彼女の秘密の空中庭園 10/1 加筆
一条絵梨花はごく普通の女の子のはずだった。
父親は地方銀行の東京支店長ではあるがよくあるエリート階級の中では下の部類に入り、住んでいる東京のマンションのローンで父親がどうしようかと頭を悩ませていたのを子供心に覚えている。
そこそこ良い学校に進学し、そこそこ良い私立大学に入った後には、父親はマンションから都内の一軒家に移り住み日本のメガバンクの最年少取締役として辣腕を振るっていた。
そこにはローンで悩む父親の姿はなかった。
「絵梨花。
お前、卒業した後は考えているのかい?」
外ではメガバンクの取締役でも家では父親でしかなく、最近は小うるさく言う父親と距離感を取ろうとして少し寂しそうに母親に愚痴を言っていたりする父だが、その時は外の顔――メガバンクの取締役としての顔――で娘に問いかけていた。
「景気も良くなってきたみたいだし大手じゃなくて業績の良い中小企業にエントリーシートを送るつもりだけどそれが何か?」
「……お前が就職先が無かった時のために一つあてを用意しておいた。
もし入りたいと思うのならば、私に言いなさい」
「ふーん……」
興味がないと言えば嘘になるが、父親のコネだから桂華銀行の窓口あたりだろうと娘はなんとなく当たりを付けていた。
いずれ結婚して寿退職をするのだろうからそれも悪くないかなんて考えたから、娘は何気無しにその就職先を尋ねた。
「何処なの?
そこは?」
「桂華院公爵家。
桂華院瑠奈様付きのメイド兼秘書だよ」
父親が勤める桂華銀行を始めとした桂華グループはこの数年で急成長した財閥企業であり、華族の桂華院家によるオーナー企業でもあってその内情はあまり知られてはいなかった。
だが、帝西百貨店や赤松商事等を始めとした危ない企業を救済してその企業価値を高めている点では悪い会社ではなさそうだ。
一条絵梨花の桂華グループの感想というのはそんな所だった。
そんな訳で、企業説明会ぐらいは顔を出しておくかという事で調べてみると、企業説明会そのものをやっていない。
理由は簡単で、桂華グループは経営が危ない企業を買収して立て直す事で事業を拡大してきたが、その過程でリストラも行っていたからだ。
つまり、内部の人員は余っており、その再配置で十分という事なのだろう。
もちろん、採用0だと組織的な継承に支障が出るのである程度の採用枠はあるのだが、それらの枠はコネによってしか開かれない。
今更ながら、一条絵梨花は父がどれほどのコネを持っているのか、そのコネを惜しげもなく娘のために使ったのかを理解した。
そして、理解したがゆえに、そのコネを使わないようにしようと決意した。
寿退職の腰掛けとして座るには、あまりにもそのコネが重たすぎるのだ。
そんな事を考えつつ、数社の面接を受ける。
全てから内定をもらったが、同時に必ずこの質問を受けた。
「貴方のお父さんは、桂華銀行の一条頭取なのですか?」
と。
結局、彼らは一条絵梨花では無く、一条絵梨花の父親を見ていたという事だ。
池袋の帝西百貨店の屋上で一条絵梨花は地下街で買ったサンドイッチを食べながらため息をつく。
ある意味現実を突き付けられた形なのだが、それを受け止めるほど大人にまだなりきれていなかった。
平日の屋上遊園地は人が少なく落ち着いて食事をするのには悪くない。
そんな所に、お付きの人間を連れて少女が遊園地を歩いていた。
「だから、こういう屋上に庭園を作りたいのよ!
池を作って、その中に鯉が泳いでみたいなやつ!!」
お嬢様の我儘にしては中々スケールが大きいなという第一印象だった。
アクアリウムを趣味にしており、部屋においていた一条絵梨花はなんとなしに運命の一言をつぶやく。
「鯉ですか?
