 経験的研究へ向けて−シンボリック相互作用論の研究手法の批判的検討−  
 序章でも述べたように、本論は、シンボリック相互作用論において、個人と社会との関係が如何なるものと捉えられているのか(ないしは論理上、如何なるものと捉えられ得るのか)、これをブルーマーのシンボリック相互作用論を素材に解明しようとするものであった。すなわち、1)シンボリック相互作用論において、個人の「社会化」 (socialization)とは、如何なるものと把握されているのか、2)シンボリック相互作用論において「社会」(society)とは、如何なるメカニズムを通じて、その個人(個々人)により、形成されてゆくものと捉えられているのか、3)また、そうした社会が何故に形成されてゆくものと捉えられているのか、こうした問いを明らかにすることが、本論の課題であった。まず、1)について答えるならば、ブルーマーにおいて個人の社会化とは、個人が「他者たちの集団」より、「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」を獲得し、そうした図式に、自らの解釈・定義を方向付けられること、と捉えられている。こうした社会化を経た個人は、自己相互作用の営みを通じて、自らが対峙する世界との間にある一定の関係を取り結ぶ。「ある一定の関係を取り結ぶ」この営みこそ、ブルーマーにおける「行為」(「個人的行為」)であった。こうした行為が、自己と他者との間で執り行われている場合、それは「社会的相互作用」と呼ばれる。こうした社会的相互作用は、「非シンボリック相互作用」と「シンボリックな相互作用」に大別され、後者のシンボリックな相互作用を通じて形成されるのが、「社会」より正確には「人間の社会」であった。2)について答えるならば、ブルーマーにおいて「人間の社会」とは、「ジョイント・アクション」(=「トランスアクション」)が折り重なったものと捉えられているが、そのジョイント・アクションとは、シンボリックな相互作用の「本来的形態」としての「有意味シンボルの使用」と等置される社会的相互作用のことを表していた。こうした意味での「社会」は、個々人が自己相互作用の一つの形態としての「考慮の考慮」を行うことにより、互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」という二つの観点を適切に把握することにより可能となるものと、ブルーマーにおいては捉えられていた。またそうした適切な把握を可能にするのが、社会化の過程を通じて獲得された「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」という二つの図式の使用であった。では、何故にこうした「社会」が形成されるものと捉えられなければならないのか。3)について答えるならば、その論理的必然性は次のように説明される。すなわち、社会がある一定の形態を保ち続けるためには、そこで用いられている「共通の定義」が永続的に維持され続けなければならないが、共通の定義が維持され続けるためには、「身振りを提示している人間は、その身振りが向けられている他者を、ある一定の見方でその身振りを見ている他者として解釈・定義し、かつそうした解釈・定義が妥当なものであり続けなければならない」という条件が必要となる。とはいえ、それを不可能にする特性が「他者」という存在にあった。他者の「不可視」性がそれに他ならない。
 以上、ここまでわれわれは、ブルーマーのシンボリック相互作用論の「動的社会」観の内実を、自己相互作用→行為→社会的相互作用(非シンボリック相互作用、シンボリックな相互作用)→ジョイント・アクション(=形成されるものとしての社会)→形成されるものとしての社会、という順序で明らかにしてきた。田中が、シンボリック相互作用論の論理展開の特徴を指して言う「『個人』から『社会』を説明しようとする発想」(田中、1971年、328頁)がここに顕著に認められる。
 本論で明らかにされたのは、ブルーマーのシンボリック相互作用論のパースペクティブから捉えた「動的社会」観の内実であるが、極言するならば、「シンボリックな相互作用としての社会」(society as symbolic interaction)というブルーマーの表現からも分かるように、ブルーマーにとって「社会」とは、まず何よりも、人間間の社会的相互作用(その本来的形態がトランスアクションでありジョイント・アクションであった)が折り重なったものとして捉えられていた。したがって、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、こうした社会的相互作用は、社会の基本的単位に他ならず、それ故に、その基本的単位である社会的相互作用(トランスアクション/ジョイント・アクション)を研究すれば、「人間の社会」(human society)というものが持つ、それ特有の性質が明らかになる。これが、ブルーマーが、シンボリック相互作用論という立場から立てた社会に対する仮説であった。
