ゴキブリが5、6匹走り去って…黒柳徹子が回想する、作家・森茉莉の壮絶なアパートでの「贅沢な思い出」
途中で、「トイレ、拝借していいかしら?」と尋ねると、「どうぞ、お入りになって。あなたのうしろよ」と言った。私の背後に、トイレのドアがあることにも気づいていなかった。中に入って、電気をつけると、やはりゴキブリが四、五匹走って、どこかへ消えた。お風呂とトイレが一緒になっているスタイルだったが、お風呂は使っている様子はなくて、どこも乾ききっていた。 とにかく、茉莉さんと話をしていると、まわりの光景はまったく気にならなかった。茉莉さんも、「汚くしていて、ごめんなさいね」みたいなことはひと言も言わなかった。あきらかに、茉莉さんにとって、部屋が雑然としていることなど、まったく取るに足らないことだった、というか、まるで目に入ってもいないみたいだった。 二分の約束は、結局、四時間になった。それでもまだ名残り惜しかった。別れ際に電話番号を交換して、私にとっては、夢を見ているような夜が終わった。 翌日の夜、早速、茉莉さんから電話があった。そして、 「今日は、息子のジャックが恋人を連れてきて、私のベッドの下で、半日、ささやきあってるの。もう、うんざりしちゃう。息子の恋人は、きれいな足を、片方は床にのばして、もう片方は膝を立てているの。彼女は、私の父が吸っていたハヴァナ産の葉巻の、箱の蓋の裏に描いてあった女神に似てるわ。息子は、恋人の膝を軽く抱くようにしてね……」 などと語り始めた。 たちまち、私の頭の中に、美しい緑色の芝生の上に、天蓋つきのベッドがあって、その上に茉莉さんが寝そべり、古い映画雑誌を眺めていて、その足元に、ハンサムな息子と美しい恋人がいる、という光景が浮かんでしまった。きっと、茉莉さんの頭の中にも、くっきりと、そんな光景が浮かんでいるに違いなかった。 やっぱり、天井まで積み上がった新聞や雑誌の山も、床いっぱいの物も、ゴキブリも、全然見えないベッドも、ガラス戸のない食器棚も、身の回りのどんな現実も、茉莉さんの世界からは消えているのだ。どんな部屋に住もうが、それはどうでもいいことで、茉莉さんの才能や美意識はいつだって変わることなく、ひとたび原稿用紙に向かえば、美と悦楽と秩序に満ちた作品を生み出せるのだ。そんなことが、人間には可能なのだ。茉莉さんは、それを私にまざまざと見せてくれた。私は、森茉莉という作家のすごさをあらためて知ったような気がして、息子と、きれいな恋人の話を聞きながら、感動のあまり、受話器を持ったまま、心が震えたものだった。 そして、誰も寄せつけない、秘密の王国のような、あの贅沢な部屋に、私を入れてくださったのは、私なら、少しは彼女の秘密をわかるだろう、と思ってのことだ、と、私はうれしかった。 夜、私の家に電話があると、最短でも二時間、長いと四、五時間にもなった。私は、茉莉さんからの電話とわかると、チョコレートなんかを用意して、寝転がって、おしゃべりを楽しんだものだ。 亡くなったのは、私が外国に行っているときだった。だから、「死後二日たって見つかった孤独死だった」と報じられたのは後で知った。でも、それも、なんか茉莉さんらしいじゃない、と私は思った。 黒柳徹子 東京乃木坂生れ。東京音楽大学声楽科卒。NHK放送劇団に入団、NHK専属のテレビ女優第一号となる。文学座研究所、ニューヨークの演劇学校で学び、テレビ、ラジオ、舞台女優として活躍。また、ユニセフ親善大使、トット基金理事長を務め、長年にわたり活動を続ける。著書は、ベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』をはじめ『トットの欠落帖』『小さいときから考えてきたこと』『新版 トットチャンネル』『トットひとり』など。 協力:新潮社 新潮社 波 Book Bang編集部 新潮社
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