池が汚れますよ」
思ったより声が大きかったらしく、お嬢様とお付きの人が私を見る。
金髪白人だから外国人が観光に来たのだろうかと場違いな感想を抱きつつ、せっかくだからと年上らしくおせっかいをやいてやろうと一条絵梨花はお嬢様に近づく。
「鯉って雑食なんですよ。
何でも食べます。
池の生態系にものすごく影響を与えるんですよ」
お付きの人が守ろうと手を横にするのをお嬢様は制して、流暢な日本語で一条絵梨花に問いかける。
一条絵梨花は普通の女子である。
少し天然が入った普通であり、自分がいる百貨店のポスターにお嬢様が居たなという事に気付かない。
ついでに言うと、かつて父親が連れて行ってくれた帝都学習館学園の文化祭のオペラ歌手だという事もきれいに忘れている。
「そうなの?
池に鯉はなって餌をやってなんてよく見かけるけど?」
「人が管理するならそれもありかもしれません。
けど、管理しないと……」
「管理しないと……?」
ためを作って言った一条絵梨花の言葉にお嬢様はコケた。
「蚊に悩まされますよ」
水質の管理は本当に難しい。
水というのは汚れやすく、汚れた水には蚊が湧きやすい。
「お嬢様。
池で魚を眺めるという事は、冬にはしないでしょう?
寒いですし。
そうなると、春から秋、夏の水辺なんて涼しくていいでしょうね」
「でしょう♪」
得意気に頷くお嬢様に一条絵梨花は、淡々とその恐怖を伝えてゆく。
この手の話は想像力が肝である。
「着物を来て夏の夜に池の畔で……なんて素敵ですよね。
そこにやってくる蚊の群れ。
一匹だったら御の字ですが、台所の黒い悪魔と同じく奴らは一匹見たら三十匹は……」
「いーーーーーーーーーーーやーーーーーーーーーーー!!!!!」
お付きの人にしがみついて嫌がるお嬢様と、想像してしまい首をブンブン振る一条絵梨花。
何やっているのだかというお付きの人の冷たい視線なんて二人はまったく気にしていない。
「何でも食べちゃうって事は、水質管理なんかの水草なんかも食べちゃうんですよ。
で、たべるという事は出すものを出す訳で、水質が悪化しやすいんですよね。
お嬢様。
試しにお聞きしますが、鯉の池、濁っていませんでした?」
はっとしたように頷くお嬢様。
そのまま小声で小さくそれを認めた。
「たしかに緑の水で汚れていたわ……」
お嬢様はこのまま鯉を飼うという事は諦めてくれるだろう。
とはいえ、せっかくここにその手のものを買いに来ているのだから、後ろに控えていた帝西百貨店の人に悪かろう。
という訳で、お嬢様の案を尊重しながら、その計画を修正して一条絵梨花はお嬢様にこんな言葉を告げた。
「お嬢様。
ビオトープってご存知ですか?」
しばらくした後。
火鉢と水草にメダカをお買い上げになったお嬢様がお礼を言う。
「ありがとう。
とても参考になったわ。
なにかお礼をさせてください」
「いいですよ。
就職活動の気分転換になったし、それでおあいこという事で」
「え?
就職活動中だったの?
申し訳ないことしちゃった……」
「気にしないで。
一応内定取っているし、本当にやばくなったらパパにお願いしてなんとかするから。
こう見えても私のパパは、桂華銀行の偉い人なのよ♪」
「え?」
「え?」
「……え?」
最初の2つの?がお嬢様とお付きの人であり、最後の?が二人の反応に疑問符を出した一条絵梨花である。
でも、天然な一条絵梨花はその理由を勘違いする。
「そういえば、パパこの間取材受けていたからお嬢様は知っているか。
ごめんね。
まあ、パパのコネを使わずにどこまでできるかやってみたかったけど、みんなパパを見て私を見てくれないのよね。
という訳で、就職活動は続行中なのです」
「そっか。
私だったら、絶対放って置かないんだけどなー」
「その時はよろしくお願いします。
ですが、数年後には結婚退職する予定なので、腰掛けしかできませんよ」
長話をしすぎたと思った一条絵梨花はお嬢様たちを置いて、エレベーターの中に入る。
手を振ってドアを閉めながら、一条絵梨花はさよならを言った。
「さようなら。お嬢様。
自然を愛おしむ素敵な人になってね♪」
数日後。
一条絵梨花の家にえらく長いリムジンが止まる。