 ストラウスらによれば、「社会的相互作用」(social interaction)という現象を、如何に捉え如何に説明するかという問題は、社会学にとってきわめて重要な問題であり、M.ウェーバー、W.I.トーマス、パーソンズ、E.ゴフマンという名だたる社会学者たちの名を挙げるまでもなく、社会学の巨匠たちは、皆この問題に取り組んできたという (Glaser and Strauss,1965,p.9=1988年、9頁)。彼らによれば、こうした社会的相互作用を論じる上での最も基本的な問題とは「相互作用を行っている人々が、どのようにして、相手と自分自身の双方を相互作用者として定義するに至るのか、また相互作用の進展につれて、必要に応じて、どのように再定義してゆくのか、という問題」(Glaser and Strauss,1965,p.16=1988年、16頁)であると言う。ストラウスらの言う、こうした「最も基本的な問題」に照らした上で、本論で得た知見を提示するならば、それは次のように捉えられよう。すなわち、社会的相互作用とは、そこにおいて、互いに相手が不可視的な存在となっている個々人が、各々の自己相互作用の一形態としての「考慮の考慮」を駆使しつつ、互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を探り合う(定義し合う)過程である、と捉えられる。すなわち、そこにおいて、個々人は、「考慮の考慮」を駆使しつつ、相手がどのような観点を持った存在であるのか(「相手の観点」)、また相手から見て、自分自身はどのような観点を持った存在と捉えられているのか(「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」)という、この二つの事柄を絶えず想定(解釈・定義)し合わなければならない、そうした過程として社会的相互作用を把握することが出来る。また互いに相手が不可視的な存在となっているが故に、必然的に個々人は定義を余儀なくされるのであり、それ故に、その相互作用は絶えず進展を余儀なくされる。これが、われわれが、本論より得た社会的相互作用把握であった。
 ところで、ブルーマーのシンボリック相互作用論より得たこの社会的相互作用把握は、彼の方法論においては「感受概念」(sensitizing concept)の範疇に入るものであり、それ故、当然この相互作用把握は、そこより演繹的に理論を構成してゆくその前提として自明視・絶対視されるべきものではなく、その妥当性を個々別々の経験的世界の個々別々の事例に照らして、そうした個々別々の事例が持つ、個々別々の独自性を引き出すという形で、検証されなければならないものとなる(Blumer,1954=1969a,pp.148-149=1991年、192−194頁)。ブルーマー自身も言うように、この社会的相互作用把握は、経験的な検証にかけられ、その経験的妥当性の如何が問われなければならない。もしその妥当性が証明され得なければ、この社会的相互作用把握に固執することは許され得ない(Blumer,1969b,p.49=1991年、62頁)。
 上記の社会的相互作用把握が、感受概念の範疇に入るものである以上、それは経験的な研究を通じて、別言するならば、ブルーマーの言う、「自然的探求」(naturalistic inquiry)を通じて、更なる洗練をはかられなければならない。では、自然的探求とは如何なる研究手法のことを意味しているのか。そのことについて、以下、若干の議論を行っておきたい。
 ブルーマーのシンボリック相互作用論は、三部構成を取っている。そのことについて、ブルーマーは、彼の主著『シンボリック相互作用論』(Blumer,1969a)の第1章「シンボリック相互作用論の方法論的な立場」(Blumer,1969b)の冒頭において、次のように述べている。
 「私の〔本書第1章における〕論述方針は、まず最初に、シンボリックな相互作用の特性を素描し、次に経験科学における方法論的な原理を明らかにし、最後にシンボリック相互作用論の方法論的な立場を明確にすることである」(Blumer,1969b,p.2=1991年、2頁)。
 第1部「シンボリックな相互作用の特性」においては、シンボリック相互作用論の立場に立つブルーマーが、研究対象としての経験的世界を分析する際に用いる分析枠組み、ないしはシンボリック相互作用論の「ルート・イメージ」(root images)に関して議論がなされている。本論第1章から第3章で検討されてきたのは、まさにこのルート・イメージの内実であった。続いて第2部「経験科学における方法論的な原理」においては、「経験科学」(empirical science)を志す者なら、誰もが遵守しなければならないとする経験科学の要諦に関する議論、ならびにその要諦から導き出された経験科学の理想的な研究手法としての「自然的探求」(naturalistic inquiry)法について議論がなされている。最後に第3部「方法論的オリエンテーション」(シンボリック相互作用論の方法論的な立場)においては、もし研究者がシンボリック相互作用論のルート・イメージを分析枠組みとして採用し、その上で自然的探求を行うとすれば、その研究者は如何なる方法論的な立場に立つことになるかが論じられている。
