本能寺の変の翌日、秀吉が出した起請文を発見 事件知らずに書いたか
戦国武将・織田信長が明智光秀に討たれた天正10(1582)年6月2日の本能寺の変。その翌日、中国地方で毛利氏と戦っていた羽柴(豊臣)秀吉が、寝返った毛利方の有力武将に報奨を約束した起請文(きしょうもん)(誓約状)が見つかった。東京大学史料編纂所(へんさんじょ)の村井祐樹准教授(日本中世史)が20日明らかにした。「歴史的な大事件を知る直前の秀吉の動向がわかる貴重な史料」という。 【画像】ビルに囲まれる本能寺、65年ぶりの「変化」 大通りに姿を現した本堂 書状は縦約33センチ、横約45センチ。村井さんがネットオークションで見つけ、今年10月に購入した。 毛利氏の縁戚で備後国(現在の広島県東部)の武士だった上原元将(元祐(もとすけ)とも)にあてたとみられる内容で、天正10年6月3日の日付。「上様(信長)に対して御忠節を尽くすとのことなので、備後国の権利を与える朱印状を(信長から)受け取ってお送りします。もし備後国が当方のものにならなければ、備中国内であなたの希望する場所で二万貫をお渡しします」などと寝返りに対する報奨が記される。 書式や書体のほか、当時の書状に使われる雁皮紙(がんぴし)が用いられ、花押と呼ばれるサインにも問題がないと思われることから、本物と判断した。一番最後の宛名は失われているが、起請文の内容から、「上原右衛門大夫殿」と書かれていたと推測されるという。 当時、秀吉は備中高松城に籠(こ)もる清水宗治を包囲中だった。近くの日幡(ひばた)城にいた毛利氏の親族の上原氏が寝返ることには、大きな意味があったとみられる。 秀吉に本能寺の変の一報が伝わったのはこの日の深夜~翌日未明とされ、「秀吉が主君の信長が生きているとの認識で出した最後の文書で、当時の状況がよくうかがえる意味で貴重。まだ手に入れていない備後・備中を与えると約束するなど、大言壮語する強気な秀吉の性格が出ていて興味深い」と村井さんは話す。 織豊政権に詳しい共立女子大学の堀新教授は「きわどいタイミングで出された貴重な史料だ。毛利氏との交渉で備後・備中の譲渡はほぼ決まっていたが、それにしても備後一国は破格の好条件。上原の裏切りが対毛利戦に大きな影響を与えたと秀吉が認識していたことがうかがえる。2次史料に書かれていた上原の裏切りを裏付ける史料となるのか、今後の研究が期待される」と話す。
朝日新聞社