The Wayback Machine - https://web.archive.org/web/20240205184510/https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3492948/ecowww.leh.kagoshima-u.ac.jp/staff/kuwabara/19700121/doctor3.htm
人間は、その人間にとって外的領域に存在する「現実の世界」(world
of reality)のなかに住んでいる。そうした現実の世界のある一定の部分を、人間が、ある一定の「パースペクティブ」(perspective)にしたがって知覚(すなわち、自己相互作用を通じて解釈・定義、ないしはその一定の部分に「意味」を付与)したものが、その人間にとっての「対象」(object)に他ならない。人間にとっての「世界」(world)とは、こうした「対象」からのみ構成されるものと、ブルーマーにおいては捉えられていた。すなわち、現実の世界とは一方では、それに対峙する人間によって意味を付与され「対象」として加工される(すなわち解釈・定義される)存在として捉えられていた。とはいえ、他方で現実の世界は、そうした人間による解釈・定義に対して、いつでも「語り返し」(talk back)する可能性を持った存在としても捉えられていた。またそうした「語り返し」を契機として、人間は、自らの解釈・定義の妥当性の如何を知ることとなり、既存の解釈・定義を修正することとなる。さらに言えば、そうした語り返しが生じる可能性がいつでもあるが故に、人間と現実の世界との関係は、絶えず、再形成されてゆく可能性を持つことになる。すなわち、ある時点において、人間が現実の世界に対して行った、ある一定の解釈・定義が、妥当なものとしてそこで永遠に固定化され続ける、ということは事実上不可能なことと捉えられなければならないことになる。別言するならば、人間にとって現実の世界とは、決して、そのありのままの姿を捉えることができない、不可視的な存在であり続けるものと捉えられなければならない。
さて、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、ある個人にとっての他者という存在もまた、そうした特性を持つ「現実の世界」の領域に存在するものと捉えられている。人間が、現実の世界より、ある一定のパースペクティブにより切り取ったものが「対象」であり、そうした「対象」は便宜上「物的対象」、「社会的対象」、「抽象的対象」の三つに大別され、そのなかのひとつ「社会的対象」の範疇に他者という存在が含まれていたことからも、そのことは理解されよう。すなわち、人間は、現実の世界に対峙しているのと同じように、「他我(alters)に対して〔も〕対峙している」(Blumer,1962=1969a,p.81=1991年、105頁)のである。したがって、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、ある個人にとっての他者という存在もまた、いつでもその個人によるその他者に対する解釈・定義に対して「語り返し」する可能性を持った存在と捉えられなければならないのであり、またそうした語り返しを契機として、個人は、自らの解釈・定義の妥当性の如何を知り、その結果として既存の解釈・定義を修正することになる、と捉えられなければならない。また同様に、そうした語り返しが生じる可能性がいつでもあるが故に、その個人と他者との関係は、絶えず、再形成されてゆくものとなる。すなわち、ある時点において、その個人が、その他者に対して行ったある一定の解釈・定義が、妥当なものとしてそこで永遠に固定化され続ける、ということは事実上不可能なことと捉えられなければならない。それ故、ある個人にとって他者という存在もまた、決してそのありのままの姿を捉えることができない、不可視的な存在であり続けるものと捉えられなければならないことになる。またそれ故に、人間の行為とは、それを見る他者から見て、本質的には「予測不可能なもの」(unpredictable)(Meltzer
et al.,1975,p.61)と捉えられなければならない。社会的相互作用に参与する個々人を、互いに相手が不可視的な存在となっているものと捉えなければならない、とするこの認識は、ストラウスらにも見られる。その点についてストラウスらは、以下のように述べている。
「人間がおかれている状態とは次のように描写し得よう。すなわち、人間は、しばしば、お互いに、本当のところ相手が何者であるのか完全にはわからないまま(without full surety
of knowing one another's true identity)行為している」(Glaser
and Strauss,1965,p.13=1988年、13頁)。
「・・・・相互作用とは、通常、静態的なもの(static)でもなければ、単に反復されて行くというものでもない。ミードにおいて、行為とは、しばしば行為者自身にとっても予期できないほどに、終わり無く展開して行くもの(open
ended)なのである。・・・・手短に言うならば、相互作用とは、いつでも変化の可能性に開かれているものであり(tend
to go somewhere)、しかも、相互作用がどのように変化して行くのかを、相互作用者がいつでも疑いの余地無く把握出来るわけではない」(Glaser
and Strauss,1964,p.674)。
ストラウスらによれば、シンボリック相互作用論のパースペクティブからするならば、「相互作用は、変化、発展し、決して静止状態にとどまらない」ものと捉えられなければならないのである(Glaser
and Strauss,1965,p.11=1988年、11頁)。
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