 この三つの構成のうち、第1部の内容については、前章までに論じてきたとおりである。以下では、まず、第2部の内容について議論してゆきたい。
 ブルーマーによれば、「経験科学」の一領域を構成するシンボリック相互作用論は、その方法論的なスタンスとして、まず何よりも「経験的世界」(empirical world)の特性を尊重しなければならない(Blumer,1969b,p.60=1991年、76頁)。ここで経験的世界とは、研究対象である行為者たちによって営まれている「人間の集団生活」(human group life)、ないしは、そうした行為者たちによる「集合的活動」(collective activity)のことを意味し(Blumer,1969b,p.35,pp.38-39=1991年、45頁、49頁)、それは必然的に研究者の外部に位置する領域の事象となる(Blumer,1969b,p.23=1991年、30頁)。そして通常、研究者は、こうした世界を「よく知らない」ところから研究を始めることとなる(Blumer,1969b,p.36=1991年、46頁)。であるにも関わらず、研究者は通常「人間が一般的にそうであるように、自己が抱いている既存のイメージの虜である」が故に、「他者〔=研究対象となっている行為者〕もまた、ある特定の対象を、自分、すなわち研究者が見ているのと同じように見ていると想定してしまう」傾向がある。それ故研究者は、「こうした傾向を防がなくてはならないし、自己が持つイメージを自覚的に検証するという作業を優先的に行わなくてはならない」とブルーマーは述べている(Blumer,1969b,p.52=1991年、66頁)。それを行う手法として、ブルーマーが提示しているのが、自然的探求法に他ならない。ブルーマーによれば、この手法は「探査」(exploration)と「精査」(inspection)という二つのステップからなる。
 まず探査とは、研究者がこれまで馴染みのなかった研究対象の諸側面を「身近に幅広く知る」段階を指す。ブルーマーによれば「探査的研究の目的は、条件が許す限り、研究領域についての包括的で正確な像を、十分に描き出す」ことにある(Blumer,1969b,p.42=1991年、53頁)。つまりこの探査とは、データ収集の行程を意味する(Blumer,1969b,p.46=1991年、59頁)。またこの段階において、いわゆる「ヒューマン・ドキュメント」(human document)が援用されることとなる(Blumer,1939=1969a,pp.118-119=1991年、153−155頁)。すなわち、トーマスとズナニエッキが、その大著『ヨーロッパとアメリカにおけるポーランド農民』において用いた、インタビュー録、参与観察での聞き取り、個人の生活史、手紙、日記などの「質的データ」が用いられることとなる。
 次に精査とは、ブルーマーによれば「分析のために用いられるあらゆる分析の要素の経験的内容に関する、鋭く焦点を定めた検討であり、同様の検討を分析の諸要素間の関係についても行う」ことを意味する(Blumer,1969b,p.43=1991年、55−56頁)。すなわち、この段階において、先に収集したデータの分析がなされるわけである(Blumer,1969b,p.46=1991年、59頁)。またここで登場する「分析の要素」(analytical element)が、「感受概念」(sensitizng concept)としての役割を果たすこととなる。すなわちその分析の要素は、研究者が「経験的事例にアプローチする際に、何を考慮すべきかとか、その事例に如何にアプローチするかについての大まかな感触を与え」、研究対象である経験的事例に接近するための指針をそれを用いる研究者に与える、という役割を果たすことになるのである(Blumer,1954=1969a,p.148=1991年、192頁)。またここで分析の要素とは、具体的には、社会学者が用いる社会学の概念ないしは社会学言語のことを指している  (Blumer,1954;1969b,p.43=1991年、56頁)。なお、ブルーマーの提示するこの「感受概念」という概念については、これまで、わが国においては、主として船津によって「それ自体、一定の基準や属性を持たず、ただ一般的な方向を示すだけのものであるが、しかし現実に対し、十分な柔軟性を持つものであり、したがって、具体的現実への接近を大いに可能とするもの」である(船津、1976年、71頁)と描写され、ともすれば、感受概念とは、シンボリック相互作用論者以外の社会学者が用いている概念とは異なった、シンボリック相互作用論の特別製の概念のことを指すかのごとく捉えられてきたが、ブルーマーがその例として「文化」や「制度」そして「社会構造」といった概念を挙げているところからも分かるように、それは「ある概念のいわば性格づけ、ないしは使用法」の特殊性を表す言葉なのである(那須、1995年a、45頁)1)。