彼女のパパこと一条進が部屋に居た一条絵梨花を呼んだ時、彼女は趣味のアクアリウムを気分転換に眺めていた。
「え、頭取への就任祝いだってこの家をパパにくれたお嬢様がきたの!?」
「部下や重要な客を自宅に招いて泊めたりホームパーティーするのは接待業務として重要だから、仕事道具として支給してあげるわ。
不良債権として手に入った中古品でごめんね♪」
とか謝られたそうだけど豪邸もらった身としてはどう反応すればいいのやらであり、そんなお金持ちがなんでパパですらなく一介の大学生に会いに来たのか意味不明である。
「お前、お嬢様に家に押し掛けられるとかいったい何をしたんだ!?」
「知らないわよ!?」
「知らないわけ無いだろう!?」
「ほんとだって、信じてパパ!」
会ったら一発で分かった。
実は知っていた。
すごく知っていた。
「紹介しよう。
私の上司にあたる桂華院瑠奈様だよ」
一条進の顔は平静を装っているが頬から汗がぽたりと床に落ちた。
後で聞いたが、娘とお嬢様の顛末を聞いてその晩胃薬を手にしたらしい。
「ビオトープありがとう。
難しくて面白くて、あなたの事を思い出しちゃった♪」
そしてお嬢様は一条絵梨花に頭を下げたのだ。
あの大富豪のお嬢様が、ただの一介の就職活動中の学生に。
「お願いです。
あなたの平凡さを私にください」
九段下桂華タワー。
その最上階の空中庭園に来たメイド姿の一条絵梨花は、ざっと周囲を眺める。
開閉式の屋根の中には、まだまだ作りかけであるがすでに全体に土が敷き詰められ、幾本もの木がすでに植えられている。
比較的根が浅く広く成長するタイプの木ばかりなのは、空中庭園ならではの特徴だ。
深く根を張らないと枯れるような種類の木は、大量の土砂を必要とし、重量負荷の面できついからだ。
ビル風に揺れる木々の下には、瀟洒な池があり、水中植木鉢に蓮の花や葦などの水草も植えられている。
水深が割と浅いのもビルの屋上にある池ゆえの特徴だ。
水は重いのである。
足元の土をいじってみる。
「あ、やっぱりバーミキュライトだ」
比重が水の1/10と軽い土を使っている。
少しでも負荷を減らそうとしているのだろう。
ビル設計者と庭園設計者の苦労と苦悩と妥協の日々が想像できてしまう。
お嬢様の無茶振りに頭を抱える毎日だったんだろうな。
こんな特殊条件下の庭園が一条絵梨花の仕事場だ。
立ち上がり、苦笑してぼやく。
「高さ100メートル超えるって聞いていないわよ……」
標高が高くなると温度は低くなる。
高層ビルというのはちょっとした山の上みたいなものである。
「さてと、お嬢様が喜ぶ庭園を造ってみましょうか。
私、こんな事してていいのかなぁ……」
技術的なものは一条絵梨花は分からないが、分からないならばプロに聞けばいいという素直さが一条絵梨花にはあった。
何の花を植えるかとかは一条絵梨花がプロの庭師と相談しながら決める。
一応秘書兼メイドで雇われたのだが、メイドの仕事も秘書の仕事もその道のプロがしていて彼女の出番はない。
けど、お茶の席などに呼ばれて、お嬢様の話を聞いたり私の話に相槌を打ったり笑ったりしている。
それが一条絵梨花の仕事。
「まぁ、いいか。
いずれ結婚退職して居なくなるつもりだけど、その時にはこの庭園をお嬢様に捧げれば♪」
そう言って一条絵梨花は汚れても良い格好で石と土を弄る。
この九段下桂華タワー最上階の空中庭園は、後に桂華院瑠奈のお気に入りの場所となるのだが、その手入れをした一条絵梨花に敬意を払ってこの庭園の名前を『Erika's garden』と命名し、親しい者しか入れなかったという。
息抜きにビオトープ作成動画なんかを眺めて思いついた話。
で、現実にはこんな所でこんなものがあったり。
https://www.sogo-seibu.jp/ikebukuro/roof_garden/
これを標高100メートルの高層ビルの屋上に作るらしい。
鯉・蚊
祖母が趣味でメダカの育成をしていたのだが、とにかく蚊に悩まされた思い出が。
最近はTVの企画で池の水を抜いたり外来種に対する脅威とかやっているので、だいぶ時代が変わったなぁと。
10/1
読者の指摘で空中庭園回りの描写を加筆・修正。