《〝死球事件(昭和54年6月9日)〟のマニエル氏とは復帰後の再対戦も、互いに連絡を取り合うこともなかった。マニエル氏はその後、アメリカへ戻り、大リーグの監督(インディアンス=現ガーディアンズ、フィリーズ)を務める》
随分、後のことになるけれど、大リーグの監督になったチャーリー(マニエル)に知り合いの女性記者がアメリカで会って、話をしたらしい。
その記者によれば、彼は「ミスター八木澤はどうしている?」って聞いてきたという。そして、もしもボクに会ったら「マニエルがそう言っていた」と伝えてほしいって…。
「あぁ、彼も気にしていてくれていたんだな」と思いましたよ。ボクとしては(復帰後に)近鉄ベンチに謝罪に行ったとき、彼が「OK!」と言ってくれたことで「理解してくれた」「あれで終わった」と、思ってはいたんだけどね。
《ちなみに、幾度かの顔面への死球がきっかけとなって、米大リーグでは現在、ヘルメットの「耳当て」が、あご付近まで覆う〝フェースガード〟タイプを使う選手が多い。日本のプロ野球や高校野球でも近年、このタイプの使用が認められ、使う選手が増えている》
「日本プロ野球OBクラブ」では、少年野球を指導する機会も多い。ボクらは〝フェースガード〟タイプのヘルメットを少年野球でも使うことを推奨していますよ。
どんなスポーツでも、「ケガを防ぐこと」が何より大事ですからね。
《この年(54年)、八木澤さんの成績は28試合に登板したものの、4勝(8敗)1セーブの〝負け越し〟に終わる》
シーズン終了後、球団側から「現役引退、コーチ就任」を打診されました。
(金田正一(まさいち))監督に一方的に〝引退勧告〟をされた前年(53年)とは違う。成績が悪いのは分かっていたけれど、まだ35歳(※その年の12月1日で)。ボク自身は「まだやれる」と思っていたのです。
だから「(現役選手として)いらないのならば他球団へトレードに出してくれ」と言いましたが、実現せず、そのまま引退となりました。
(マニエルへの死球事件の)影響ですか? うーん、それはなかったと思いますけど…。
《投手としての通算成績は394試合に登板、71勝66敗8セーブ。防御率は3・32、奪三振567。オリオンズ一筋の現役生活だった》
現役は13年間でした。プロ入りしたとき、(〝甲子園、神宮のヒーロー〟と騒がれながらも)ボク自身は「3年をメド」にしていたことは話しましたよね。それから「もう1年、あと1年」と積み重ねて、やってきたわけです。
すごいボールも持っていないボクが13年もやれた一番の理由は体が丈夫だったことかな。最初のころに肘を痛めたくらいで故障らしい故障はしませんでしたからね。
心残りですか? そうですね、100勝、500試合登板はやりたかったかな。
それでも、やっぱり、「13年間もやれてよかった」という気持ちの方が、ボクには大きかったなぁ。
《55年はロッテで1年間、専任コーチを務めた。その年のオフ、西武(現埼玉西武)ライオンズから投手コーチ就任のオファーがくる。その2年前、球団を西武グループが買収、本拠地も埼玉・所沢へ移して新生ライオンズとして再スタートを切ったチームだった》
(聞き手 喜多由浩)