 さて、こうしたふたつのステップからなる自然的探求法が含意することは、ブルーマーによれば「研究の指針となる概念と経験的観察との絶え間ない相互作用」(continuing  interaction between guiding ideas and empirical observation)であると言う(Blumer,1977=1992,p.154)。換言するならば、自然的探求とは、経験的な観察を通じて、絶えず、研究者が研究対象について抱いているイメージないしは認識を、検証・改訂してゆく営みを意味している(Blumer,1969b,p.40=1991年、50−51頁;1980,p.410)。では、研究者は如何にして、そうした検証や改訂を行うことが出来るとブルーマーは捉えているのであろうか。換言すれば、研究者は如何にして、自らのイメージないしは認識が妥当なものであるか否かを知ることが出来るものと捉えられているのであろうか。ブルーマーはそれを、研究対象である「経験的世界」から研究者のイメージや認識に対して発せられる「抵抗」(resist)ないしは「語り返し」(talk back)を手がかりとしてなされ得る、としている(Blumer,1969b,pp.21-23=1991年、27−30頁)。
 以上、こうしたプロセスによって、「経験的世界」が「生来的にもっている進行中の性格」(natural ongoing character)を捉えようとするのが、自然的探求の目的である、とブルーマーは述べている2)。
 以上が、自然的探求論の概要である。では、研究者が、シンボリック相互作用論のルート・イメージを分析枠組みとして用い(第1部の内容)、その上で、上記の自然的探求を行うとすれば(第2部の内容)、その研究者は如何なる方法論的な立場に立つことになるのか。それを説明しているのが、第3部の内容であるが、その第3部において、ブルーマーが提示する立場が、周知の「行為者の観点」(standpoint of the actor)からのアプローチに他ならない。すなわち、ブルーマーによれば、上記の第1部と第2部の条件を踏まえるならば、研究者は、必然的に、その研究手法として「行為者の観点」からのアプローチを行わなければならないことになるという(Blumer,1969b,pp.47-60=1991年、60−77頁)。
 シンボリック相互作用論の立場に立つ者が、自らの分析枠組みを経験的に検証する際に、研究手法ないしはその手続きの鉄則として遵守しなければならないのが、この「行為者の観点」からのアプローチである。すなわち、それは、研究者が、研究対象となる社会を、それを構成している個々の行為者の立場(position of the actor)から捉えなければならないとする方法論的要請であった。この点について、ブルーマーは以下のように述べている。
 「方法論ないしは調査の観点から言うならば、行為の研究は、行為者の立場(position of the actor)から行われなければならない。行為というものが、その行為者によって、その人が知覚したもの、解釈したもの、判断したものから構成されるものである以上、それを研究する者は、そこで起きている状況を、行為者がそれを見るように見、行為者がそれを知覚するように対象を知覚し、行為者にとってそれが持っている意味という観点から、その対象の意味を確定し、行為者が自らの行為を組織化するそのやり方にそくして、その一連の行為を跡づけなければならない。要するに、研究者は、行為者の役割を取得し、その行為者の観点(standpoint of the actor)から、その行為者の世界を把握しなければならない」(Blumer,1966=1969a,pp.73-74=1991年、95頁)。
 以下、本最終章では、本論で得た「社会的相互作用とは、そこにおいて、互いに相手が不可視的な存在となっている個々人が、各々の自己相互作用の一形態としての『考慮の考慮』を駆使しつつ、互いに『相手の観点』と『相手のパースペクティブから見た自分自身の観点』の双方を探り合う(定義し合う)過程である」という、この社会的相互作用把握を経験的に検証することを、われわれの今後の課題として念頭に置いた上で、その検証作業において鉄則となる、この「行為者の観点」からのアプローチについて詳細な議論を展開しておきたい。かねてより、わが国の研究においては、船津・宝月を中心として、このアプローチの紹介は盛んになされてきたものの、それを実際に実行するに際して生じる諸問題の検討については充分になされてこなかったように思われる。またそれを実際に実行するということは如何なることを意味するのか(本当に真の「行為者の観点」をありのままに把握することなど可能なのか否か)、この点についても深い追求はなされてこなかったように思われる3)。本章では、このアプローチを実際に実行することを念頭に置いた上で、以下、詳細に議論を展開してゆくこととしたい。
 
1)「活動単位」に個人のみならず集団をも含める、という論点について
 シンボリック相互作用論の立場からするならば、人間の社会とは、それを構成する個々人の行為から成り立ち、そうした行為は、その個人が自己相互作用を通じて行う解釈・定義に基づいて行われている、ものと捉えられる。それ故に、この立場から社会を研究しようとする者は、そうした個々人の自己相互作用の内奥に入り込まなければならない。換言するならば、社会の研究は「行為者の観点」ないしは「立場」から行われなくてはならない。これが、ブルーマーの言う「行為者の観点」からのアプローチの枢要点であった。そのことについて、ブルーマーは以下のように説明している。
 「社会学者ないし人間の社会を研究しようとする者が、活動単位(acting unit)に関心を持つ限り、シンボリック相互作用論の立場からその研究者に要求されるのは、人々〔活動単位〕がそれを通じて自己の行為を構成する解釈の過程〔=自己相互作用〕を把握するということである。・・・・この過程を把握するためには、研究者は、自らが研究している、行動を行っている活動単位の役割を取得しなければならない。・・・・こうした事実を認識していたが故に、R.E.パークやW.I.トーマスといった学者の調査研究は、あれほど優れたものとなったのである。活動単位の役割を取得せずに、いわゆる『客観的』(objective)観察者の超然とした姿勢で、解釈過程を把握しようとすることは、最悪の主観主義(the worst kind of subjectivism)に陥る危険を冒すことになる」(Blumer,1962=1969a,p.86=1991年、112頁)。
 ところで、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、この「活動単位」 (acting unit)には、人間個人のみならず、集団も含まれている。そのことについて、メインズらは以下のように述べている。
 「・・・・確かにブルーマーは〔個々の行為者による〕意味のやりとり(transactions of meaning)を重視しているが、彼はそうしたやりとりが、あらゆる規模〔の行為者間〕において存在するものと捉えている。これと同じ理由で、彼が行為者に言及する際に『活動単位』(acting unit)という用語を用いていたことを指摘しておく必要がある。すなわち、行為者とは常に個人であるわけではない。それは親族でも、協同組合でも、エスニック・グループでも、国際的なカルテルや兼任役員会(interlocking directorates)でも、それ以外の形態の集合体でもあり得る。さらに言えば、人間の活動は、さまざまな状況のなかで生じ得るが、そうした状況もまた、その規模において変化し得るのであり、対面的なもの(face-to-face encounters)から経済市場まで、さらには国際的な権力関係にまで広がるのである。・・・・」(Maines and Morrione,1990,xv=1995年、11−12頁)。
 上記のメインズらの指摘は、以下のブルーマーからの引用によっても裏付けられる。ブルーマーは以下のように述べている。
 「人間の社会は、行為を行っている人々から構成されているものと見なされ、そうした社会の生命は、彼らの行為から構成されているものと捉えられる。〔そうした行為を行っている〕活動単位(acting unit)〔強調は引用者〕には、個別の個々人や、その成員が共通の目的のために一緒に行為している集合体や、何らかの選挙区を代表して行為している組織(organizations acting on behalf of a constituency)などが含まれる。・・・・人間の社会において、経験的に観察可能な活動は、すべて何らかの活動単位から生じたものである。・・・・現実にそくした分析をしていると主張する、人間の社会に関するあらゆる図式は、ひとつの人間の社会が、諸々の活動単位から構成されているという経験的な認識を尊重し、そうした認識に合致するものでなければならない」(Blumer,1962=1969a,p.85=1991年、110頁)。
 ブルーマーによれば、この活動単位に含まれているのが、人間個人であれ集団であれ、そうした活動単位の行為は、等しく、それらが行う解釈の過程の産物と捉えられなければならない(Blumer,1969b,p.16=1991年、20−21頁)。またそれ故に、上記の引用にも見るように、そこに含まれているのが人間個人であれ、集団であれ、研究者はその「活動単位の役割を取得」するという「行為者の観点」からのアプローチを実行しなければならない。これがブルーマーのシンボリック相互作用論の主たる方法論的な(研究手法上の)主張である。とはいえ、私見では、もしこの「活動単位」に集団をも含める、とするならば、このアプローチを実行する上で非常に困難な問題が生じることとなる。
 再度確認するならば、ブルーマーのシンボリック相互作用論は、その遵守すべき研究手法として「行為者の観点」からのアプローチを取っているが、それは言うなれば、研究者が、研究対象となる社会を構成する行為者の役割を取得し、その立場から社会を研究することをその内容とするものであった。こうした研究手法を堅持するのであれば、「活動単位」を人間個人と等置する場合には、その人間個人の役割を、そして集団と等置する場合には、その集団全体の役割を、研究者は取得しなければならないこととなる。とはいえ、後者の役割取得が如何にして可能であるかについて、ブルーマーは充分な説明を用意し得ていない。かつて、J.ターナーは、ブルーマーのシンボリック相互作用論が「ミクロな相互作用過程を強調する方法論を採用してきた」(Turner,1974=1992,p.115)と述べ、そうしたターナーの見解を、ブルーマーは、シンボリック相互作用論に対するミクロ主義批判と捉え(Blumer,1975=1992,pp.124-125)、それに対して反論を試みたことがあるが、ブルーマーは、その反論のなかで、シンボリック相互作用論の研究手法でもマクロな分析が可能であるとして、彼の論考である「労使関係の社会学」(Blumer,1947)を参照するよう示唆しているが(Blumer,1975=1992,p.125)、その論考の結論部において、ブルーマーは次のように述べている。
 「労使関係の分野においては、大規模で複雑な形式で観察を行わなければならない、というのは、困難なことであるが、現実にそくすためには致し方ないことである。労使関係における観察の意義と近代的な戦争における偵察の意義には相通じるものがある。自らの偵察地点にいる兵士には、その兵士の能力がどれほど優れていようとも、戦場全体で何が起きているのかを知ることは出来ない。社会学者が、ある工場で観察を行う場合にも、間違いなく同じ限界を感じることになるであろう。適切な観察を行うためには、観察者は、そのフィールドで起きていることを感じとり、さまざまな役割を取得し、さまざまな状況を判断し、そうすることを通じて、そうしたさまざまな事柄を、ある統一された形式にまとめあげるという、困難な作業を行わなければならない。われわれがそれを好むと好まざるとに関わらず、こうした観察が的確なものであるためには、高度な創造力を伴った研究者の判断が必要とされるのである」(Blumer,1947,p.277)。
 この論文を通して、ブルーマーがとりわけ強調して止まないのは、工場における労使関係(労働者と経営者との関係)を研究するに際しては、研究者は、その関係が、「対等な個人と個人との関係」としてではなく、まず何よりも「企業と組合という二つの組織同士の関係」として存在している、ということに留意しなければならないということと、研究者は、そうした組織間の相互作用という観点から、両者(労使)の相互作用を捉えなければならない、ということの二点である。すなわち、労使の相互作用を、個人と個人との相互作用という観点からではなく、それぞれの所属する組織と組織との相互作用という観点から捉え、分析しなければならない、というのが、ブルーマーのこの論文の枢要点なのである。その上で、その組織の役割を、研究者が取得することは如何にして可能か、ということについて説明しているのが、上記の引用なのであるが、確かに上記の引用を見る限り、ブルーマーは、シンボリック相互作用論の手法による組織の分析(マクロな分析)が不可能であるとは述べていない。すなわち、「活動単位」の範疇に組織(大規模な集団)を含め、その集団全体の役割を取得することが不可能なことであるとは、確かにブルーマーは述べていない。とはいえ、上記の引用を見る限り、そうした役割の取得が如何にして可能であるかについても、ブルーマーは(少なくとも体系的には)説明し得ていない。ターナーを論敵とし、シンボリック相互作用論の手法でもマクロな分析が可能であることを証明するとした、ブルーマーのこの論文は、結局のところ、それが如何にして可能であるのかを説明し得ていない不十分なものであった。
 ブルーマーも言うように、彼の企図するシンボリック相互作用論とは、「哲学学説」としてのそれではなく、「経験的な社会科学的パースペクティブの一つとしてのシンボリック相互作用論」(Blumer,1969b,p.21=1991年、27頁)であった。すなわち、「人間の集団生活と人間の行動に関する検証可能な知識を生み出すことを、その目的とするアプローチ」としての「シンボリック相互作用論」であった(Blumer,1969b,p.21=1991年、27頁)。したがってそれは、ある一定の理論的パースペクティブとそれを検証可能なものにするための実行可能なメソッドとが、一体となってかみ合ったものでなければならない。すなわち、ブルーマーのシンボリック相互作用論の立場からするならば、理論的パースペクティブと研究手法との分離・不整合は許されない。それ故に、もし、「活動単位」という概念に、「集団」をも含めるのであれば、その「集団」全体の役割を取得することを可能とする研究手法も、同時に提示されていなければならない。とはいえ、上記にも明らかなように、ブルーマーはそれを提示し得ていない。研究者が、シンボリック相互作用論のパースペクティブを用いて経験的な研究を進めるに際しては、さしあたり、この「活動単位」という概念には人間個人のみを含める、とするのが妥当であると思われる。
 ブルーマーのシンボリック相互作用論のパースペクティブを用いて、経験的な研究を進めるに際しては、この「活動単位」という概念には、人間個人のみを含めるものとする。その上で、研究者は、この「活動単位」(個人)の役割を取得しなければならないこととなる。とはいえ、研究者による人間個人の役割の取得という営みは、一見容易い作業のように思われがちであるが、そもそも、研究者が研究対象となる個人の役割を(ありのままに)取得することなど、可能な営みなのであろうか。以下では、そのことついて議論してゆくこととしたい。
 
2)「行為者の観点」を取得すること
 仮に、自己と他者という二人の人間によって社会的相互作用が営まれているとしよう。本論で得られた知見を踏まえるならば、そうした相互作用において、二人は各々「自己相互作用」の一形態としての「考慮の考慮」を行いつつ、互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を探り合っている。こうした社会的相互作用把握を理論的・経験的に洗練させたものとして、ストラウスらの議論が挙げられる4)。ストラウスらは、1964年の論文において、人間間の社会的相互作用を、そこにおいて個々人が、各々本論の言う「考慮の考慮」を駆使することによって、互いに「相手のアイデンティティ」(the other's identity)と「相手の目に映った自分自身のアイデンティティ」(one's own identity in the eyes of the other)の双方を探り合っている過程と捉え、その内実を「覚識文脈」(awareness context)という概念をもとに分析している (Glaser and Strauss,1964)。ここで「覚識文脈」とは、ストラウスらによれば、「ある状況において、各々の相互作用者(interactant)が、互いに、相手のアイデンティティや、相手の目に映った自分自身のアイデンティティについて知っている事柄の全体的な組み合わせ」(Glaser and Strauss,1964,p.670)を意味している。なお、ここで「知っている」とは、あくまで知る側による、相手に対する解釈・定義(「意味付与」)の次元で行われていることであり(ストラウスの用語で言えば「名付け」(naming))、知る側が、相手の内奥をダイレクトに把握しているという意味ではない5)。彼らは、その組み合わさり方の数あるタイプ6)より、四つの覚識文脈を提示している。先ず第一に、共通の定義が成立していない状態、ないしは意味が共有されていない状態。これはストラウスらの言う「閉鎖覚識文脈」(a closed awareness context)を意味する。すなわち、二人の人間(interactant)が社会的相互作用を行っているという状況において「一方の相互作用者が、他方のアイデンティティ、ないしは他方の観点から見た自分自身のアイデンティティの何れかないしは双方を知らない」という状況を意味する7)。次にそうした状態から意味の共有へと移行してゆく過渡的な状態。これは「疑念覚識文脈」(a suspicion awareness context)を意味する。すなわち、「一方の相互作用者が、他方の本当のアイデンティティ、ないしは他方の観点から見た自分自身のアイデンティティの何れかないしは双方について疑念を抱いている」という状況を意味する。そして「〔相互〕虚偽覚識文脈」(a pretense awareness context)とは、双方の相互作用者が、完全に「相手のアイデンティティ」と「相手の目に映った自分自身のアイデンティティ」の双方を把握しているにも関わらず、あたかも知らないかのごとく振る舞っている、という状況を意味する。そして最後に、「オープン覚識文脈」(an open awareness context)とは、「双方の相互作用者が、互いに相手の本当のアイデンティティと相手の目に映った自分自身のアイデンティティの双方を知っている」(そして互いに知っているということを表明し合っている)という状況を意味する(Glaser and Strauss,1964,p.670)。そしてストラウスらは、この最後の状態を指して、社会的相互作用に参与する個々人が相互に理解し合った状態ないしは両者の間に「有意味シンボル」(=「共通の定義」)が成立した状態であると捉えている8)。
 では、自己と他者とが相互作用を行っているという如上の状況において、二人の間に如何なる「覚識文脈」が成立しているのかを、研究者が明らかにしようとする場合、研究者は如何なる点に留意しなければならないのか。ひとつには、繰り返すまでもないが、そうした状況を、それを構成している「行為者の観点」から明らかにしなければならない。とはいえ、以下のストラウスらの引用を踏まえるならば、「行為者の観点」からのアプローチとは、その「行為者」の「観点」を鵜呑みにすることと同義ではない。
 「たとえば、ある医師が、患者は自分が末期であるということ(=医師の目に映った患者自身のアイデンティティ)をまだ知っていない、と語る一方で、患者の方は、医師から伝えられている自分の病状をかなり疑っている、という状況があり得る。つまり、この場合、実際には疑念覚識文脈が成立しており、そこにおいて患者は自分の疑念を検証しようとしているにもかかわらず、医師は閉鎖覚識文脈が成立していると思っているのである。ここでもし、医師の方が、患者のそうした疑念を認識すれば、医師は患者のそうした疑念を払いのけようとするかもしれない。そしてもし医師が〔その結果として〕うまく〔患者の疑念を払いのけることに〕成功したと思えば〔実際には成功したかどうかはともかくとして〕、〔社会学者から調査を受けた際に〕、医師は、患者が疑念を抱いていたという事実を述べずに、患者はまだ事実を把握していない、とのみ答えるかもしれない。というわけで、社会学者があるひとつの覚識文脈を確定するにあたっては、いつでも各々の相互作用者の覚識を別々に〔強調は引用者〕確認することが必要とされる。最も確実な方法は、観察なりインタビューを通じて、各々の相互作用者から、〔相手の覚識の状態ではなく〕自分自身の覚識の状態についてデータを得ることである。一方のインフォーマントの言葉のみ鵜呑みにすることは、たとえオープン覚識文脈が成立している〔と思われる〕状況においても危険なことである」(Glaser and Strauss,1964,pp.670-671)。
 すなわち、社会的相互作用に参与している自己と他者とは、互いに相手が不可視的な存在となっているもの、と捉えられる。それ故研究者が、そうした社会的相互作用を「行為者の観点」から明らかにしようとする際には、当然ながら、研究者は、社会的相互作用において、自己は他者の内面を、他者は自己の内面を、本当のところは把握しきれていない状態にある、という上記の理論的前提を方法論的な前提としても据えた上で、そうした前提に見合った調査方法を採らなければならないことになる。すなわち、ある個人の内面(覚識)はあくまでその個人から引き出されなければならないのであり、そうした個人と相互作用を営んでいる他者から引き出されるべきものなのではない。「行為者の観点」からのアプローチを実行するということは、その行為者の観点を鵜呑みにするということと同義ではない。あくまで理論算出の素材として考慮するという意味なのである 
 とはいえ、ここで忘れてはならないことは、フィールドに調査に入る研究者という存在もまた、そのフィールドにおける相互作用者(interactant)の一人に他ならないという論点である(Denzin,1970;1989a)。すなわち、研究者による調査研究という行為もまた、「一つの解釈の過程」に他ならず(Denzin,1989b)、それ故に研究者(調査者)と行為者(調査対象者)との相互作用もまた、等しくシンボリックな相互作用の範疇に入るものと捉えられなければならないことになる9)。であるならば、研究者にとってもまた、その人の役割を取得しようと思っている行為者(対象者)は、不可視的な存在として存在しているものと捉えられなければならないことになる。
 先に、本論第2章第3節で見たように、社会的相互作用において、ある個人が取得する他者の役割とは、あくまで、その個人が、そうに違いないであろうと想定した、その個人の想定する「他者の役割」であった。すなわち、そもそも、個人によるダイレクトな他者の役割の取得など不可能なことと捉えられなければならないということが、そこでは強調されていた。また、個人によるそうした想定が、いつでも正確なものであり続けることなど不可能なものと捉えられなければならないということは、本論第3章で見たとおりである。であるならば、研究者が、他者すなわち対象となる行為者の役割を取得するに際しても、同じ問題に直面することになりはしないだろうか。
 すなわち、研究者が取得する行為者の役割、すなわち「行為者の観点」とは、決してその研究者にダイレクトに把握されるものではなく(換言するならば、研究者がそれをダイレクトに把握することなど不可能なことであり)、あくまでそれは、究極的には、研究者による対象者の観点に関する想定(ないし解釈・定義)でしかあり得ない。その意味で、研究者による「行為者の観点」の取得という営みは「対象者の解釈過程に対する研究者の解釈過程」(reconstruction of constructions)(徳川、1999年、15頁)でしかあり得ない。では、その解釈過程の結果として、研究者が対象者に対して適用した解釈・定義の妥当性の如何は如何にしてはかれるのであろうか。別言するならば、研究者はその「対象者の解釈過程に対する研究者の解釈過程」を如何に対自化し得るのか。先に見たように、ブルーマーは、研究者によるそうした解釈・定義の妥当性の如何を、「経験的世界」からの「語り返し」を手がかりとして検証することが出来るとしているが、では、その「語り返し」をどう処理し、どう自らの解釈・定義を修正(→確定)すればよいのかが、この説明では明らかにされているとは言い難い。その検証の基準の設定がまず課題となろうが10)、その検討については他日に譲ることにしたい。
 社会的相互作用に従事する個々の「行為者の観点」を取得し、その立場から、本論で析出された社会的相互作用把握を経験的に検証することが、われわれの、今後の必須の課題に他ならない11)。言うなれば本論は、われわれがそうした作業を行うに際して、われわれの研究の出発点として持つことを決断した「パースペクティブの一つ」(a perspective)12)を、ブルーマーのシンボリック相互作用論をもとに論じたものに他ならない。

なお本論は、次のサイト(ページ)にもリプリントされている

「総目次」および「リプリント版」
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